清49ー林則徐
塞外雑詠 塞外雑詠
沙礫当途太不平 沙礫(されき) 途(みち)に当たって太(はなは)だ平らかならず
労薪頑鉄日交争 労薪(ろうしん) 頑鉄(がんてつ) 日々(ひび)交々(こもごも)争う
車箱簸似箕中粟 車箱(しゃそう) 簸(あお)ぐこと 箕中(きちゅう)の粟(ぞく)の似(ごと)し
愁聴隆隆乱石声 愁(うれ)えて聴く 隆隆(りゅうりゅう)たる乱石(らんせき)の声
⊂訳⊃
砂礫の路がゆく手を阻み ひどくでこぼこしている
古い木材と固い鉄が ぎしぎしと軋みあう
馬車の座席にいると 箕のなかの粟粒のように跳ねあがり
車輪に踏まれる石の音に 悲しく耳を傾けている
⊂ものがたり⊃ 林則徐(りんそくじょ:1785―1850)は福州侯官(福建省福州市)の人。乾隆五十年(1785)に貧しい官家に生まれました。嘉慶十六年(1811)、二十七歳のとき第七位で進士に及第し、翰林院庶吉士になります。江南道監察御史や東河河道総督などの地方長官を歴任し、江蘇巡撫のとき水利事業に従事して功績をあげます。
道光十七年(1837)、五十三歳のときに湖広総督になり、アヘン吸入の禁止に成果をあげます。翌年、アヘン吸飲者の処罰について下問があったとき厳禁を主張、アヘン禁止の具体的な実施手順について上書しました。道光十九年(1839)に欽差大臣に任命され、広州に赴いてアヘンの禁絶にあたります。広州の虎門でアヘン二百三十七万斤を銷燬(しょうき)しますが、イギリスとの紛争になります。
翌道光二十年に阿片戦争が起こると、水師を兼務していた林則徐は広州の守りを固めます。イギリス艦隊は広州を避けて北上し、渤海湾に侵攻。すると道光帝は弱腰になり、林則徐は罷免されました。道光二十一年(1841)に責任を問われ、伊犁(いり:新疆ウイグル自治区伊寧市)へ流罪になります。
道光二十五年(1845)に赦されて陝甘総督代理を務めたのち陝西巡撫・雲貴総督になり、道光三十年(1850)には太平天国鎮圧のために欽差大臣に任命され、広西に赴きますが、その途中、潮州(広東省潮州市)で病没しました。享年六十六歳です。
詩題の「塞外」(さいがい)は国境のそとの砦という意味です。アヘン戦争の責任を問われて流された伊犁は極西の地でした。その流謫地へ馬車で赴く途中の感慨を詠います。はじめの二句は西域の路の荒れた様子。「労薪 頑鉄」は車の木製の部分と鉄製の部分で、それがこすれ合って軋み音を立てています。
後半二句は車に乗っている自分のことで、「車箱」(馬車の座席)にいると箕のなかの粟粒のように体が跳ねあがり、車輪に踏みしだかれる石の音に耳を傾けていると詠います。揺れる車と乗っている自分をさりげなく詠っているようですが、全体は比喩の詩とみることができ、第一句は困難な政事、第二句はいろんな勢力がぶつかり合ってガタがきている政府、第三句はそうした政界に翻弄される自分、第四句で愁えて聴いているのは車輪のしたで虐げられる民の声でしょう。
塞外雑詠 塞外雑詠
沙礫当途太不平 沙礫(されき) 途(みち)に当たって太(はなは)だ平らかならず
労薪頑鉄日交争 労薪(ろうしん) 頑鉄(がんてつ) 日々(ひび)交々(こもごも)争う
車箱簸似箕中粟 車箱(しゃそう) 簸(あお)ぐこと 箕中(きちゅう)の粟(ぞく)の似(ごと)し
愁聴隆隆乱石声 愁(うれ)えて聴く 隆隆(りゅうりゅう)たる乱石(らんせき)の声
⊂訳⊃
砂礫の路がゆく手を阻み ひどくでこぼこしている
古い木材と固い鉄が ぎしぎしと軋みあう
馬車の座席にいると 箕のなかの粟粒のように跳ねあがり
車輪に踏まれる石の音に 悲しく耳を傾けている
⊂ものがたり⊃ 林則徐(りんそくじょ:1785―1850)は福州侯官(福建省福州市)の人。乾隆五十年(1785)に貧しい官家に生まれました。嘉慶十六年(1811)、二十七歳のとき第七位で進士に及第し、翰林院庶吉士になります。江南道監察御史や東河河道総督などの地方長官を歴任し、江蘇巡撫のとき水利事業に従事して功績をあげます。
道光十七年(1837)、五十三歳のときに湖広総督になり、アヘン吸入の禁止に成果をあげます。翌年、アヘン吸飲者の処罰について下問があったとき厳禁を主張、アヘン禁止の具体的な実施手順について上書しました。道光十九年(1839)に欽差大臣に任命され、広州に赴いてアヘンの禁絶にあたります。広州の虎門でアヘン二百三十七万斤を銷燬(しょうき)しますが、イギリスとの紛争になります。
翌道光二十年に阿片戦争が起こると、水師を兼務していた林則徐は広州の守りを固めます。イギリス艦隊は広州を避けて北上し、渤海湾に侵攻。すると道光帝は弱腰になり、林則徐は罷免されました。道光二十一年(1841)に責任を問われ、伊犁(いり:新疆ウイグル自治区伊寧市)へ流罪になります。
道光二十五年(1845)に赦されて陝甘総督代理を務めたのち陝西巡撫・雲貴総督になり、道光三十年(1850)には太平天国鎮圧のために欽差大臣に任命され、広西に赴きますが、その途中、潮州(広東省潮州市)で病没しました。享年六十六歳です。
詩題の「塞外」(さいがい)は国境のそとの砦という意味です。アヘン戦争の責任を問われて流された伊犁は極西の地でした。その流謫地へ馬車で赴く途中の感慨を詠います。はじめの二句は西域の路の荒れた様子。「労薪 頑鉄」は車の木製の部分と鉄製の部分で、それがこすれ合って軋み音を立てています。
後半二句は車に乗っている自分のことで、「車箱」(馬車の座席)にいると箕のなかの粟粒のように体が跳ねあがり、車輪に踏みしだかれる石の音に耳を傾けていると詠います。揺れる車と乗っている自分をさりげなく詠っているようですが、全体は比喩の詩とみることができ、第一句は困難な政事、第二句はいろんな勢力がぶつかり合ってガタがきている政府、第三句はそうした政界に翻弄される自分、第四句で愁えて聴いているのは車輪のしたで虐げられる民の声でしょう。