初唐40ー宋之問
奉和晦日幸 「晦日 昆明池に幸す」
昆明池応制 に和し奉る 応制
春予霊池会 春予(しゅんよ) 霊池(れいち)の会
滄波帳殿開 滄波(そうは) 帳殿(ちょうでん)開く
船凌石鯨度 船は石鯨(せきげい)を凌(しの)いで度(わた)り
槎払斗牛廻 槎(いかだ)は斗牛(とぎゅう)を払いて廻(めぐ)る
節晦蓂全落 節(せつ)は晦(かい)にして 蓂(めい) 全く落ち
春遅柳暗催 春は遅くして 柳 暗(ひそ)かに催(うなが)す
象溟看浴景 象溟(しょうめい) 浴景(よくえい)を看(み)
焼劫辨沈灰 焼劫(しょうごう) 沈灰(ちんかい)を辨(べん)ず
鎬飲周文楽 鎬飲(こういん) 周文(しゅうぶん)の楽しみ
汾歌漢武才 汾歌(ふんか) 漢武(かんぶ)の才
不愁明月尽 愁(えれ)えず 明月の尽くるを
自有夜珠来 自(おのず)から夜珠(やしゅ)の来たる有り
⊂訳⊃
うららかな春 池のほとりの宴
御座所の幕は 波打つ水にひるがえる
天子の船は 石鯨の上を越えてゆき
宮中の筏は 牽牛織女の星をかすめる
時節はみそか 蓂の莢は落ちてしまい
柳の新芽が 春を促すように膨らむ
池の向こうで 太陽の水浴みが見え
池の底では 劫火の灰も見わけられる
鎬都の酒宴 文王の愉しい集い
天子の才能は 武帝の「秋風の辞」に劣らない
月が無くても 終夜の宴に心配はない
この池には 夜光の珠があるのだから
⊂ものがたり⊃ 宋之問(そうしもん)は配流先から逃げ帰って隠れていましたので、李嶠や沈佺期よりも少し遅れて中宋朝に復帰します。中宗を取り巻く詩人のひとりに上官婉児(じょうかんえんじ)という女性がいました。
上官婉児は上官儀(じょうかんぎ)の孫で、高宗の麟徳元年(664)に祖父が武后を廃位にする詔勅を起草した罪で死罪に処せられたとき、婉児は官婢に落とされ宮中で育ちました。長ずるに従って才知が認められ、武后に用いられました。中宗になると天子の寵愛を受けて婕?(正三品)になり、景龍二年(708)には昭容(正二品)に進みます。中宗の宴遊には常に従って詩を献じ、華をそえていました。
景龍三年正月晦日、中宗は昆明池に幸(みゆき)し、群臣は中宗の「晦日(かいじつ) 昆明池に幸す」という詩に和し、詩百余篇が献上されます。池のほとりには綵台(飾り台)が設けられ、上官昭容が台に上って群臣の詩の品定めをして下に落とします。詩篇がつぎつぎと落ちてくるなか、沈・宋二人の詩が降ってきません。
しばらくして落ちて来たのは沈佺期の詩で、その評に沈・宋の詩は力量匹敵するが沈詩の結びに「微官 朽ちるに雕(ちょう)するの質 予章(よしょう)の材を覩(み)るを羞ず」とある。そのことが気力の尽きた感じを与えるとして、宋之問の詩が入選の栄を得ました。その詩が掲げた詩です。
詩は五言排律で、四句ずつ三段に分けて読むことができます。はじめの四句は宴の場を大きく描きます。「春予」は春の遊び、「霊池」は昆明池の雅称です。「帳殿」は幔幕を張り巡らした御殿という意味で、行幸の際の仮宮でしょう。その幔幕が池を波立たせている風に煽られて翻っています。「石鯨」も「斗牛」も漢代の昆明池にあった石像で、「斗牛」は牽牛と織女の像のことです。唐代には埋もれて無くなっていましたが、漢を借りて行幸の盛大さを褒めるのです。
中四句は昆明池の素晴らしさを褒めるもので、「蓂」は帝堯の宮殿の庭に生えていたという伝説上の木です。月はじめから一日にひとつずつ莢を生じ、十六日以後はひとつずつ莢を落として晦日には全部の莢を落としたといいます。「象溟」は昆明池が海のように広いこと、「浴景」は天地の東の果てに咸池という池があり、太陽は日の出前に咸池で水浴をすると信じられていました。「焼劫」にも故事があり、漢の武帝が昆明池を掘らせたとき、地底から黒い灰が出て来ました。その灰は大昔、世界が劫火に焼きつくされたときの名残りだという。その灰が池の底に見わけられると詠います。
結びの四句では宴と天子の詩才がたたえられます。「鎬飲」は周の都鎬京での酒宴のことですが、周の武王の酒宴を文王の時代に変えて用いるのは唐代の習慣です。「汾歌」は漢の武帝が汾水で遊んだときに作った「秋風の辞」のことで、中宗の詩才は武帝に劣らないと詠います。
「夜珠」にも武帝にかかわる説話があり、ある人が昆明池で釣りをしたとき、魚が糸を切って逃げました。その魚が武帝の夢に現れ、鉤を取ってくれと言います。武帝が池へ行ってみると、切れた釣り糸を咥えた魚がいたので取ってやりました。後日、武帝が池にゆくと一双の明珠が岸に置いてありました。宋之問は今日は晦日で月が出ていなくても池には夜光の珠があるから、終夜の宴には差し支えないと明珠に結びつけます。
以上、宮廷詩の典型のような作品で、故事伝説を多用して行幸の盛大さ、宴の素晴らしさを詠い上げます。天子を称えるのが応制の詩の役割です。
奉和晦日幸 「晦日 昆明池に幸す」
昆明池応制 に和し奉る 応制
春予霊池会 春予(しゅんよ) 霊池(れいち)の会
滄波帳殿開 滄波(そうは) 帳殿(ちょうでん)開く
船凌石鯨度 船は石鯨(せきげい)を凌(しの)いで度(わた)り
槎払斗牛廻 槎(いかだ)は斗牛(とぎゅう)を払いて廻(めぐ)る
節晦蓂全落 節(せつ)は晦(かい)にして 蓂(めい) 全く落ち
春遅柳暗催 春は遅くして 柳 暗(ひそ)かに催(うなが)す
象溟看浴景 象溟(しょうめい) 浴景(よくえい)を看(み)
焼劫辨沈灰 焼劫(しょうごう) 沈灰(ちんかい)を辨(べん)ず
鎬飲周文楽 鎬飲(こういん) 周文(しゅうぶん)の楽しみ
汾歌漢武才 汾歌(ふんか) 漢武(かんぶ)の才
不愁明月尽 愁(えれ)えず 明月の尽くるを
自有夜珠来 自(おのず)から夜珠(やしゅ)の来たる有り
⊂訳⊃
うららかな春 池のほとりの宴
御座所の幕は 波打つ水にひるがえる
天子の船は 石鯨の上を越えてゆき
宮中の筏は 牽牛織女の星をかすめる
時節はみそか 蓂の莢は落ちてしまい
柳の新芽が 春を促すように膨らむ
池の向こうで 太陽の水浴みが見え
池の底では 劫火の灰も見わけられる
鎬都の酒宴 文王の愉しい集い
天子の才能は 武帝の「秋風の辞」に劣らない
月が無くても 終夜の宴に心配はない
この池には 夜光の珠があるのだから
⊂ものがたり⊃ 宋之問(そうしもん)は配流先から逃げ帰って隠れていましたので、李嶠や沈佺期よりも少し遅れて中宋朝に復帰します。中宗を取り巻く詩人のひとりに上官婉児(じょうかんえんじ)という女性がいました。
上官婉児は上官儀(じょうかんぎ)の孫で、高宗の麟徳元年(664)に祖父が武后を廃位にする詔勅を起草した罪で死罪に処せられたとき、婉児は官婢に落とされ宮中で育ちました。長ずるに従って才知が認められ、武后に用いられました。中宗になると天子の寵愛を受けて婕?(正三品)になり、景龍二年(708)には昭容(正二品)に進みます。中宗の宴遊には常に従って詩を献じ、華をそえていました。
景龍三年正月晦日、中宗は昆明池に幸(みゆき)し、群臣は中宗の「晦日(かいじつ) 昆明池に幸す」という詩に和し、詩百余篇が献上されます。池のほとりには綵台(飾り台)が設けられ、上官昭容が台に上って群臣の詩の品定めをして下に落とします。詩篇がつぎつぎと落ちてくるなか、沈・宋二人の詩が降ってきません。
しばらくして落ちて来たのは沈佺期の詩で、その評に沈・宋の詩は力量匹敵するが沈詩の結びに「微官 朽ちるに雕(ちょう)するの質 予章(よしょう)の材を覩(み)るを羞ず」とある。そのことが気力の尽きた感じを与えるとして、宋之問の詩が入選の栄を得ました。その詩が掲げた詩です。
詩は五言排律で、四句ずつ三段に分けて読むことができます。はじめの四句は宴の場を大きく描きます。「春予」は春の遊び、「霊池」は昆明池の雅称です。「帳殿」は幔幕を張り巡らした御殿という意味で、行幸の際の仮宮でしょう。その幔幕が池を波立たせている風に煽られて翻っています。「石鯨」も「斗牛」も漢代の昆明池にあった石像で、「斗牛」は牽牛と織女の像のことです。唐代には埋もれて無くなっていましたが、漢を借りて行幸の盛大さを褒めるのです。
中四句は昆明池の素晴らしさを褒めるもので、「蓂」は帝堯の宮殿の庭に生えていたという伝説上の木です。月はじめから一日にひとつずつ莢を生じ、十六日以後はひとつずつ莢を落として晦日には全部の莢を落としたといいます。「象溟」は昆明池が海のように広いこと、「浴景」は天地の東の果てに咸池という池があり、太陽は日の出前に咸池で水浴をすると信じられていました。「焼劫」にも故事があり、漢の武帝が昆明池を掘らせたとき、地底から黒い灰が出て来ました。その灰は大昔、世界が劫火に焼きつくされたときの名残りだという。その灰が池の底に見わけられると詠います。
結びの四句では宴と天子の詩才がたたえられます。「鎬飲」は周の都鎬京での酒宴のことですが、周の武王の酒宴を文王の時代に変えて用いるのは唐代の習慣です。「汾歌」は漢の武帝が汾水で遊んだときに作った「秋風の辞」のことで、中宗の詩才は武帝に劣らないと詠います。
「夜珠」にも武帝にかかわる説話があり、ある人が昆明池で釣りをしたとき、魚が糸を切って逃げました。その魚が武帝の夢に現れ、鉤を取ってくれと言います。武帝が池へ行ってみると、切れた釣り糸を咥えた魚がいたので取ってやりました。後日、武帝が池にゆくと一双の明珠が岸に置いてありました。宋之問は今日は晦日で月が出ていなくても池には夜光の珠があるから、終夜の宴には差し支えないと明珠に結びつけます。
以上、宮廷詩の典型のような作品で、故事伝説を多用して行幸の盛大さ、宴の素晴らしさを詠い上げます。天子を称えるのが応制の詩の役割です。