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ティェンタオの自由訳漢詩 1893

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 初唐33ー杜審言
    渡湘江               湘江を渡る

  遅日園林悲昔遊   遅日(ちじつ)    園林(えんりん)  昔遊(せきゆう)を悲しむ
  今春花鳥作辺愁   今春(こんしゅん) 花鳥(かちょう)  辺愁(へんしゅう)を作(な)す
  独憐京国人南竄   独り憐れむ  京国(けいこく)の人(ひと)南竄(なんざん)せられ
  不似湘江水北流   湘江(しょうこう)の水の北流するに似(に)ざることを

  ⊂訳⊃
          麗らかな春の園林で  遊んだ昔が懐かしい

          今年咲く花  鳥の声  辺土の愁いとなるばかり

          湘江の水は北へ流れ  都びとの私は南へ流される

          いつ北へ帰れるのか  ひとりわが身を憐れんでいる


 ⊂ものがたり⊃ 史書は武后の末年、張易之・張昌宗兄弟への武后の寵愛を伝えています。そうでなくても、唐朝の臣にとって武后の周王朝は許しがたいものでした。
 聖歴元年(698)に武后は七十歳くらいになっていたと推定されます。高齢であり、体も弱って来ていたので、後継者を決める必要がありました。狄仁傑(てきじんけつ)ら大官は廬陵王に貶とされ配所にいた廃帝中宗を召還して太子に立てることに成功しました。
 武后の病は長安年間の末には重篤になり、神龍元年(705)正月、寒門出身の宰相張柬之(ちょうかんし)ら有志数人が張兄弟の誅滅を決意します。皇太子中宗を奉じて宮中に攻め入り、張兄弟を殺害しました。中宗は監国に就任しますが、すぐに武后から譲位され、即位して国号を唐に復しました。武后は洛陽の離宮上陽宮に移され、その年の十一月に亡くなります。
 神龍元年の政変によって、武后に用いられていた文人の多くが張兄弟に阿付した罪に問われて貶謫されます。「文章の四友」も罪に問われ、杜審言は峰州(ベトナム・ハノイ付近)に流されます。
 詩題の「湘江」は湖南を北流して洞庭湖に注ぐ川で、杜審言はこの川を遡って峰州に向かいました。「遅日」は『詩経』豳風「七月」に「春日遅遅」とあるのに基づき、麗らかな春の日です。「昔遊」はかつての行楽、都の日々を懐かしんでいるのでしょう。「辺愁」は辺境の地にあることの憂いであり、流謫の身を嘆きます。

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