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ティェンタオの自由訳漢詩 1889

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 初唐29ー陳子昂
    軒轅台             軒轅台

  北登薊丘望     北のかた  薊丘(けいきゅう)に登りて望み
  求古軒轅台     古(いにしえ)の軒轅台(けんえんだい)を求む
  応龍已不見     応龍(おうりゅう)  已(すで)に見えず
  牧馬空黄埃     牧馬(ぼくば)  空しく黄埃(こうあい)
  尚想広成子     尚(な)お想う  広成子(こうせいし)
  遺跡白雲隈     遺跡(いせき)  白雲(はくうん)の隈(くま)

  ⊂訳⊃
          北のかた  薊丘に登って
          かつての  軒轅台に思いを馳せる
          応龍の神の姿は見えず
          放牧の馬が埃を立てているだけだ
          広成子のような賢者を求めて  見わたすが
          遺跡は白雲の隈にあるようで  ぼんやりしている


 ⊂ものがたり⊃ 「文章の四友」と同時代の詩人に陳子昂(ちんすごう)がいます。陳子昂は「文章の道弊(すた)れて五百年なり。漢魏の風骨は、晋宋伝うる莫(な)し」と書いて、そのころ流行っていた南朝風の詩を批判しました。
 陳子昂(661?ー702?)は梓州射洪(四川省射洪県)の人。地方の豪家に生まれ、十七、八歳のころから経史書百卷を読み、高宗の調露元年(679)ころに都に出て来ました。永淳元年(682)に二十二歳くらいで進士に及第し、武后に認められて右拾遺になります。
 万歳通天元年(696)、建安王武攸宜(ぶゆうぎ)の契丹討伐に参謀として従軍し、平州(北京の東方)に赴きました。詩はそのときのものです。
 詩題の「軒轅台」は黄帝が蚩尤(しゆう)を虜にした場所とされ、神話の世界のことです。「薊丘」は戦国時代に燕が都を置いたところで、丘に登って軒轅台はどこにあったのだろうかとあたりを見まわします。
 「応龍」は蚩尤を殺した神。そうした勇敢な神の姿は見えず、放牧の馬が黄色い埃を立てて走っているだけだと詠います。実はこのとき陳子昂は武将軍に契丹攻撃の戦略を進言しましたが、聞き入れられず、逆に参謀から軍曹に降格されていました。そうしたことへの不満が、古代の神話を借りて述べられていると解されます。五言六句は珍しい詩形です。


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