清43ー龔自珍
雑詩己卯自春徂夏 雑詩 己卯の春より夏に徂(およ)び
在京師作詩得十有 京師に在って詩を作る 十有四首を
四首 其一 得たり 其の一
少小無端愛令名 少小(しょうしょう) 端無(はしな)くも令名を愛す
他無学術誤蒼生 他(ま)た学術の蒼生(そうせい)を誤る無し
白雲一笑懶如此 白雲 一笑(いっしょう)す 懶(らん) 此(か)くの如きを
忽遇天風吹便行 忽ち天風(てんぷう)の吹くに遇(あ)って便(すなわ)ち行く
⊂訳⊃
若いころには わけもなく名声を求めていた
だが 万民を 誤った道に導くほどの学問はなかった
浮雲のようだと 怠惰な自分を笑っていたが
突然の天の風に遇って 吹かれるままに動いている
⊂ものがたり⊃ 度々の禁令にもかかわらずアヘンの密輸が止まなかったのは、イギリスとインドと中国とのあいだに三角貿易の関係があったからだとされています。アヘンの流入が急増すると中国の銀の流出が加速度的に増え、銀の価格が上昇します。銀の上昇は中国の国内通貨である銅貨の下落につながり、銅貨の下落はアヘンを吸わない一般国民の生活をも圧迫することになります。
アヘン貿易(密輸)が国内経済の悪化に直結することに気づいた林則徐・魏源ら公羊学派の官僚は、禁輸の徹底を主張します。開明的な知識人は政府の無策にいらだって詩社などに結集し、政事批判の声をあげるようになりました。龔自珍(きょうじちん)は林則徐よりも七歳の年少で、官界の腐敗を憎む若手官僚のひとりでした。
龔自珍(1792―1841)は仁和(浙江省杭州市)の人。乾隆五十七年(1792)に生まれました。父親の龔麗生(れいせい)が古代言語学者段玉裁(だんぎょくさい)の女婿でしたので、十二歳で外祖父から『説文』の学を授けられます。古学に才能を発揮し、やがて劉逢禄(りゅうほうろく)について公羊学(『春秋公羊伝』を重んじる儒学)を修め、社会変革の思想に目ざめるようになります。
急進的な思想がわざわいして、しばしば科挙に落第。道光九年(1829)、三十八歳で進士に及第し、内閣中書になります。翌道光十年には魏源らと宜南詩社を結成して経世の学を研究します。社会批判や政事論を執筆し、帝政ロシアの進出を警告して辺境防衛の強化を主張するなど政事改革に意欲をしめします。
道光十九年(1839)に林則徐が欽差大臣に任命されて広州に赴いたときは、イギリスとの戦争も辞すべきではないと戦備の強化を進言しました。その年、礼部主事を最後に北京を去り、帰郷して丹陽(江蘇省丹陽県)の雲陽書院で教鞭を執りますが、道光二十一年(1841)、在郷二年で急死しました。北京にいるとき親王奕絵(えきかい)の愛妾顧春(こしゅん)と私通していたために毒殺されたとの伝えもあります。享年五十歳でした。
詩題の「己卯」(きぼう)は嘉慶二十四年(1819)のことです。この年、龔自珍は二十八歳でした。春から夏までのあいだに十四首の七言絶句を作りました。其の一の詩のはじめ二句は、それまでの自己の反省です。「少小」は少年(二十代)より若いころで十代でしょう。「学術」は儒学のことで、修身・斉家・治国・平天下を理想とします。「蒼生」は民草のことであり、私の学問は「蒼生を誤る無し」、つまり民衆を誤らせるほどのものではなかったといいます。「誤る無し」は一種の反語で、私の学問は政府の意向に反して民衆を開化に導くことができるほどに深くはなかったというのです。「懶」は怠惰なことで、「白雲」のように浮わついていると自分を笑っていたけれど、突然、天の風に遇って動きだしたというのです。林則徐や魏源ら公羊学派の開明官僚と交わって政事改革を目ざすようになったことをいうのでしょう。
清44ー龔自珍
雑詩己卯自春徂夏 雑詩 己卯の春より夏に徂(およ)び
在京師作詩得十有 京師に在って詩を作る 十有四首を
四首 其十二 得たり 其の十二
楼閣参差未上燈 楼閣 参差(しんし)として 未(いま)だ燈(ともしび)を上(のぼ)さず
菰蘆深處有人行 菰蘆(ころ) 深き処 人の行く有り
凭君且莫登高望 君に凭(よ)る 且(しばら)く高きに登りて望むこと莫(なか)れ
忽忽中原暮靄生 忽忽(こつこつ)として中原(ちゅうげん) 暮靄(ぼあい)生ず
⊂訳⊃
楼閣は高く低く連なり まだ灯火はともっていない
菰や葦の茂るなかを 誰かが歩いていく
高処から見渡すのは しばらくやめたまえ
都は薄ぼんやりと翳り 見る者の心に夕靄がかかる
⊂ものがたり⊃ この詩には「陶然亭の壁に題す」との自注があり、陶然亭は北京外城の中南部、先農壇に接する園地の中央にありました。文人墨客の遊楽の地として有名であり、龔自珍はそのころ宣南詩社という結社を結成して政事活動を行なっていました。その仲間との集まりの席で披露した作品でしょう。
はじめの二句は陶然亭から望む街並と葦原。灯火をともすには早い時刻です。「菰蘆」(まこもとあし)の茂るなかを「人」が歩いています。この人は自分自身もしくは誰かを意味すると考えられますが、後半に「君」への忠告があり、自戒を含めた君への忠告と解釈すれば「人」は自分でもあります。ここには比喩がこめられていて、「菰蘆」は政事活動の喩えと考えることができます。
後半の「高きに登りて望むこと莫れ」も単なる高処ではなく、高処からの俯瞰を戒め、民衆の視点に立つことをいうのでしょう。結びは「忽忽として中原 暮靄生ず」となっており、「中原」は中国の政事的核心、都です。そこは「忽忽」(定かでないさま)としており、見る者の心に夕靄を生じさせます。だからしばらく見ないほうがよいと詠うのです。「暮靄生ず」は二重に解釈し、暮靄が生じているのは都の政事状況であると同時に、それを見る活動家にも心の曇りを生じさせるという意味でしょう。
清45ー龔自珍
己亥雑詩 其五 己亥雑詩 其の五
浩蕩離愁白日斜 浩蕩(こうとう)たる離愁(りしゅう) 白日斜(なな)めなり
吟鞭東指即天涯 吟鞭(ぎんべん) 東に指(さ)せば 即ち天涯(てんがい)
落紅不是無情物 落紅(らくこう)は是(こ)れ 無情(むじょう)の物にあらず
化作春泥更護花 化して春泥(しゅんでい)と作(な)り 更に花を護(まも)る
⊂訳⊃
果てしない別れの悲しみ 陽は西に傾いている
詩人の鞭で東方を指させば 天空の果てだ
だが 散りゆく花びらにも 心というものがある
春泥にまみれて 咲く花を守ろうとしているのだ
⊂ものがたり⊃ 詩題の「己亥」(きがい)は道光十九年(1839)のことで、四十八歳で職を辞し、都を去るときの作品です。その四月末から十二月までに三百十五首の七言絶句を作りました。
其の五の詩は、馬に乗って北京を旅立とうとするときの情景と心境です。起句は悲しみに沈みながら馬上で夕陽をみています。沈む夕陽はしばしば王朝の終わりの比喩でもあります。承句では視線を東に移し、「吟鞭」(詩人の持つ鞭)で故郷の方向を指さします。野にくだる決意をしめすのでしょう。
後半は一転して、去るにあたっての心境をのべます。「落紅」は散る紅い花びらで、花びらにも心があるといいます。花びらは泥土のなかに落ちて、つぎに咲く花を守ろうとしているのだと、「落紅」に託して人材育成に努める覚悟をしめすのです。
清46ー龔自珍
己亥雑詩 其百二十三 己亥雑詩 其の百二十三
不論塩鉄不籌河 塩鉄(えんてつ)を論ぜず 河(か)を籌(はか)らず
独倚東南涕涙多 独り東南に倚(よ)って 涕涙(ているい)多し
国賦三升民一斗 国賦(こくふ)三升(さんしょう) 民一斗(たみいっと)
屠牛那不勝栽禾 屠牛(とぎゅう) 那(なん)ぞ禾(いね)を栽(う)うるに勝(まさ)らざらん
⊂訳⊃
政府は経済を論ぜず 政事に思いを致そうとしない
私はひとり 江南に身をよせて涙を流す
租税は三升 だが民の負担は一斗になる
耕すよりも 牛を殺して食べるほうがまだましだ
⊂ものがたり⊃ 其の百二十三の詩は、承句に「独り東南に倚って」とあり、江南に帰ってからの作です。起句の「塩鉄」は政府の専売品で財政のかなめの産物であり、転じて経済を意味します。「河を籌る」は治水のことで、格言に「水を治める者は天下を治める」とあり、転じて政事を意味します。政府が経済・政事に無策であることを嘆きながら、なにもできないことに悔し涙をながすのです。
後半二句では悪政の一端にふれます。国家の租税は「三升」と決められているのに民の実質的な負担は「一斗」であると指摘します。租税はすでに金納になっていましたが、アヘンの流入によって銀が国外に流出して銀は高騰していました。一方、民間で流通するのは銅貨であり、納税者は銅貨を銀貨に換えて納税しなければなりません。三倍以上の納税になるので、これではまともに稲を植えるよりは農耕の牛を殺して食べるほうがましだと政事を批判します。
清47ー龔自珍
己亥雑詩 其百二十五 己亥雑詩 其の百二十五
九州生気恃風雷 九州の生気(せいき) 風雷(ふうらい)を恃(たの)み
万馬斉瘖究可哀 万馬(ばんば) 斉(ひと)しく瘖(おしだま)り 究(つい)に哀れむ可(べ)し
我勧天公重抖擻 我れ天公(てんこう)に勧(すす)む 重(かさ)ねて抖擻(とうそう)して
不拘一格降人材 一格(いっかく)に拘(こだ)わらず 人材を降(くだ)せと
⊂訳⊃
中国が生気を取り戻すには 風神雷神に頼るほかはない
誰もが押し黙っているから 哀れな状態になったのだ
私は天子様にお願いしたい すべての利害を払いのけて
身分などにはこだわらず 有為の人材を登用すべしと
⊂ものがたり⊃ 其の百二十五の詩は、潤州(江蘇省鎮江市)で玉帝や風神雷神の祭りを見物していたとき、道教の道士に祝詞を作ってくれと頼まれて作ったと自注にあります。「九州」は中国全土の古称です。中国が生気を取りもどすには「風雷」(風神と雷神)が必要であるが、こんなになったのは「万馬」(人々)が押し黙っているから哀れな状態になったのだといいます。「天公」は天帝のことですが、天子をさす場合もあります。「抖擻」は梵語「頭陀(ずだ)」の訳語で、すべての欲望を払いのけることです。だから天子はすべての利害を払いのけて、「一格」(地位、身分)にこだわらずに有為の人材を登用すべきであると詠います。
清48ー龔自珍
己亥雑詩 其百七十 己亥雑詩 其の百七十
少年哀楽過于人 少年の哀楽(あいらく) 人に過ぎ
歌泣無端字字真 歌泣(かきゅう) 端(はし)無く 字字(じじ)真(しん)なり
既壮周旋雑癡黠 既にして壮なるや 周旋(しゅうせん)して 癡(ち)と黠(きつ)を雑(まじ)え
童心来復夢中身 童心(どうしん) 来復(らいふく)す 夢中(むちゅう)の身
⊂訳⊃
若いころは 喜怒哀楽がはげしくて
わけもなく詠い憤慨したが ひとつひとつは真実だった
壮年になって世間と交わり 愚かさと悪知恵が混じりあう
純真無垢の一念は 夢にしか見ない男になり果てた
⊂ものがたり⊃ 其の百七十の詩は若いころの自分を顧みて現在の自分を反省する作品です。前半二句は若いころの自分。「少年」は二十代のことです。「歌泣」は詩を吟じることと泣くこと。「無端」は「端無く」と訓じ、わけもなく、突然にという意味になります。若者のころは喜怒哀楽が激しくて、感情に任せて詠ったり泣いたりしたが、ひとつひとつの言葉は「真」(真実)だったと詠います。
後半は現在の自分への反省です。「周旋」は人と交際すること。「癡黠」は愚かさと悪賢さで、「童心 来復す 夢中の身」と結びます。「童心」は明の思想家で陽明学左派の李贄(卓吾)の童心説に基づく言葉で、人が生まれながらに持っている純真無垢の初一念のことです。龔自珍が亡くなる前年にアヘン戦争がはじまります。龔自珍は林則徐が罷免されるのを見ますが、戦争の結末を見ないままの死でした。(2016.9.17)
雑詩己卯自春徂夏 雑詩 己卯の春より夏に徂(およ)び
在京師作詩得十有 京師に在って詩を作る 十有四首を
四首 其一 得たり 其の一
少小無端愛令名 少小(しょうしょう) 端無(はしな)くも令名を愛す
他無学術誤蒼生 他(ま)た学術の蒼生(そうせい)を誤る無し
白雲一笑懶如此 白雲 一笑(いっしょう)す 懶(らん) 此(か)くの如きを
忽遇天風吹便行 忽ち天風(てんぷう)の吹くに遇(あ)って便(すなわ)ち行く
⊂訳⊃
若いころには わけもなく名声を求めていた
だが 万民を 誤った道に導くほどの学問はなかった
浮雲のようだと 怠惰な自分を笑っていたが
突然の天の風に遇って 吹かれるままに動いている
⊂ものがたり⊃ 度々の禁令にもかかわらずアヘンの密輸が止まなかったのは、イギリスとインドと中国とのあいだに三角貿易の関係があったからだとされています。アヘンの流入が急増すると中国の銀の流出が加速度的に増え、銀の価格が上昇します。銀の上昇は中国の国内通貨である銅貨の下落につながり、銅貨の下落はアヘンを吸わない一般国民の生活をも圧迫することになります。
アヘン貿易(密輸)が国内経済の悪化に直結することに気づいた林則徐・魏源ら公羊学派の官僚は、禁輸の徹底を主張します。開明的な知識人は政府の無策にいらだって詩社などに結集し、政事批判の声をあげるようになりました。龔自珍(きょうじちん)は林則徐よりも七歳の年少で、官界の腐敗を憎む若手官僚のひとりでした。
龔自珍(1792―1841)は仁和(浙江省杭州市)の人。乾隆五十七年(1792)に生まれました。父親の龔麗生(れいせい)が古代言語学者段玉裁(だんぎょくさい)の女婿でしたので、十二歳で外祖父から『説文』の学を授けられます。古学に才能を発揮し、やがて劉逢禄(りゅうほうろく)について公羊学(『春秋公羊伝』を重んじる儒学)を修め、社会変革の思想に目ざめるようになります。
急進的な思想がわざわいして、しばしば科挙に落第。道光九年(1829)、三十八歳で進士に及第し、内閣中書になります。翌道光十年には魏源らと宜南詩社を結成して経世の学を研究します。社会批判や政事論を執筆し、帝政ロシアの進出を警告して辺境防衛の強化を主張するなど政事改革に意欲をしめします。
道光十九年(1839)に林則徐が欽差大臣に任命されて広州に赴いたときは、イギリスとの戦争も辞すべきではないと戦備の強化を進言しました。その年、礼部主事を最後に北京を去り、帰郷して丹陽(江蘇省丹陽県)の雲陽書院で教鞭を執りますが、道光二十一年(1841)、在郷二年で急死しました。北京にいるとき親王奕絵(えきかい)の愛妾顧春(こしゅん)と私通していたために毒殺されたとの伝えもあります。享年五十歳でした。
詩題の「己卯」(きぼう)は嘉慶二十四年(1819)のことです。この年、龔自珍は二十八歳でした。春から夏までのあいだに十四首の七言絶句を作りました。其の一の詩のはじめ二句は、それまでの自己の反省です。「少小」は少年(二十代)より若いころで十代でしょう。「学術」は儒学のことで、修身・斉家・治国・平天下を理想とします。「蒼生」は民草のことであり、私の学問は「蒼生を誤る無し」、つまり民衆を誤らせるほどのものではなかったといいます。「誤る無し」は一種の反語で、私の学問は政府の意向に反して民衆を開化に導くことができるほどに深くはなかったというのです。「懶」は怠惰なことで、「白雲」のように浮わついていると自分を笑っていたけれど、突然、天の風に遇って動きだしたというのです。林則徐や魏源ら公羊学派の開明官僚と交わって政事改革を目ざすようになったことをいうのでしょう。
清44ー龔自珍
雑詩己卯自春徂夏 雑詩 己卯の春より夏に徂(およ)び
在京師作詩得十有 京師に在って詩を作る 十有四首を
四首 其十二 得たり 其の十二
楼閣参差未上燈 楼閣 参差(しんし)として 未(いま)だ燈(ともしび)を上(のぼ)さず
菰蘆深處有人行 菰蘆(ころ) 深き処 人の行く有り
凭君且莫登高望 君に凭(よ)る 且(しばら)く高きに登りて望むこと莫(なか)れ
忽忽中原暮靄生 忽忽(こつこつ)として中原(ちゅうげん) 暮靄(ぼあい)生ず
⊂訳⊃
楼閣は高く低く連なり まだ灯火はともっていない
菰や葦の茂るなかを 誰かが歩いていく
高処から見渡すのは しばらくやめたまえ
都は薄ぼんやりと翳り 見る者の心に夕靄がかかる
⊂ものがたり⊃ この詩には「陶然亭の壁に題す」との自注があり、陶然亭は北京外城の中南部、先農壇に接する園地の中央にありました。文人墨客の遊楽の地として有名であり、龔自珍はそのころ宣南詩社という結社を結成して政事活動を行なっていました。その仲間との集まりの席で披露した作品でしょう。
はじめの二句は陶然亭から望む街並と葦原。灯火をともすには早い時刻です。「菰蘆」(まこもとあし)の茂るなかを「人」が歩いています。この人は自分自身もしくは誰かを意味すると考えられますが、後半に「君」への忠告があり、自戒を含めた君への忠告と解釈すれば「人」は自分でもあります。ここには比喩がこめられていて、「菰蘆」は政事活動の喩えと考えることができます。
後半の「高きに登りて望むこと莫れ」も単なる高処ではなく、高処からの俯瞰を戒め、民衆の視点に立つことをいうのでしょう。結びは「忽忽として中原 暮靄生ず」となっており、「中原」は中国の政事的核心、都です。そこは「忽忽」(定かでないさま)としており、見る者の心に夕靄を生じさせます。だからしばらく見ないほうがよいと詠うのです。「暮靄生ず」は二重に解釈し、暮靄が生じているのは都の政事状況であると同時に、それを見る活動家にも心の曇りを生じさせるという意味でしょう。
清45ー龔自珍
己亥雑詩 其五 己亥雑詩 其の五
浩蕩離愁白日斜 浩蕩(こうとう)たる離愁(りしゅう) 白日斜(なな)めなり
吟鞭東指即天涯 吟鞭(ぎんべん) 東に指(さ)せば 即ち天涯(てんがい)
落紅不是無情物 落紅(らくこう)は是(こ)れ 無情(むじょう)の物にあらず
化作春泥更護花 化して春泥(しゅんでい)と作(な)り 更に花を護(まも)る
⊂訳⊃
果てしない別れの悲しみ 陽は西に傾いている
詩人の鞭で東方を指させば 天空の果てだ
だが 散りゆく花びらにも 心というものがある
春泥にまみれて 咲く花を守ろうとしているのだ
⊂ものがたり⊃ 詩題の「己亥」(きがい)は道光十九年(1839)のことで、四十八歳で職を辞し、都を去るときの作品です。その四月末から十二月までに三百十五首の七言絶句を作りました。
其の五の詩は、馬に乗って北京を旅立とうとするときの情景と心境です。起句は悲しみに沈みながら馬上で夕陽をみています。沈む夕陽はしばしば王朝の終わりの比喩でもあります。承句では視線を東に移し、「吟鞭」(詩人の持つ鞭)で故郷の方向を指さします。野にくだる決意をしめすのでしょう。
後半は一転して、去るにあたっての心境をのべます。「落紅」は散る紅い花びらで、花びらにも心があるといいます。花びらは泥土のなかに落ちて、つぎに咲く花を守ろうとしているのだと、「落紅」に託して人材育成に努める覚悟をしめすのです。
清46ー龔自珍
己亥雑詩 其百二十三 己亥雑詩 其の百二十三
不論塩鉄不籌河 塩鉄(えんてつ)を論ぜず 河(か)を籌(はか)らず
独倚東南涕涙多 独り東南に倚(よ)って 涕涙(ているい)多し
国賦三升民一斗 国賦(こくふ)三升(さんしょう) 民一斗(たみいっと)
屠牛那不勝栽禾 屠牛(とぎゅう) 那(なん)ぞ禾(いね)を栽(う)うるに勝(まさ)らざらん
⊂訳⊃
政府は経済を論ぜず 政事に思いを致そうとしない
私はひとり 江南に身をよせて涙を流す
租税は三升 だが民の負担は一斗になる
耕すよりも 牛を殺して食べるほうがまだましだ
⊂ものがたり⊃ 其の百二十三の詩は、承句に「独り東南に倚って」とあり、江南に帰ってからの作です。起句の「塩鉄」は政府の専売品で財政のかなめの産物であり、転じて経済を意味します。「河を籌る」は治水のことで、格言に「水を治める者は天下を治める」とあり、転じて政事を意味します。政府が経済・政事に無策であることを嘆きながら、なにもできないことに悔し涙をながすのです。
後半二句では悪政の一端にふれます。国家の租税は「三升」と決められているのに民の実質的な負担は「一斗」であると指摘します。租税はすでに金納になっていましたが、アヘンの流入によって銀が国外に流出して銀は高騰していました。一方、民間で流通するのは銅貨であり、納税者は銅貨を銀貨に換えて納税しなければなりません。三倍以上の納税になるので、これではまともに稲を植えるよりは農耕の牛を殺して食べるほうがましだと政事を批判します。
清47ー龔自珍
己亥雑詩 其百二十五 己亥雑詩 其の百二十五
九州生気恃風雷 九州の生気(せいき) 風雷(ふうらい)を恃(たの)み
万馬斉瘖究可哀 万馬(ばんば) 斉(ひと)しく瘖(おしだま)り 究(つい)に哀れむ可(べ)し
我勧天公重抖擻 我れ天公(てんこう)に勧(すす)む 重(かさ)ねて抖擻(とうそう)して
不拘一格降人材 一格(いっかく)に拘(こだ)わらず 人材を降(くだ)せと
⊂訳⊃
中国が生気を取り戻すには 風神雷神に頼るほかはない
誰もが押し黙っているから 哀れな状態になったのだ
私は天子様にお願いしたい すべての利害を払いのけて
身分などにはこだわらず 有為の人材を登用すべしと
⊂ものがたり⊃ 其の百二十五の詩は、潤州(江蘇省鎮江市)で玉帝や風神雷神の祭りを見物していたとき、道教の道士に祝詞を作ってくれと頼まれて作ったと自注にあります。「九州」は中国全土の古称です。中国が生気を取りもどすには「風雷」(風神と雷神)が必要であるが、こんなになったのは「万馬」(人々)が押し黙っているから哀れな状態になったのだといいます。「天公」は天帝のことですが、天子をさす場合もあります。「抖擻」は梵語「頭陀(ずだ)」の訳語で、すべての欲望を払いのけることです。だから天子はすべての利害を払いのけて、「一格」(地位、身分)にこだわらずに有為の人材を登用すべきであると詠います。
清48ー龔自珍
己亥雑詩 其百七十 己亥雑詩 其の百七十
少年哀楽過于人 少年の哀楽(あいらく) 人に過ぎ
歌泣無端字字真 歌泣(かきゅう) 端(はし)無く 字字(じじ)真(しん)なり
既壮周旋雑癡黠 既にして壮なるや 周旋(しゅうせん)して 癡(ち)と黠(きつ)を雑(まじ)え
童心来復夢中身 童心(どうしん) 来復(らいふく)す 夢中(むちゅう)の身
⊂訳⊃
若いころは 喜怒哀楽がはげしくて
わけもなく詠い憤慨したが ひとつひとつは真実だった
壮年になって世間と交わり 愚かさと悪知恵が混じりあう
純真無垢の一念は 夢にしか見ない男になり果てた
⊂ものがたり⊃ 其の百七十の詩は若いころの自分を顧みて現在の自分を反省する作品です。前半二句は若いころの自分。「少年」は二十代のことです。「歌泣」は詩を吟じることと泣くこと。「無端」は「端無く」と訓じ、わけもなく、突然にという意味になります。若者のころは喜怒哀楽が激しくて、感情に任せて詠ったり泣いたりしたが、ひとつひとつの言葉は「真」(真実)だったと詠います。
後半は現在の自分への反省です。「周旋」は人と交際すること。「癡黠」は愚かさと悪賢さで、「童心 来復す 夢中の身」と結びます。「童心」は明の思想家で陽明学左派の李贄(卓吾)の童心説に基づく言葉で、人が生まれながらに持っている純真無垢の初一念のことです。龔自珍が亡くなる前年にアヘン戦争がはじまります。龔自珍は林則徐が罷免されるのを見ますが、戦争の結末を見ないままの死でした。(2016.9.17)