初唐37ー李嶠
長寧公主東荘 長寧公主の東荘にて
侍宴応制 宴に侍す 応制
別業臨青甸 別業(べつぎょう) 青甸(せいでん)に臨み
鳴鑾降紫霄 鳴鑾(めいらん) 紫霄(ししょう)より降(くだ)る
長筵鵷鷺集 長筵(ちょうえん) 鵷鷺(えんろ)集(つど)い
仙管鳳皇調 仙管(せんかん) 鳳皇(ほうおう)調(しら)ぶ
樹接南山近 樹(き)は南山に接して近く
煙含北渚遥 煙は北渚(ほくしょ)を含みて遥かなり
承恩咸已酔 恩を承(う)けて咸(みな)已(すで)に酔うも
恋賞未還鑣 恋賞(れんしょう) 未(いま)だ鑣(くつわ)を還(さず)さず
⊂訳⊃
公主の別荘は 都城の東にあり
鈴を鳴らして 宮中の奥から降りてくる
盛大な宴に 百官がいならび
鳳凰が 仙界の笛を奏でる
庭の木は 終南山に触れるほど近く
たなびく霞が 北の渚を遠くにあるように見せる
君恩を受けて 列坐の者は充分に酔ったが
風物を愛でて 帰ろうとする者はいない
⊂ものがたり⊃ 復位した中宗の治世は神龍が二年、景龍が四年、あわせて六年に過ぎません。ところで武后は中宗に譲位したので、高宗の皇后の地位を認められ、武后亡きあとも武氏一族の勢威は保たれました。
加えて中宗の皇女安楽公主は武崇訓(ぶすうくん)に降嫁しており、一方、武后所生の太平公主は母親似の権力好きでした。この二人に加えて、中宗の皇后韋氏も政事に口ばしを挟むようになり、中宗のまわりは女性が権力を争う場に化していました。中宗はそうした女性たちの驕奢を止めるどころか、自分もいっしょになって享楽に耽り、遊宴に明け暮れる毎日でした。
神龍元年の政変に連座して貶謫された詩人たちは、ほどなく赦されて都に復帰しますが、まず崔融が亡くなり、杜審言も景龍二年(708)に亡くなりますので、中宗朝で活躍するのは李嶠、沈佺期、宋之問です。
中宗は景龍のころまでに皇居を長安に移していましたので、中宗の遊宴の地は長安とその近郊でした。詩人たちは天子の宴遊につき従い、競って詩を賦して宴席に華を添えました。なかでも高官になった李嶠(りきょう)は宮廷詩人の冠首でした。
詩題の「長寧公主」(ちょうねいこうしゅ)は中宗の皇女で、母親は韋后です。長寧公主は洛陽と長安に豪華な邸宅を構え、「東荘」は長安の東郊にある別荘のことでしょう。中宗と韋后が別荘を訪れたときの宴会の席で、中宗の求めに応じて作ったのがこの詩です。「応制」というのは天子の命を受けて作った詩を意味します。
「別業」は別荘のことで、東荘のことです。「青甸」の甸は王城をかこむ地域のこと、青は東を示す色ですので、東荘が長安城の東郊にあることの雅称になります。「鳴鑾」は車につける鈴。「紫霄」は紫の雲、瑞祥であるところから皇居をさします。つまり高貴な人々が鈴を鳴らしながら宮中からやってくると導入します。
中四句では宴の盛大なことと庭の広いことを褒めます。「長筵」は宴席のことですが、盛大な宴という意味が被せられています。「鵷鷺」は鳳凰と鷺のことで、整然と列をつくって飛ぶことから居並ぶ百官に喩えられます。「仙管」は仙人の吹く笛のことで、それを霊鳥の「鳳皇」(鳳凰)が吹いています。
つぎは庭に目を移します。「南山」は長安の南に聳える終南山のことで遠くにある山ですが、庭の樹が触れるほど近くに見えると詠います。「煙」は霞のことで、「北渚」(北の汀)は庭にある池の北岸のことですが、近くにある北渚が霞に包まれて遠くに見えると詠います。遠近を交差させて庭が大きくて素晴らしいことを褒めるのです。
結びの「恩を承けて」は宴会に招かれてという意味と天子の恩顧を受けての両方を含んでおり、列坐の者は別荘の美しさと君恩のあり難さに皆酔ってしまったが、帰ろうとするものはひとりもいないと、宴席の心地よさを寿ぐのです。
長寧公主東荘 長寧公主の東荘にて
侍宴応制 宴に侍す 応制
別業臨青甸 別業(べつぎょう) 青甸(せいでん)に臨み
鳴鑾降紫霄 鳴鑾(めいらん) 紫霄(ししょう)より降(くだ)る
長筵鵷鷺集 長筵(ちょうえん) 鵷鷺(えんろ)集(つど)い
仙管鳳皇調 仙管(せんかん) 鳳皇(ほうおう)調(しら)ぶ
樹接南山近 樹(き)は南山に接して近く
煙含北渚遥 煙は北渚(ほくしょ)を含みて遥かなり
承恩咸已酔 恩を承(う)けて咸(みな)已(すで)に酔うも
恋賞未還鑣 恋賞(れんしょう) 未(いま)だ鑣(くつわ)を還(さず)さず
⊂訳⊃
公主の別荘は 都城の東にあり
鈴を鳴らして 宮中の奥から降りてくる
盛大な宴に 百官がいならび
鳳凰が 仙界の笛を奏でる
庭の木は 終南山に触れるほど近く
たなびく霞が 北の渚を遠くにあるように見せる
君恩を受けて 列坐の者は充分に酔ったが
風物を愛でて 帰ろうとする者はいない
⊂ものがたり⊃ 復位した中宗の治世は神龍が二年、景龍が四年、あわせて六年に過ぎません。ところで武后は中宗に譲位したので、高宗の皇后の地位を認められ、武后亡きあとも武氏一族の勢威は保たれました。
加えて中宗の皇女安楽公主は武崇訓(ぶすうくん)に降嫁しており、一方、武后所生の太平公主は母親似の権力好きでした。この二人に加えて、中宗の皇后韋氏も政事に口ばしを挟むようになり、中宗のまわりは女性が権力を争う場に化していました。中宗はそうした女性たちの驕奢を止めるどころか、自分もいっしょになって享楽に耽り、遊宴に明け暮れる毎日でした。
神龍元年の政変に連座して貶謫された詩人たちは、ほどなく赦されて都に復帰しますが、まず崔融が亡くなり、杜審言も景龍二年(708)に亡くなりますので、中宗朝で活躍するのは李嶠、沈佺期、宋之問です。
中宗は景龍のころまでに皇居を長安に移していましたので、中宗の遊宴の地は長安とその近郊でした。詩人たちは天子の宴遊につき従い、競って詩を賦して宴席に華を添えました。なかでも高官になった李嶠(りきょう)は宮廷詩人の冠首でした。
詩題の「長寧公主」(ちょうねいこうしゅ)は中宗の皇女で、母親は韋后です。長寧公主は洛陽と長安に豪華な邸宅を構え、「東荘」は長安の東郊にある別荘のことでしょう。中宗と韋后が別荘を訪れたときの宴会の席で、中宗の求めに応じて作ったのがこの詩です。「応制」というのは天子の命を受けて作った詩を意味します。
「別業」は別荘のことで、東荘のことです。「青甸」の甸は王城をかこむ地域のこと、青は東を示す色ですので、東荘が長安城の東郊にあることの雅称になります。「鳴鑾」は車につける鈴。「紫霄」は紫の雲、瑞祥であるところから皇居をさします。つまり高貴な人々が鈴を鳴らしながら宮中からやってくると導入します。
中四句では宴の盛大なことと庭の広いことを褒めます。「長筵」は宴席のことですが、盛大な宴という意味が被せられています。「鵷鷺」は鳳凰と鷺のことで、整然と列をつくって飛ぶことから居並ぶ百官に喩えられます。「仙管」は仙人の吹く笛のことで、それを霊鳥の「鳳皇」(鳳凰)が吹いています。
つぎは庭に目を移します。「南山」は長安の南に聳える終南山のことで遠くにある山ですが、庭の樹が触れるほど近くに見えると詠います。「煙」は霞のことで、「北渚」(北の汀)は庭にある池の北岸のことですが、近くにある北渚が霞に包まれて遠くに見えると詠います。遠近を交差させて庭が大きくて素晴らしいことを褒めるのです。
結びの「恩を承けて」は宴会に招かれてという意味と天子の恩顧を受けての両方を含んでおり、列坐の者は別荘の美しさと君恩のあり難さに皆酔ってしまったが、帰ろうとするものはひとりもいないと、宴席の心地よさを寿ぐのです。