杜牧ー129
長安雪後 長安 雪後
秦陵漢苑参差雪 秦陵(しんりょう) 漢苑 参差(しんし)として雪なり
北闕南山次第春 北闕(ほくけつ) 南山 次第に春なり
車馬満城原上去 車馬(しゃば) 城に満ちて 原上(げんじょう)に去(ゆ)く
豈知惆悵有閑人 豈に知らんや 惆悵(ちゅうちょう)として閑人(かんじん)有るを
⊂訳⊃
驪山の陵や上林苑 雪はあたりに舞い散るが
北の皇居や終南山 こちらはようやく春めいてきた
馬車は城内に溢れ 楽遊原へ繰り出してゆく
人々は気づくまい 暇人がここに憂えていることを
⊂ものがたり⊃ 旅の途中、杜牧は牛僧孺が都で亡くなったことを聞きました。享年六十九歳であったと言われています。杜牧の生涯に少なからず影響を与えた党争の指導者は、牛李双方とも都から消えてしまったのです。
杜牧が長安に着いたのは、冬十二月でした。司勲員外郎・史館修撰として、すぐに大明宮の尚書省に出仕をはじめます。明けて大中三年(849)、杜牧は四十七歳になりますが、依然として従六品上の員外郎です。この年は春になっても雪が降るほど寒気が厳しく、長安は年が明けても冬景色でした。
起句の「秦陵」は驪山の北麓にある秦の始皇帝陵かも知れませんが、つぎに「漢苑」とありますので、秦漢を借りる技法でしょう。春の雪もようやく止んで長安に春が訪れ、人々は城内の行楽地楽遊原(らくゆうげん)へと繰り出してゆきますが、杜牧はそれを斜(はす)に眺めています。
杜牧ー130
春晩題韋家亭子 春の晩 韋家の亭子に題す
擁鼻侵襟花草香 鼻を擁(ふさ)ぎ襟(きん)を侵して 花草(かそう)香(かんば)し
高台春去恨茫茫 高台(こうだい) 春去りて 恨み茫茫たり
蔫紅半落平池晩 蔫紅(えんこう)半(なか)ば落つ 平池(へいち)の晩(くれ)
曲渚飄成錦一張 曲渚(きょくしょ)飄(ただよ)い成(な)す 錦一張(きんいっちょう)
⊂訳⊃
草花のむせる香が 鼻を塞ぎ襟に満ち
高楼にのぼれば 過ぎゆく春の恨みはつきない
夕闇のせまる池に 花くれないはあでやかに散り
花びらは入江に漂って 一張の錦のようだ
⊂ものがたり⊃ 憂い顔の杜牧ですが、勤めは暇です。杜牧はかねて研究していた『孫子』十三篇に注をほどこす仕事をはじめました。『孫子』は兵書であると同時に経国の書でもあります。
長安の人々は暖かくなると楽遊原へ繰り出しますが、杜牧は郊外の樊川(はんせん)に出かけます。樊川は川の名前ではありません。川は当時、水(すい)と呼ばれ、川沿いの土地を川(せん)と言っていました。
詩題の「韋家(いか)の亭子(ていし)」は杜氏と並ぶ名門韋氏の別墅(べつしょ:別荘)のことで、樊川の韋曲(いきょく)にありました。野山には草花がむせかえるような香りを放って咲き乱れていました。杜牧は近くの朱坡(しゅは)にあった祖父杜佑の別墅も訪れたでしょう。春の自然の華やかさのなかで、すべては荒れ果ててしまっていました。
杜牧ー131
過田家宅 田家の宅を過ぐ
安邑南門外 安邑(あんゆう) 南門の外
誰家板築高 誰(た)が家か 板築(はんちく)高き
奉誠園裏地 奉誠園裏(ほうせいえんり)の地
牆缺見蓬蒿 牆(しょう)缺(か)けて 蓬蒿(ほうこう)を見る
⊂訳⊃
安邑坊の坊門を 南へゆくと
だれが住むのか 高々と塀をめぐらす
豪奢な馬燧の邸宅は 奉誠園となり
土塀は崩れ 茂っているのは蓬だけ
⊂ものがたり⊃ 杜牧は久し振りの長安城内を歩いてみます。注意して見ると、城内には新しい大きな邸宅もあり、荒れた邸の跡もあります。「安邑」は長安東街の安邑坊のことで、その南の坊門から少し南へ行ったところとは宣平坊のあたりでしょう。
長安城内の南部の坊は、城内とはいっても農家や寺院、農地や林地などが多く、詩題の「田家(でんか)の宅」というのは、そうした城内の田園地帯の家のことです。宣平坊は楽遊原のある台地を背にした微高地にあり、緑の多い地帯でした。そのあたりが高級官吏の住む新しい住宅地になっていて、「板築高き」、つまり板築で高く築いた塀の邸ができていたりしました。
安邑坊は東市の南に隣接する坊で、「奉誠園」は安邑坊内にありました。もとは馬燧(ばすい)の邸宅でしたが、馬燧の死後、半ば強制的に朝廷に献上させられました。豪奢な建物は解体されて宮中に運ばれ、跡地は奉誠園になっていましたが、それもいまは板築の土塀も崩れ、蓬蒿の茂る荒れ地になっていたのです。
杜牧ー132
過勤政楼 勤政楼に過る
千秋佳節名空在 千秋(せんしゅう)の佳節(かせつ) 名(な)空(むな)しく在り
承露糸嚢世已無 承露(しょうろ)の糸嚢(しのう) 世(よ)已(すで)に無し
唯有紫苔偏称意 唯だ紫苔(したい)のみ 偏(ひと)えに意(こころ)に称(かな)う有りて
年年因雨上金鋪 年年 雨に因(よ)りて 金鋪(きんぽ)に上る
⊂訳⊃
玄宗の千秋節も いまはその名を残すだけ
承露嚢の習慣も 絶えてしまった
はびこっているのは 赤むらさきの苔
毎年雨が降るたびに 門環の金具へはいあがる
⊂ものがたり⊃ 杜牧は若いころ、楊貴妃事件を題材として幾つかの詠史詩を書きましたが、それとは違う感じの懐古詩を残しています。それらは、このころの杜牧の褪めた感情を反映する作品と思われます。
詩題の「勤政楼」(きんせいろう)は玄宗皇帝の勤政務本楼のことで、興慶宮の西南隅にありました。そこからは、にぎやかな春明門街と東市を見下ろすことができました。
「千秋の佳節」は開元十七年(729)に設けられた祝日で、玄宗の誕生日(八月五日)を祝うものです。その日には「承露の糸嚢」を贈答し合う習慣がありましたが、それも廃れてしまい、目立つのは興慶宮の「金鋪」(門環の金の台座)まで這い上っている赤い苔です。盛唐の都は物心ともに荒れ果てようとしていました。
杜牧ー133
村舎燕 村舎の燕
漢宮一百四拾五 漢宮(かんきゅう) 一百四拾五(いっぴゃくししゅうご)
多下朱簾閉瑣窗 多く朱簾(しゅれん)を下して 瑣窓(さそう)を閉ざす
何処営巣夏将半 何れの処にか巣を営んで 夏(なつ)将(まさ)に半ばならんとす
茅簷煙裏語双双 茅簷(ぼうえん)の煙裏(えんり) 語(かた)ること双双(そうそう)
⊂訳⊃
漢の都城の内外に 一百四拾五の宮殿がある
多くは珠簾をおろし 飾り窓を閉じている
夏の半ばというのに 燕はどこに巣をかけた
茅屋にたなびく炊煙 燕が軒端で鳴いている
⊂ものがたり⊃ 杜牧は長安城の内外を歩きまわります。宮殿は多くが閉鎖され、荒廃していました。燕が巣をかける場所もなく、つがいの燕が農家の軒端で鳴いているのでした。この詩は中唐の劉禹錫(りゅううしゃく)「烏衣巷」(ういこう)を踏まえていると思われますので参照してください。
杜牧ー134
宮人 宮人塚
尽是離宮院中女 尽(ことごと)く是(こ)れ 離宮院中(いんちゅう)の女(じょ)
苑牆城外累累 苑牆(しょうえん)城外 塚(つか)累累(るいるい)たり
少年入内教歌舞 少年にして入内(にゅうだい)し 歌舞(かぶ)を教えらるるも
不識君王到老時 君王を識(し)らずして 老時(ろうじ)に到る
⊂訳⊃
この墓はみな 離宮の院中に仕えた女たち
宮苑のそとに重なり合って 累々とつづく
幼くして宮中に召し出され 歌や踊りを教えられたが
君公に知られることもなく 年老いてしまう
⊂ものがたり⊃ 城外のかつて離宮のあったあたりを歩いてみると、宮苑の牆外に残っているのは、名もない宮女たちの墓だけです。彼女たちは幼いころに宮中に召し出され、天子にまみえることもなく年老いてしまいました。そしていまは、墓だけが累々とつらなっています。
杜牧は樊川の朱坡にもたびたび出かけました。杜牧6(本年7月16日のブログ参照)に掲げた「朱坡に遊びしを憶う四韻」も、この年の秋の作品と思われます。懐かしい樊川の地を幾度も訪ねて、今を昔にもどせないことは分かっていますが、できれば祖父の別墅を修復したいと思うのでした。
長安雪後 長安 雪後
秦陵漢苑参差雪 秦陵(しんりょう) 漢苑 参差(しんし)として雪なり
北闕南山次第春 北闕(ほくけつ) 南山 次第に春なり
車馬満城原上去 車馬(しゃば) 城に満ちて 原上(げんじょう)に去(ゆ)く
豈知惆悵有閑人 豈に知らんや 惆悵(ちゅうちょう)として閑人(かんじん)有るを
⊂訳⊃
驪山の陵や上林苑 雪はあたりに舞い散るが
北の皇居や終南山 こちらはようやく春めいてきた
馬車は城内に溢れ 楽遊原へ繰り出してゆく
人々は気づくまい 暇人がここに憂えていることを
⊂ものがたり⊃ 旅の途中、杜牧は牛僧孺が都で亡くなったことを聞きました。享年六十九歳であったと言われています。杜牧の生涯に少なからず影響を与えた党争の指導者は、牛李双方とも都から消えてしまったのです。
杜牧が長安に着いたのは、冬十二月でした。司勲員外郎・史館修撰として、すぐに大明宮の尚書省に出仕をはじめます。明けて大中三年(849)、杜牧は四十七歳になりますが、依然として従六品上の員外郎です。この年は春になっても雪が降るほど寒気が厳しく、長安は年が明けても冬景色でした。
起句の「秦陵」は驪山の北麓にある秦の始皇帝陵かも知れませんが、つぎに「漢苑」とありますので、秦漢を借りる技法でしょう。春の雪もようやく止んで長安に春が訪れ、人々は城内の行楽地楽遊原(らくゆうげん)へと繰り出してゆきますが、杜牧はそれを斜(はす)に眺めています。
杜牧ー130
春晩題韋家亭子 春の晩 韋家の亭子に題す
擁鼻侵襟花草香 鼻を擁(ふさ)ぎ襟(きん)を侵して 花草(かそう)香(かんば)し
高台春去恨茫茫 高台(こうだい) 春去りて 恨み茫茫たり
蔫紅半落平池晩 蔫紅(えんこう)半(なか)ば落つ 平池(へいち)の晩(くれ)
曲渚飄成錦一張 曲渚(きょくしょ)飄(ただよ)い成(な)す 錦一張(きんいっちょう)
⊂訳⊃
草花のむせる香が 鼻を塞ぎ襟に満ち
高楼にのぼれば 過ぎゆく春の恨みはつきない
夕闇のせまる池に 花くれないはあでやかに散り
花びらは入江に漂って 一張の錦のようだ
⊂ものがたり⊃ 憂い顔の杜牧ですが、勤めは暇です。杜牧はかねて研究していた『孫子』十三篇に注をほどこす仕事をはじめました。『孫子』は兵書であると同時に経国の書でもあります。
長安の人々は暖かくなると楽遊原へ繰り出しますが、杜牧は郊外の樊川(はんせん)に出かけます。樊川は川の名前ではありません。川は当時、水(すい)と呼ばれ、川沿いの土地を川(せん)と言っていました。
詩題の「韋家(いか)の亭子(ていし)」は杜氏と並ぶ名門韋氏の別墅(べつしょ:別荘)のことで、樊川の韋曲(いきょく)にありました。野山には草花がむせかえるような香りを放って咲き乱れていました。杜牧は近くの朱坡(しゅは)にあった祖父杜佑の別墅も訪れたでしょう。春の自然の華やかさのなかで、すべては荒れ果ててしまっていました。
杜牧ー131
過田家宅 田家の宅を過ぐ
安邑南門外 安邑(あんゆう) 南門の外
誰家板築高 誰(た)が家か 板築(はんちく)高き
奉誠園裏地 奉誠園裏(ほうせいえんり)の地
牆缺見蓬蒿 牆(しょう)缺(か)けて 蓬蒿(ほうこう)を見る
⊂訳⊃
安邑坊の坊門を 南へゆくと
だれが住むのか 高々と塀をめぐらす
豪奢な馬燧の邸宅は 奉誠園となり
土塀は崩れ 茂っているのは蓬だけ
⊂ものがたり⊃ 杜牧は久し振りの長安城内を歩いてみます。注意して見ると、城内には新しい大きな邸宅もあり、荒れた邸の跡もあります。「安邑」は長安東街の安邑坊のことで、その南の坊門から少し南へ行ったところとは宣平坊のあたりでしょう。
長安城内の南部の坊は、城内とはいっても農家や寺院、農地や林地などが多く、詩題の「田家(でんか)の宅」というのは、そうした城内の田園地帯の家のことです。宣平坊は楽遊原のある台地を背にした微高地にあり、緑の多い地帯でした。そのあたりが高級官吏の住む新しい住宅地になっていて、「板築高き」、つまり板築で高く築いた塀の邸ができていたりしました。
安邑坊は東市の南に隣接する坊で、「奉誠園」は安邑坊内にありました。もとは馬燧(ばすい)の邸宅でしたが、馬燧の死後、半ば強制的に朝廷に献上させられました。豪奢な建物は解体されて宮中に運ばれ、跡地は奉誠園になっていましたが、それもいまは板築の土塀も崩れ、蓬蒿の茂る荒れ地になっていたのです。
杜牧ー132
過勤政楼 勤政楼に過る
千秋佳節名空在 千秋(せんしゅう)の佳節(かせつ) 名(な)空(むな)しく在り
承露糸嚢世已無 承露(しょうろ)の糸嚢(しのう) 世(よ)已(すで)に無し
唯有紫苔偏称意 唯だ紫苔(したい)のみ 偏(ひと)えに意(こころ)に称(かな)う有りて
年年因雨上金鋪 年年 雨に因(よ)りて 金鋪(きんぽ)に上る
⊂訳⊃
玄宗の千秋節も いまはその名を残すだけ
承露嚢の習慣も 絶えてしまった
はびこっているのは 赤むらさきの苔
毎年雨が降るたびに 門環の金具へはいあがる
⊂ものがたり⊃ 杜牧は若いころ、楊貴妃事件を題材として幾つかの詠史詩を書きましたが、それとは違う感じの懐古詩を残しています。それらは、このころの杜牧の褪めた感情を反映する作品と思われます。
詩題の「勤政楼」(きんせいろう)は玄宗皇帝の勤政務本楼のことで、興慶宮の西南隅にありました。そこからは、にぎやかな春明門街と東市を見下ろすことができました。
「千秋の佳節」は開元十七年(729)に設けられた祝日で、玄宗の誕生日(八月五日)を祝うものです。その日には「承露の糸嚢」を贈答し合う習慣がありましたが、それも廃れてしまい、目立つのは興慶宮の「金鋪」(門環の金の台座)まで這い上っている赤い苔です。盛唐の都は物心ともに荒れ果てようとしていました。
杜牧ー133
村舎燕 村舎の燕
漢宮一百四拾五 漢宮(かんきゅう) 一百四拾五(いっぴゃくししゅうご)
多下朱簾閉瑣窗 多く朱簾(しゅれん)を下して 瑣窓(さそう)を閉ざす
何処営巣夏将半 何れの処にか巣を営んで 夏(なつ)将(まさ)に半ばならんとす
茅簷煙裏語双双 茅簷(ぼうえん)の煙裏(えんり) 語(かた)ること双双(そうそう)
⊂訳⊃
漢の都城の内外に 一百四拾五の宮殿がある
多くは珠簾をおろし 飾り窓を閉じている
夏の半ばというのに 燕はどこに巣をかけた
茅屋にたなびく炊煙 燕が軒端で鳴いている
⊂ものがたり⊃ 杜牧は長安城の内外を歩きまわります。宮殿は多くが閉鎖され、荒廃していました。燕が巣をかける場所もなく、つがいの燕が農家の軒端で鳴いているのでした。この詩は中唐の劉禹錫(りゅううしゃく)「烏衣巷」(ういこう)を踏まえていると思われますので参照してください。
杜牧ー134
宮人 宮人塚
尽是離宮院中女 尽(ことごと)く是(こ)れ 離宮院中(いんちゅう)の女(じょ)
苑牆城外累累 苑牆(しょうえん)城外 塚(つか)累累(るいるい)たり
少年入内教歌舞 少年にして入内(にゅうだい)し 歌舞(かぶ)を教えらるるも
不識君王到老時 君王を識(し)らずして 老時(ろうじ)に到る
⊂訳⊃
この墓はみな 離宮の院中に仕えた女たち
宮苑のそとに重なり合って 累々とつづく
幼くして宮中に召し出され 歌や踊りを教えられたが
君公に知られることもなく 年老いてしまう
⊂ものがたり⊃ 城外のかつて離宮のあったあたりを歩いてみると、宮苑の牆外に残っているのは、名もない宮女たちの墓だけです。彼女たちは幼いころに宮中に召し出され、天子にまみえることもなく年老いてしまいました。そしていまは、墓だけが累々とつらなっています。
杜牧は樊川の朱坡にもたびたび出かけました。杜牧6(本年7月16日のブログ参照)に掲げた「朱坡に遊びしを憶う四韻」も、この年の秋の作品と思われます。懐かしい樊川の地を幾度も訪ねて、今を昔にもどせないことは分かっていますが、できれば祖父の別墅を修復したいと思うのでした。