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ティェンタオの自由訳漢詩 1843

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 南北朝44ー王褒
    渡河北             河北に渡る

  秋風吹木葉     秋風(しゅうふう)  木葉(もくよう)を吹けば
  還似洞庭波     還(ま)た洞庭(どうてい)の波に似たり
  常山臨代郡     常山(じょうざん)  代郡(だいぐん)に臨み
  亭障遶黄河     亭障(ていしょう)  黄河を遶(めぐ)る
  心悲異方楽     心は異方(いほう)の楽(がく)を悲しみ
  腸断隴頭歌     腸(はらわた)は隴頭(ろうとう)の歌に断(た)たる
  薄暮臨征馬     薄暮(はくぼ)  征馬(せいば)に臨み
  失道北山阿     道を北山(ほくざん)の阿(くま)に失う

  ⊂訳⊃
          秋風が木の葉を散らす様子は
          洞庭湖の波に似ている
          常山の関所は   代郡を見おろし
          黄河に沿って   砦が並ぶ
          異国の楽の音は 私を悲しませ
          「隴頭の歌」には  断腸の思いが募る
          日暮れに   馬を進めていると
          北の山間で  帰りの道が分からなくなった


 ⊂ものがたり⊃ 西魏に拘束され、そのまま北周に仕えて帰国できなかった南朝の知識人は庾信だけではありませんでした。王褒(おうほう)もそのひとりです。王褒(513?ー576)は琅琊の王氏一族の末裔で、生まれたのは庾信とほぼ同じです。梁の武帝にときに南昌県侯に封ぜられ、梁の末期には左僕射として江陵の元帝の宮廷に仕えていました。承聖三年(554)、西魏の大軍が江陵に押し寄せて来て、江陵は占領されます。
 王褒はこのとき捕えられて長安に連行され、北周が西魏を滅ぼすと、知識人として北周に重く用いられます。累進して車騎大将軍・少司空になり、亡くなったのは庾信よりも早く、享年六十四歳と推定されています。
 「河北に渡る」は王褒の代表作とされており、北朝の辺塞の光景を詠い、望郷の思いを吐露しています。北周で軍務についていたときの作でしょう。中四句を前後の各二句で囲む形式で、はじめの二句は楚辞「九歌」湘夫人の句を踏まえ、故郷の洞庭湖の秋を偲びます。
 中四句の「常山」は漢の代郡(河北省東北)にあった二関のひとつ常山関を指すとみられ、漢代の北の守りです。「亭障」は辺塞(国境の砦)のことで、黄河に沿って並んでいるというのも漢代の北の守りをいうのでしょう。「隴頭の歌」は梁の鼓角横吹曲のひとつで、隴山・隴阪(甘粛省甘谷県付近)の険路を詠うものです。
 結びの二句は魏の曹操の「苦寒行」(今年1月24日ー26日のブログ参照)の句を下敷きにしていますが、「道を北山の阿に失う」というのは北からもどれなくなった自分の運命を比喩的に詠うものでしょう。

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