盛唐19ー王湾
次北固山下 北固山下に次る
客路青山外 客路(かくろ) 青山(せいざん)の外(そと)
行舟緑水前 行舟(こうしゅう) 緑水(りょくすい)の前
潮平両岸闊 潮(うしお)は平らかにして両岸闊(ひろ)く
風正一帆懸 風は正しうして一帆(いっぱん)懸(かか)かる
海日生残夜 海日(かいじつ) 残夜(ざんや)に生じ
江春入旧年 江春(こうしゅん) 旧年に入る
郷書何処達 郷書(きょうしょ) 何(いず)れの処(ところ)にか達せん
帰雁洛陽辺 帰雁(きがん) 洛陽の辺(ほとり)
⊂訳⊃
旅の航路は 島を巡ってつづき
緑の水上を 舟は滑らかに進む
広がる岸辺 満々と潮は満ち
風を受けて 帆は舟上にふくらむ
夜が明けない内に 海上に朝日が昇り
年が明けない内に 江上に春が来る
故郷からの便りは どこまで来ているだろうか
北に帰る雁たちは 洛陽の辺りに着いただろうか
⊂ものがたり⊃ 王湾(692ー750?)は東都洛陽の人。玄宗の先光二年(713)に進士に及第、江南を遊歴して文名を挙げます。地方官を務めたあと校書郎になり、宮中の図書の校訂に従事しました。天宝九載(750)ころに亡くなり、享年は五十九歳くらいです。
詩題の「北固山」(ほくこさん)は潤州(江蘇省鎮江市)の北をながれる長江中の島です。当時は島を山と呼ぶならわしでした。詩は四句ずつ前後に分かれ、前半は舟航の描写です。「青山」は北固山のこと。当時の長江は潤州のすぐ東に河口がありましたので、満潮のときは川幅が大きく拡がったといいます。
後半は北固山の下で「次」(やど)ったときの感懐です。張説は「海日 残夜に生じ 江春 旧年に入る」の対句を高く評価し、みずから墨書して政事堂に掲げ、能文の士の手本にしたといいます。結びの「帰雁」は漢代の蘇武の故事を踏まえており、故郷へ出した書信という意味を含んでいます。
次北固山下 北固山下に次る
客路青山外 客路(かくろ) 青山(せいざん)の外(そと)
行舟緑水前 行舟(こうしゅう) 緑水(りょくすい)の前
潮平両岸闊 潮(うしお)は平らかにして両岸闊(ひろ)く
風正一帆懸 風は正しうして一帆(いっぱん)懸(かか)かる
海日生残夜 海日(かいじつ) 残夜(ざんや)に生じ
江春入旧年 江春(こうしゅん) 旧年に入る
郷書何処達 郷書(きょうしょ) 何(いず)れの処(ところ)にか達せん
帰雁洛陽辺 帰雁(きがん) 洛陽の辺(ほとり)
⊂訳⊃
旅の航路は 島を巡ってつづき
緑の水上を 舟は滑らかに進む
広がる岸辺 満々と潮は満ち
風を受けて 帆は舟上にふくらむ
夜が明けない内に 海上に朝日が昇り
年が明けない内に 江上に春が来る
故郷からの便りは どこまで来ているだろうか
北に帰る雁たちは 洛陽の辺りに着いただろうか
⊂ものがたり⊃ 王湾(692ー750?)は東都洛陽の人。玄宗の先光二年(713)に進士に及第、江南を遊歴して文名を挙げます。地方官を務めたあと校書郎になり、宮中の図書の校訂に従事しました。天宝九載(750)ころに亡くなり、享年は五十九歳くらいです。
詩題の「北固山」(ほくこさん)は潤州(江蘇省鎮江市)の北をながれる長江中の島です。当時は島を山と呼ぶならわしでした。詩は四句ずつ前後に分かれ、前半は舟航の描写です。「青山」は北固山のこと。当時の長江は潤州のすぐ東に河口がありましたので、満潮のときは川幅が大きく拡がったといいます。
後半は北固山の下で「次」(やど)ったときの感懐です。張説は「海日 残夜に生じ 江春 旧年に入る」の対句を高く評価し、みずから墨書して政事堂に掲げ、能文の士の手本にしたといいます。結びの「帰雁」は漢代の蘇武の故事を踏まえており、故郷へ出した書信という意味を含んでいます。