盛唐13ー蘇頲
奉和春日幸 「春日 望春宮に幸す」
望春宮応制 に和し奉る 応制
東望望春春可憐 東に望春(ぼうしゅん)を望めば 春 憐(あわ)れむ可(べ)し
更逢晴日柳含煙 更に晴日(せいじつ)に逢(お)うて 柳 煙(けむり)を含む
宮中下見南山尽 宮中下(しも)に見る 南山の尽(つ)くるを
城上平臨北斗懸 城上平(たい)らかに臨む 北斗(ほくと)の懸かるを
細草偏承囘輦処 細草(さいそう)偏(ひと)えに承(う)く 輦(れん)を囘(めぐ)らす処
軽花微落奉觴前 軽花(けいか)微(わず)かに落つ 觴(さかずき)を奉ぐる前
宸遊対此歓無極 宸遊(しんゆう) 此(こ)れに対して歓(よろこ)び極まり無し
鳥哢声声入管絃 鳥哢(ちょうろう)声声(せいせい) 管絃(かんげん)に入る
⊂訳⊃
東に望春宮を望むと 春景色が美しい
好い天気に恵まれて 春の霞が柳に立ちこめる
宮殿からは 終南山の尽きるあたりまで見わたせ
城壁の上には 北斗の星がま近に懸かる
御車の行く所 一面の草の新芽が迎え
散る花びらは 杯の前を軽やかに舞う
遊覧の楽しみは尽きることなく
鳥たちの囀る声も 管絃の調べに和して聞こえてくる
⊂ものがたり⊃ 沈佺期や宋之問が宮廷詩の寵児だった中宗の神龍年間に、蘇頲は中書舎人になり、張説と並んで多くの宮廷詩を作っています。掲げた詩はそのころの応制の詩です。
詩題の「望春宮」(ぼうしゅんきゅう)は長安の東郊外にあった宮殿で、滻水(さんすい)の東岸と西岸に二宮があったといいます。当時は立春の日に天子が東の郊外に出て春を迎える「迎春」の儀式があり、望春宮に幸して宴会もありました。
中宗が「春日(しゅんじつ) 望春宮に幸(みゆき)す」と題する詩を作って群臣に唱和を求めました。「宸遊」は天子の遊覧であり、蘇頲はその模様を詠っています。詩には宮廷詩につきものの故事や雅語の使用もなく、素直にまとめられた七言律詩です。
蘇頲は中宗の神龍年間に父を亡くし、父親の爵位を継いで許国公に封じられています。玄宗の時代になって工部侍郎、中書侍郎に進み、宰相宋?(そうけい)と心を合わせて政事につくしました。開元四年(716)に宰相になり、開元八年(720)には礼部尚書に進みました。
益州(四川省成都市)大都督長史になって蜀に赴任する途中、二十歳の李白に面会を求められ、文才を認めた話は有名です。開元十五年(727)に亡くなり、享年は五十八歳でした。
奉和春日幸 「春日 望春宮に幸す」
望春宮応制 に和し奉る 応制
東望望春春可憐 東に望春(ぼうしゅん)を望めば 春 憐(あわ)れむ可(べ)し
更逢晴日柳含煙 更に晴日(せいじつ)に逢(お)うて 柳 煙(けむり)を含む
宮中下見南山尽 宮中下(しも)に見る 南山の尽(つ)くるを
城上平臨北斗懸 城上平(たい)らかに臨む 北斗(ほくと)の懸かるを
細草偏承囘輦処 細草(さいそう)偏(ひと)えに承(う)く 輦(れん)を囘(めぐ)らす処
軽花微落奉觴前 軽花(けいか)微(わず)かに落つ 觴(さかずき)を奉ぐる前
宸遊対此歓無極 宸遊(しんゆう) 此(こ)れに対して歓(よろこ)び極まり無し
鳥哢声声入管絃 鳥哢(ちょうろう)声声(せいせい) 管絃(かんげん)に入る
⊂訳⊃
東に望春宮を望むと 春景色が美しい
好い天気に恵まれて 春の霞が柳に立ちこめる
宮殿からは 終南山の尽きるあたりまで見わたせ
城壁の上には 北斗の星がま近に懸かる
御車の行く所 一面の草の新芽が迎え
散る花びらは 杯の前を軽やかに舞う
遊覧の楽しみは尽きることなく
鳥たちの囀る声も 管絃の調べに和して聞こえてくる
⊂ものがたり⊃ 沈佺期や宋之問が宮廷詩の寵児だった中宗の神龍年間に、蘇頲は中書舎人になり、張説と並んで多くの宮廷詩を作っています。掲げた詩はそのころの応制の詩です。
詩題の「望春宮」(ぼうしゅんきゅう)は長安の東郊外にあった宮殿で、滻水(さんすい)の東岸と西岸に二宮があったといいます。当時は立春の日に天子が東の郊外に出て春を迎える「迎春」の儀式があり、望春宮に幸して宴会もありました。
中宗が「春日(しゅんじつ) 望春宮に幸(みゆき)す」と題する詩を作って群臣に唱和を求めました。「宸遊」は天子の遊覧であり、蘇頲はその模様を詠っています。詩には宮廷詩につきものの故事や雅語の使用もなく、素直にまとめられた七言律詩です。
蘇頲は中宗の神龍年間に父を亡くし、父親の爵位を継いで許国公に封じられています。玄宗の時代になって工部侍郎、中書侍郎に進み、宰相宋?(そうけい)と心を合わせて政事につくしました。開元四年(716)に宰相になり、開元八年(720)には礼部尚書に進みました。
益州(四川省成都市)大都督長史になって蜀に赴任する途中、二十歳の李白に面会を求められ、文才を認めた話は有名です。開元十五年(727)に亡くなり、享年は五十八歳でした。