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ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧112ー116

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 杜牧ー112
   題池州貴池亭           池州の貴池亭に題す

  勢比凌歊宋武台   勢いは比(ひ)す  凌歊(りょうきょう)  宋武(そうぶ)の台
  分明百里遠帆開   分明(ぶんめい)に  百里  遠帆(えんぱん)開く
  蜀江雪浪西江満   蜀江の雪浪(せつろう)  西江(せいこう)に満ち
  強半春寒去却来   強半(きょうはん)   春寒(しゅんかん)  去りて却(ま)た来たる

  ⊂訳⊃
          貴池亭の眺めは  宋の武帝の凌歊台に劣らず

          百里彼方の舟の帆も  はっきりと見分けられる

          蜀江の逆巻く流れは  眼下の長江に満ちて

          はつ春の寒さが  ぶり返してきたようだ


 ⊂ものがたり⊃ 詠われている「貴池亭」(きちてい)は、昨年秋に張祜(ちょうこ)と登った斉山の頂きにある亭です。そこからは長江の流れを望むことができ、長江は池州の西を東北方向に流れていますので「西江」とも言うのです。
 この冬は特に寒かったらしく、蜀(しょく)の雪山から流れて来る雪解け水は冷たく、仲春の二月というのに初春の寒さがぶり返してきたようでした。春になっても寒々とした暮らしに、杜牧の気分は晴れることがありません。

 杜牧ー113
   春末題池州弄水亭     春末 池州の弄水亭に題す

  使君四十四     使君(しくん)は 四十四
  両佩左銅魚     両(ふたた)び左銅魚(さどうぎょ)を佩(お)ぶ
  為吏非循吏     吏(り)と為(な)るも  循吏(じゅんり)に非(あら)ず
  論書読底書     書を論ずるも  底(なん)の書をか読む
  晩花紅艶静     晩花(ばんか)  紅艶(こうえん)静かに
  高樹緑陰初     高樹(こうじゅ) 緑陰(りょくいん)初(はじ)まる
  亭宇清無比     亭宇(ていう)  清きこと比(たぐい)無く
  渓山画不如     渓山(けいざん)  画(え)も如(し)かず
  嘉賓能嘯詠     嘉賓(かひん)  能(よ)く嘯詠(しょうえい)し
  官妓巧粧梳     官妓(かんぎ)  巧(たく)みに粧梳(しょうそ)す
  逐日愁皆砕     日を逐(お)って   愁い皆(みな)砕け
  随時酔有余     時(とき)に随って  酔うこと余り有り
  偃須求五鼎     偃(えん)は須(すべか)らく五鼎(ごてい)を求むべく
  陶祗愛吾廬     陶(とう)は祗(た)だ吾(わ)が廬(ろ)を愛するのみ
  趣向人皆異     趣向(しゅこう)は  人(ひと)皆(みな)異(こと)なれり
  賢豪莫笑渠     賢豪(けんごう)   渠(かれ)を笑うこと莫(な)かれ

  ⊂訳⊃
          刺史のわたしは  四十四歳
          左銅魚を佩びて  二度の勤めだ
          役人になったが  循吏でもなく
          書を読んだが   いったい何処を読んだのか
          遅咲きの花は   赤くあでやかに咲き
          大木は   茂った葉で木蔭をつくる
          弄水亭は  類いまれな清らかさ
          山も川も  絵のように美しい
          客たちは  巧みに詩を詠い
          妓女達は  みやびやかに粧い侍る
          愁いは   日ごとに消え去り
          飲む酒は  いつでも酔うのに充分だ
          主父偃は  ひたすら出世を求めたが
          陶淵明は  閑雅な廬の日々を愛した
          好みはそれぞれ違っているが
          賢明な諸公よ  彼らを笑ったりしないでくれ


 ⊂ものがたり⊃ 会昌六年(846)の春、杜牧は四十四歳になっていました。詩題に「春末」(しゅんまつ)とあるのは春三月のことで、「弄水亭」(ろうすいてい)は杜牧が池州城通遠門(南門)外の景勝の地に建てた亭台です。
 詩はこの亭の壁に書きつけたもので、「吏と為るも 循吏に非ず 書を論ずるも 底の書をか読む」と謙遜とも自嘲ともつかない詠い方をしています。とはいっても、地元の客を呼んで新亭を披露したときの詩ですので、「亭宇 清きこと比無く」と褒めています。
 後半の八句は宴のようすです。「官妓」は州の役所に所属する妓女のことで、州刺史は個人的とみられる遊宴の場に、官の妓女を侍らすことができました。「偃」は漢の武帝時代の主父偃(しゅほえん)のことで、ひたすら功名富貴を追い求めたと言われています。「陶」は東晋末の陶淵明(とうえんめい)のことで、有名ですので説明の必要はないでしょう。杜牧は対照的な生き方の二人を挙げて「趣向は 人皆異なれり 賢豪 渠を笑うこと莫かれ」と、酒宴の場らしく洒落のめして結んでいます。
 不遇ではありますが、杜牧は何といっても唐代の貴族です。素顔がのぞいても責めることはできないでしょう。杜牧は池州刺史のころ侍妾をかかえていたらしいことも伝えられています。杜荀鶴(とじゅんかく)は唐末から五代にかけての詩人ですが、池州石埭(せきたい:安徽省太平県)の生まれとされています。伝えでは杜牧が池州にいたときの侍妾の子で、侍妾は子が生まれる前に州人の杜筠(といん)という者に嫁し、杜荀鶴は杜筠の子として生まれたといいます。杜牧が聖人君子でなかったことは確かです。

 杜牧ー115
    新定途中              新定の途中

  無端偶効張文紀   端(はし)無くも偶(たま)たま効(なら)う  張文紀(ちょうぶんき)
  下杜郷園別五秋   下杜(かと)の郷園  別るること五秋(ごしゅう)
  重過江南更千里   重ねて江南を過ぐ  更に千里
  万山深処一孤舟   万山(ばんざん)の深き処  一孤舟(いちこしゅう)

  ⊂訳⊃
          はからずも  張文紀をまねてしまった

          古里の下杜を離れて  はや五年

          江南を過ぎ  千里の旅を重ねている

          無数の山々  深い谷 心に沁みいる孤独の舟


 ⊂ものがたり⊃ 弄水亭の披露も済み、春三月も過ぎようとするころ、都で異変が起きました。不老長生の仙薬を飲み過ぎたのがもとで、武宗が亡くなったのです。皇太子が即位して宣宗となりますが、皇太子といっても宣宗は武宗の祖父憲宗の十三番目の子で、穆宗の弟になります。皇位が叔父に移ったわけで、正常な継承ではありません。
 宣宗も宦官が擁立した天子で、当然に政変が起こります。廃仏の責任を問われた李徳裕は四月に失脚し、荊南節度使に貶され、牛党の翰林学士承旨白敏中(はくびんちゅう)が登用されます。牛党の牛僧孺と李宗閔は貶謫地から都に近い任地に移されますが、中途半端な異動です。二人はすでに高齢で、世代交替が明瞭です。
 杜牧は新しい人事をみて、悪い予感を覚えました。果せるかな九月になると、杜牧のもとに睦州(ぼくしゅう)刺史に任ずる告身(辞令書)が届きます。杜牧が李徳裕に送ったさまざまな提言が、李党への加担、牛党への裏切りと目されたのは明らかでした。
 転任地の睦州(浙江省建徳市梅城県)は、杭州から浙江を南に百八十里(約100km)ほど遡ったところにあります。南は閩地(びんち)につらなる僻遠の地です。杜牧は流刑になったような気持ちで告身を受けたでしょう。
 会昌六年(846)冬十月、杜牧は池州を発って長江を下り潤州に停泊します。そこから少しまわり道をして揚州に行き、弟杜(とぎ)を見舞いました。しかし、盲目の弟と語り合う言葉もなく、在り来たりの慰めの言葉を残して別れたでしょう。睦州へは運河を南下して杭州に着き、そこからさらに浙江を南へ遡ってゆくのです。
 詩題の「新定」(しんてい)は睦州の郡名で、「張文紀」は後漢の張綱のことです。張綱は侍御史として在任していたとき、外戚で権勢者の大将軍梁冀(りょうき)兄弟を弾劾しました。しかし、順帝に聴き入れられず、広陵の太守に左遷されます。「端無くも偶たま効う」は思いがけず同じ轍を踏んでしまったという意味で、杜牧は自分を張綱にたとえて後悔しています。
 都を出て五年になるというのに、江南の中でも最南端の睦州に赴くはめになった。そのことを嘆きながら、冬の船上で身に沁みるのはどうしようもない孤独感です。

 杜牧ー116
      雨                 雨

  連雲接塞添迢逓   雲に連なり塞(とりで)に接して  迢逓(ちょうてい)を添え
  灑幕侵灯送寂寥   幕に灑(そそ)ぎ灯(ともしび)を侵して  寂寥(せきりょう)を送る
  一夜不眠孤客耳   一夜  眠らず  孤客(こかく)の耳
  主人窓外有芭蕉   主人の窓外に  芭蕉(ばしょう)有り

  ⊂訳⊃
          雨は雲に連なって辺塞につづき  故郷はいよいよ遠ざかる

          降りこむ雨に灯は陰り  わびしい旅心が湧いてくる

          耳にまつわる雨の音   眠れないまま夜はあけ

          窓辺に近く  芭蕉の茂る宿だった


 ⊂ものがたり⊃ この詩も睦州へ赴任する途中の作でしょう。「塞」は辺塞であり、国境の意味もあります。雨は船の帳幕のあたりまで降り込み、灯火も消えそうです。物淋しい冬の旅、眠れない一夜を明かすと、「窓外に 芭蕉有り」の宿でした。
 僻地への赴任とはいっても官行(官吏としての旅行)ですから、上陸して渡津の駅亭に泊まることもあったようです。冬十二月、杜牧は最果ての地、睦州に着任しました。

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