杜牧ー135
将赴呉興 登 将に呉興に赴かんとして
楽遊原一絶 楽遊原に登る 一絶
清時有味是無能 清時(せいじ)に味わい有るは 是(こ)れ無能(むのう)
愛孤雲静愛僧 閑(かん)は孤雲(こうん)を愛し 静(せい)は僧を愛す
欲把一麾江海去 一麾(いっき)を把(と)りて 江海(こうかい)に去(ゆ)かんと欲し
楽遊原上望昭陵 楽遊原上 昭陵(しょうりょう)を望む
⊂訳⊃
泰平の世を 楽しく暮らす能なしよ
ぽっかり浮かぶちぎれ雲 僧侶と語る閑雅がよい
今まさに一本の旗を持ち 江南の海辺へゆこうとし
楽遊原上 はるかに昭陵を眺めやる
⊂ものがたり⊃ 杜牧は『孫子注』三巻を書き上げると、それを宰相周墀(しゅうち)に献上しました。杜牧の軍備・用兵・戦術、経世済民の思想を集大成したもので、心を込めて書いたものですが、受納され書庫に納められただけでした。
杜牧は次第に官途への関心を失いはじめていました。大州の刺史になってもどってくるという弟杜との約束も思い出され、閏十月に杜牧は「宰相に上りて杭州を求める啓」を上書しました。杭州刺史への転出を願い出たのですが、聴き入れる返事はありませんでした。
十二月になって李徳裕が山の任地で病没したという報せが届きましたが、杜牧にはもはや何の感慨もありません。この年、従兄の杜悰(とそう)も再度の剣南西川節度使に任ぜられ、都をあとにしました。
年が明けて大中四年(850)になり、杜牧は吏部員外郎の告身を受けました。吏部員外郎は文官の職事官の人事を行う部署ですので、万人の望む地位でしたが、杜牧にはいまさらという感情があります。家長として家属のために収入の増加をはかる必要も肩に重くのしかかっていました。
そのころ杜牧は、湖州刺史が満期になるのを知りました。吏部員外郎であれば、当然知りえる情報です。湖州は友人の張文規(ちょうぶんき)がかつて赴任した地であり、その地の豊かな土地柄については耳にしていましたので、杜牧は意を決して「宰相に上りて湖州を求める啓」を上書しました。希望地を杭州よりも一段下げての転出願いです。
それが聴き入れられないとみるや、第二啓、第三啓と立てつづけに上書をし、最後には揚州にいる家属の面倒をみなければならないという個人的な理由まで持ち出して請願しました。その結果、願いは秋七月になってやっと認められ、湖州にゆくことになりました。
掲げた詩は、湖州への出発を前にして、初秋の楽遊原に登り、長安の都を一望したときの作品です。詩題で「呉興」(ごこう)と言っているのは湖州のことです。起句で「無能」と言っていますが杜牧自身のことで、自分を能なしと嗤い、「閑は孤雲を愛し 静は僧を愛す」と隠者への思いを詠います。しかし、現実には刺史の旗を立てて江南へ赴く身です。
「昭陵」は唐の太宗李世民(りせいみん)の眠る陵で、杜牧は楽遊原の高台から北に望む皇陵を祈るような気持ちで眺めます。杜牧は国家の将来について不安を感じていたようです。
杜牧ー136
登楽遊原 楽遊原に登る
長空澹澹孤鳥没 長空(ちょうくう)澹澹(たんたん)として 孤鳥(こちょう)没す
万古銷沈向此中 万古(ばんこ)銷沈(しょうちん)して 此中(ここ)に向(あ)り
看取漢家何似業 看取(かんしゅ)せよ 漢家(かんか) 何似(いか)なる業(ぎょう)ぞ
五陵無樹起秋風 五陵 樹(き)の 秋風(しゅうふう)を起こす無し
⊂訳⊃
果てしない空の彼方 一羽の鳥が消え去った
悠久の時は流れて ここに埋まっている
見よ 漢の王朝も いかなる功業を残したのか
五陵のあたり秋の風 樹々を揺るがすこともない
⊂ものがたり⊃ この詩も湖州への出発を前にして楽遊原に登ったときの作品と思われます。空の果てに消えた「孤鳥」とは、杜牧自身の姿もしくは心でしょう。杜牧は楽遊原に登って、みずからの人生をかえりみ、漢を借りて唐朝の衰亡に思いを馳せるのです。
「五陵」(ごりょう)は漢の皇帝の陵墓の集中する地区ですが、遠くに五陵のあるあたりを望み見て、「五陵 樹の 秋風を起こす無し」と、胸には虚ろな感慨、茫々とした思いが湧いてくるのでした。
杜牧ー137
将赴湖州 将に湖州に赴かんとして
留題亭菊 亭菊に留題す
陶菊手自種 陶菊(とうきく) 手自(てずか)ら種(う)え
楚蘭心有期 楚蘭(そらん) 心に期する有り
遥知渡江日 遥かに知る 江(こう)を渡るの日
正是擷芳時 正(まさ)に是(こ)れ 芳(ほう)を擷(つ)むの時なるを
⊂訳⊃
陶淵明が愛した菊は 自分で庭に植え
屈原のゆかりの蘭に やがて会うのが楽しみだ
長江を渡るころには 菊の花も摘みごろだろう
菊花の節句は はるか遠くから偲ぶとしよう
⊂ものがたり⊃ 杜牧は湖州への出発に際し、陶淵明の生き方や屈原の運命に思いをいたし、自宅の庭に菊の種をまきました。やがて咲くであろう菊の花に題して、留別の詩を残します。
長江を渡るころには重陽の節句になっており、菊の花も摘みごろに育っているであろうと詠います。自分で希望した地方勤めとはいえ、中央での出世をあきらめて出てゆくような転勤ですので、杜牧の心にはひそかな哀惜の思いがあったでしょう。
杜牧ー138
汴河懐古 汴河懐古
錦䌫龍舟隋煬帝 錦䌫(きんらん)の龍舟(りゅうしゅう)は 隋の煬帝(ようだい)
平台複道漢梁王 平台(へいだい)の複道(ふくどう)は 漢の梁王(りょうおう)
遊人閑起前朝念 遊人(ゆうじん)閑(すず)ろに起こす 前朝の念(ねん)
折柳孤吟断殺腸 折柳(せつりゅう)孤(ひと)たび吟ずれば 腸(はらわた)を断殺す
⊂訳⊃
錦䌫の龍舟 栄華をきわめる隋の煬帝
平台の複道 贅美をつくした漢の梁王
汴河を往けば かつての御代を想い出し
折楊柳の一曲に 私の腸は千切れるようだ
⊂ものがたり⊃ 長安を発った杜牧は、船で江南へ向かいます。汴河(べんが)は江南への運河に連なる水路で、滎陽(けいよう:河南省滎陽県)で黄河とわかれ、黄河の南を併行して東へ流れています。一昨年の冬に西へたどった水路を、今度は秋おそく東へ下るのです。
杜牧は揚州の街を築いた煬帝を評価していた時期もありました。しかし、いまは亡国の帝王という思いを強く感じています。煬帝は「龍舟」に乗って運河をゆききしたと詠い、漢の「梁王」は雎陽(すいよう:河南省商丘市の南)の景勝地に梁園や平台を設け、詩人たちを集めて贅沢を極めたと詠います。そうした王侯貴族の栄華のさまを想うにつけ、杜牧は唐朝の未来に、はらわたが千切れるような不安を覚えるのでした。
湖州への途中、杜牧は揚州の杜の家に立ち寄りますが、杜はもはや光を感ずることができず、すっかり老いて弱々しくなっていました。杜牧は弟を励まし、妹に世話を頼んで、冬十一月に湖州に着きました。
将赴呉興 登 将に呉興に赴かんとして
楽遊原一絶 楽遊原に登る 一絶
清時有味是無能 清時(せいじ)に味わい有るは 是(こ)れ無能(むのう)
愛孤雲静愛僧 閑(かん)は孤雲(こうん)を愛し 静(せい)は僧を愛す
欲把一麾江海去 一麾(いっき)を把(と)りて 江海(こうかい)に去(ゆ)かんと欲し
楽遊原上望昭陵 楽遊原上 昭陵(しょうりょう)を望む
⊂訳⊃
泰平の世を 楽しく暮らす能なしよ
ぽっかり浮かぶちぎれ雲 僧侶と語る閑雅がよい
今まさに一本の旗を持ち 江南の海辺へゆこうとし
楽遊原上 はるかに昭陵を眺めやる
⊂ものがたり⊃ 杜牧は『孫子注』三巻を書き上げると、それを宰相周墀(しゅうち)に献上しました。杜牧の軍備・用兵・戦術、経世済民の思想を集大成したもので、心を込めて書いたものですが、受納され書庫に納められただけでした。
杜牧は次第に官途への関心を失いはじめていました。大州の刺史になってもどってくるという弟杜との約束も思い出され、閏十月に杜牧は「宰相に上りて杭州を求める啓」を上書しました。杭州刺史への転出を願い出たのですが、聴き入れる返事はありませんでした。
十二月になって李徳裕が山の任地で病没したという報せが届きましたが、杜牧にはもはや何の感慨もありません。この年、従兄の杜悰(とそう)も再度の剣南西川節度使に任ぜられ、都をあとにしました。
年が明けて大中四年(850)になり、杜牧は吏部員外郎の告身を受けました。吏部員外郎は文官の職事官の人事を行う部署ですので、万人の望む地位でしたが、杜牧にはいまさらという感情があります。家長として家属のために収入の増加をはかる必要も肩に重くのしかかっていました。
そのころ杜牧は、湖州刺史が満期になるのを知りました。吏部員外郎であれば、当然知りえる情報です。湖州は友人の張文規(ちょうぶんき)がかつて赴任した地であり、その地の豊かな土地柄については耳にしていましたので、杜牧は意を決して「宰相に上りて湖州を求める啓」を上書しました。希望地を杭州よりも一段下げての転出願いです。
それが聴き入れられないとみるや、第二啓、第三啓と立てつづけに上書をし、最後には揚州にいる家属の面倒をみなければならないという個人的な理由まで持ち出して請願しました。その結果、願いは秋七月になってやっと認められ、湖州にゆくことになりました。
掲げた詩は、湖州への出発を前にして、初秋の楽遊原に登り、長安の都を一望したときの作品です。詩題で「呉興」(ごこう)と言っているのは湖州のことです。起句で「無能」と言っていますが杜牧自身のことで、自分を能なしと嗤い、「閑は孤雲を愛し 静は僧を愛す」と隠者への思いを詠います。しかし、現実には刺史の旗を立てて江南へ赴く身です。
「昭陵」は唐の太宗李世民(りせいみん)の眠る陵で、杜牧は楽遊原の高台から北に望む皇陵を祈るような気持ちで眺めます。杜牧は国家の将来について不安を感じていたようです。
杜牧ー136
登楽遊原 楽遊原に登る
長空澹澹孤鳥没 長空(ちょうくう)澹澹(たんたん)として 孤鳥(こちょう)没す
万古銷沈向此中 万古(ばんこ)銷沈(しょうちん)して 此中(ここ)に向(あ)り
看取漢家何似業 看取(かんしゅ)せよ 漢家(かんか) 何似(いか)なる業(ぎょう)ぞ
五陵無樹起秋風 五陵 樹(き)の 秋風(しゅうふう)を起こす無し
⊂訳⊃
果てしない空の彼方 一羽の鳥が消え去った
悠久の時は流れて ここに埋まっている
見よ 漢の王朝も いかなる功業を残したのか
五陵のあたり秋の風 樹々を揺るがすこともない
⊂ものがたり⊃ この詩も湖州への出発を前にして楽遊原に登ったときの作品と思われます。空の果てに消えた「孤鳥」とは、杜牧自身の姿もしくは心でしょう。杜牧は楽遊原に登って、みずからの人生をかえりみ、漢を借りて唐朝の衰亡に思いを馳せるのです。
「五陵」(ごりょう)は漢の皇帝の陵墓の集中する地区ですが、遠くに五陵のあるあたりを望み見て、「五陵 樹の 秋風を起こす無し」と、胸には虚ろな感慨、茫々とした思いが湧いてくるのでした。
杜牧ー137
将赴湖州 将に湖州に赴かんとして
留題亭菊 亭菊に留題す
陶菊手自種 陶菊(とうきく) 手自(てずか)ら種(う)え
楚蘭心有期 楚蘭(そらん) 心に期する有り
遥知渡江日 遥かに知る 江(こう)を渡るの日
正是擷芳時 正(まさ)に是(こ)れ 芳(ほう)を擷(つ)むの時なるを
⊂訳⊃
陶淵明が愛した菊は 自分で庭に植え
屈原のゆかりの蘭に やがて会うのが楽しみだ
長江を渡るころには 菊の花も摘みごろだろう
菊花の節句は はるか遠くから偲ぶとしよう
⊂ものがたり⊃ 杜牧は湖州への出発に際し、陶淵明の生き方や屈原の運命に思いをいたし、自宅の庭に菊の種をまきました。やがて咲くであろう菊の花に題して、留別の詩を残します。
長江を渡るころには重陽の節句になっており、菊の花も摘みごろに育っているであろうと詠います。自分で希望した地方勤めとはいえ、中央での出世をあきらめて出てゆくような転勤ですので、杜牧の心にはひそかな哀惜の思いがあったでしょう。
杜牧ー138
汴河懐古 汴河懐古
錦䌫龍舟隋煬帝 錦䌫(きんらん)の龍舟(りゅうしゅう)は 隋の煬帝(ようだい)
平台複道漢梁王 平台(へいだい)の複道(ふくどう)は 漢の梁王(りょうおう)
遊人閑起前朝念 遊人(ゆうじん)閑(すず)ろに起こす 前朝の念(ねん)
折柳孤吟断殺腸 折柳(せつりゅう)孤(ひと)たび吟ずれば 腸(はらわた)を断殺す
⊂訳⊃
錦䌫の龍舟 栄華をきわめる隋の煬帝
平台の複道 贅美をつくした漢の梁王
汴河を往けば かつての御代を想い出し
折楊柳の一曲に 私の腸は千切れるようだ
⊂ものがたり⊃ 長安を発った杜牧は、船で江南へ向かいます。汴河(べんが)は江南への運河に連なる水路で、滎陽(けいよう:河南省滎陽県)で黄河とわかれ、黄河の南を併行して東へ流れています。一昨年の冬に西へたどった水路を、今度は秋おそく東へ下るのです。
杜牧は揚州の街を築いた煬帝を評価していた時期もありました。しかし、いまは亡国の帝王という思いを強く感じています。煬帝は「龍舟」に乗って運河をゆききしたと詠い、漢の「梁王」は雎陽(すいよう:河南省商丘市の南)の景勝地に梁園や平台を設け、詩人たちを集めて贅沢を極めたと詠います。そうした王侯貴族の栄華のさまを想うにつけ、杜牧は唐朝の未来に、はらわたが千切れるような不安を覚えるのでした。
湖州への途中、杜牧は揚州の杜の家に立ち寄りますが、杜はもはや光を感ずることができず、すっかり老いて弱々しくなっていました。杜牧は弟を励まし、妹に世話を頼んで、冬十一月に湖州に着きました。