清59ー魯 迅
自題小像 自ら小像に題す
霊台無計逃神矢 霊台(れいだい) 神矢(しんし)を逃るるに計(けい)無く
風雨如磐闇故園 風雨 磐(いわお)の如くにして故園(こえん)を闇(やみ)とす
寄意寒星荃不察 意を寒星(かんせい)に寄(よ)するも 荃(せん) 察せず
我以我血薦軒轅 我れは我が血を以って 軒轅(けんえん)に薦(すす)めん
⊂訳⊃
祖国は異国の攻撃を逃れる策もないままに
風雨は岩のように押し寄せて 国は闇となる
朝廷の要人に期待をよせるが 皇帝陛下はお察しにならない
ならば私は自分の血を流して 黄帝に捧げよう
⊂ものがたり⊃ 西太后を失った清朝は、もはや旧来の専制主義を維持できませんでした。清の支配は急速に揺らぎ、革命派の動きが活発になります。宣統三年(1911)十月十日、武昌(湖北省武漢市武昌区)の新軍将兵が蜂起すると、報せは中国全土に伝わり、各地で革命派や新軍が反乱を起こして十三の省が独立を宣言しました。この事態に中央政府はなす術もなく、遠ざけていた袁世凱を北京によびもどして欽差大臣に任じ、十一月には親貴内閣を廃止して、袁世凱を内閣総理大臣に任命しました。
孫文はそのころ国外で革命運動を指揮していましたが、十二月二十一日に香港に到着し、二十五日には上海で熱烈な歓迎をうけます。翌民国元年(1912)正月元日、孫文は南京で中華民国の建国を宣言し、みずから臨時大総統に就任します。しかし、中国の現状からして内戦は避けるべきと考え、「清帝が退位して、袁世凱が共和制に賛成するのであれば、臨時大総統の地位を袁に譲ってもよい」との声明を発表しました。袁世凱は光緒帝の皇后を説得して、二月十二日に宣統帝の退位が発表されます。
清朝は時代の風雨のなかで倒れた老木といってよく、秦の始皇帝以来二千年にわたってつづいた専制王朝の終焉でもありました。だが、袁世凱は共和制への移行を推進せず、中華民国の動乱がはじまります。軍閥抗争の時代に文筆活動を始めた魯迅(ろじん)は、中国近代文学の第一人者になりますが、清末には国を憂える一人の若者でした。
魯迅(1881―1936)は本名を周樹人(しゅうじゅじん)といい、紹興(浙江省紹興市)の人です。光緒七年(1881)に生まれ、生家は裕福な官家でしたが幼少のころには没落していました。光緒二十八年(1902・明治三十五年)、二十二歳のときに国費留学生として来日し、仙台医学専門学校に学びます。在学中に文学を志すようになり、宣統元年(1909)に帰国して故郷の紹興で教師になります。
三十一歳のとき武昌蜂起がおこりますが、紹興の政事になんの変化もなく、翌民国元年に紹興をでて北京の教育部社会教育課長になります。民国七年(1918)六月、雑誌『新青年』に「狂人日記」を発表し、翌年には「孔乙己(コンイーチー)」「薬」を発表、中国人の暗部をえぐりだします。
北京大学の非常勤講師であった民国十年(1921・大正十年)に代表作「阿Q正伝」を発表、中国社会のゆがみに切りこんでいきます。北京女子師範の非常勤講師をしていた民国十五年(1926・大正十五年)三月十八日、連合国の内政干渉に憤激した学生が天安門広場で抗議集会をひらき、軍隊が発砲して三・一八事件がおきました。進歩的知識人への圧迫も強まり、魯迅は家族を北京にのこし、前年に知りあった女子大生の許広平(きょこうへい)らと北京を離れ、九月に厦門(アモイ)大学に身をよせます。
ほどなく広州の中山大学に移りますが、民国十六年(1927)四月十二日に上海でおこった共産党弾圧事件が広州に波及し、左派学生の逮捕や大学職員の罷免がおこります。それに反対した魯迅は辞表を提出し、九月に許広平と上海の共同租界に移りました。許広平とのあいだには息子周海嬰(かいえい)が生まれていました。魯迅は国民党政権と対立し、南京政府の追及を避けながら文筆活動をつづけ、民国二十五年(1936・昭和十一年)に上海でなくなります。享年五十六歳です。
詩題の「小像」は肖像写真のことです。日本に留学していた二十三歳のとき、自分の写真に詩を書きつけました。前半二句は中国の現状描写です。「霊台」は周の辟雍(へきよう:神宮)に付設されていた建物で、転じて祖国をあらわします。「神矢」は異国の神が放つ矢のことで、具体的には西欧諸国の侵略行為でしょう。「風雨」は困難や逆境の喩えで、岩のように押しよせる苦難に「故園」(故郷・祖国)は闇に閉ざされていると詠います。
後半では自分の心境と決意をのべます。「寒星」は『楚辞』にもとづく語で賢臣を意味し、「荃」も『楚辞』にもとづく語で皇帝をいいます。つまり皇帝陛下や朝廷は頼みにならない。だから自分は自分自身の血を注いで祖国の神に捧げようと結ぶのです。「軒轅」は黄帝のことで、漢民族の祖神として崇められていました。
清60ー魯 迅
自 嘲 自ら嘲る
運交華蓋欲何求 運(うん) 華蓋(かがい)に交わりて 何(なに)をか求めんと欲する
未敢翻身已碰頭 未(いま)だ敢て身を翻(ひるがえ)さざるに 已(すで)に頭(こうべ)を碰(う)つ
破帽遮顔過鬧市 破帽(はぼう) 顔(かんばせ)を遮(さえぎ)って鬧市(どうし)を過ぎ
漏船載酒泛中流 漏船(ろうせん) 酒を載(の)せて中流に泛(うか)ぶ
横眉冷対千夫指 眉(まゆ)を横たえて冷やかに対す 千夫(せんぷ)の指
俯首甘為孺子牛 首(こうべ)を俯(ふ)して甘んじて為(な)る 孺子(じゅし)の牛
躱進小楼成一統 小楼に躱(のが)れ進みて一統(いっとう)を成(な)さん
管牠冬夏与春秋 牠(か)の冬夏(とうか)と春秋(しゅんじゅう)とに管(かん)せんや
⊂訳⊃
私は華蓋の運に出あって なにをしようしているのか
進む方向を変えない内に 頭をぶつけてしまったようだ
敗れた帽子で顔を隠し 繁華な街を通り抜けるような
破れた船に酒を載せて 流れに浮かぶような日々だった
これからは眉をあげて 冷静に千人の敵にむかいあい
謙虚な態度で子供と遊び 牛の役目も喜んでつとめよう
小さな家に身を隠して 一家の者をまもり
季節の移ろい世の変化に かかわり合うのはやめにしよう
⊂ものがたり⊃ 詩題「自嘲」はみずからを嘲ることです。亡くなる四年前、民国二十一年(1932)の作品です。上海に移って五年目、魯迅は五十二歳になっていました。前年九月に満洲事変が起こり、南京の蒋介石は東北軍閥の張学良に隠忍自重を求めました。つづくこの年の一月に上海事変がおこり、魯迅の書斎にも弾丸が飛来し、家族とともに内山書店に避難しました。三月には満洲国が建国します。
七言律詩のはじめ二句は現在の心境です。「華蓋」は占星術の用語で、僧侶にめぐりあうと栄達するが凡人にであうと八方塞がりになる星です。まだ進路を変えようとしないうちに「碰頭」(頭打ち)になると詠います。
中四句二聯の対句のはじめ二句は、これまでの不安定な生活を総括します。比喩をもちいて描いていますが、国民党政権の追及を逃れて暮らす日々でした。つづく対句は今後の生き方についての抱負です。「千夫の指」は千人の人の指、多くの敵のことです。「孺子の牛」は子供の遊び相手の牛で、わが子と遊ぶとき牛になって子供を喜ばせてやろうといいます。逃げ隠れせずに論戦し、家庭ではよい父親になろうと詠うのです。
最後の二句では今後の生き方について重ねてのべ、「牠の冬夏と春秋とに管せんや」と結びます。「冬夏」は季節の移りかわり、「春秋」は史書の『春秋』をさし、時代の変転です。「牠の……に管せんや」と詠い、悠然とした生き方をしようといっていますが、満洲の成りゆきに失望を隠せない魯迅です。(2016.9.29)
※ 以上で、清代を終わります。閲覧ありがとうございました。
自題小像 自ら小像に題す
霊台無計逃神矢 霊台(れいだい) 神矢(しんし)を逃るるに計(けい)無く
風雨如磐闇故園 風雨 磐(いわお)の如くにして故園(こえん)を闇(やみ)とす
寄意寒星荃不察 意を寒星(かんせい)に寄(よ)するも 荃(せん) 察せず
我以我血薦軒轅 我れは我が血を以って 軒轅(けんえん)に薦(すす)めん
⊂訳⊃
祖国は異国の攻撃を逃れる策もないままに
風雨は岩のように押し寄せて 国は闇となる
朝廷の要人に期待をよせるが 皇帝陛下はお察しにならない
ならば私は自分の血を流して 黄帝に捧げよう
⊂ものがたり⊃ 西太后を失った清朝は、もはや旧来の専制主義を維持できませんでした。清の支配は急速に揺らぎ、革命派の動きが活発になります。宣統三年(1911)十月十日、武昌(湖北省武漢市武昌区)の新軍将兵が蜂起すると、報せは中国全土に伝わり、各地で革命派や新軍が反乱を起こして十三の省が独立を宣言しました。この事態に中央政府はなす術もなく、遠ざけていた袁世凱を北京によびもどして欽差大臣に任じ、十一月には親貴内閣を廃止して、袁世凱を内閣総理大臣に任命しました。
孫文はそのころ国外で革命運動を指揮していましたが、十二月二十一日に香港に到着し、二十五日には上海で熱烈な歓迎をうけます。翌民国元年(1912)正月元日、孫文は南京で中華民国の建国を宣言し、みずから臨時大総統に就任します。しかし、中国の現状からして内戦は避けるべきと考え、「清帝が退位して、袁世凱が共和制に賛成するのであれば、臨時大総統の地位を袁に譲ってもよい」との声明を発表しました。袁世凱は光緒帝の皇后を説得して、二月十二日に宣統帝の退位が発表されます。
清朝は時代の風雨のなかで倒れた老木といってよく、秦の始皇帝以来二千年にわたってつづいた専制王朝の終焉でもありました。だが、袁世凱は共和制への移行を推進せず、中華民国の動乱がはじまります。軍閥抗争の時代に文筆活動を始めた魯迅(ろじん)は、中国近代文学の第一人者になりますが、清末には国を憂える一人の若者でした。
魯迅(1881―1936)は本名を周樹人(しゅうじゅじん)といい、紹興(浙江省紹興市)の人です。光緒七年(1881)に生まれ、生家は裕福な官家でしたが幼少のころには没落していました。光緒二十八年(1902・明治三十五年)、二十二歳のときに国費留学生として来日し、仙台医学専門学校に学びます。在学中に文学を志すようになり、宣統元年(1909)に帰国して故郷の紹興で教師になります。
三十一歳のとき武昌蜂起がおこりますが、紹興の政事になんの変化もなく、翌民国元年に紹興をでて北京の教育部社会教育課長になります。民国七年(1918)六月、雑誌『新青年』に「狂人日記」を発表し、翌年には「孔乙己(コンイーチー)」「薬」を発表、中国人の暗部をえぐりだします。
北京大学の非常勤講師であった民国十年(1921・大正十年)に代表作「阿Q正伝」を発表、中国社会のゆがみに切りこんでいきます。北京女子師範の非常勤講師をしていた民国十五年(1926・大正十五年)三月十八日、連合国の内政干渉に憤激した学生が天安門広場で抗議集会をひらき、軍隊が発砲して三・一八事件がおきました。進歩的知識人への圧迫も強まり、魯迅は家族を北京にのこし、前年に知りあった女子大生の許広平(きょこうへい)らと北京を離れ、九月に厦門(アモイ)大学に身をよせます。
ほどなく広州の中山大学に移りますが、民国十六年(1927)四月十二日に上海でおこった共産党弾圧事件が広州に波及し、左派学生の逮捕や大学職員の罷免がおこります。それに反対した魯迅は辞表を提出し、九月に許広平と上海の共同租界に移りました。許広平とのあいだには息子周海嬰(かいえい)が生まれていました。魯迅は国民党政権と対立し、南京政府の追及を避けながら文筆活動をつづけ、民国二十五年(1936・昭和十一年)に上海でなくなります。享年五十六歳です。
詩題の「小像」は肖像写真のことです。日本に留学していた二十三歳のとき、自分の写真に詩を書きつけました。前半二句は中国の現状描写です。「霊台」は周の辟雍(へきよう:神宮)に付設されていた建物で、転じて祖国をあらわします。「神矢」は異国の神が放つ矢のことで、具体的には西欧諸国の侵略行為でしょう。「風雨」は困難や逆境の喩えで、岩のように押しよせる苦難に「故園」(故郷・祖国)は闇に閉ざされていると詠います。
後半では自分の心境と決意をのべます。「寒星」は『楚辞』にもとづく語で賢臣を意味し、「荃」も『楚辞』にもとづく語で皇帝をいいます。つまり皇帝陛下や朝廷は頼みにならない。だから自分は自分自身の血を注いで祖国の神に捧げようと結ぶのです。「軒轅」は黄帝のことで、漢民族の祖神として崇められていました。
清60ー魯 迅
自 嘲 自ら嘲る
運交華蓋欲何求 運(うん) 華蓋(かがい)に交わりて 何(なに)をか求めんと欲する
未敢翻身已碰頭 未(いま)だ敢て身を翻(ひるがえ)さざるに 已(すで)に頭(こうべ)を碰(う)つ
破帽遮顔過鬧市 破帽(はぼう) 顔(かんばせ)を遮(さえぎ)って鬧市(どうし)を過ぎ
漏船載酒泛中流 漏船(ろうせん) 酒を載(の)せて中流に泛(うか)ぶ
横眉冷対千夫指 眉(まゆ)を横たえて冷やかに対す 千夫(せんぷ)の指
俯首甘為孺子牛 首(こうべ)を俯(ふ)して甘んじて為(な)る 孺子(じゅし)の牛
躱進小楼成一統 小楼に躱(のが)れ進みて一統(いっとう)を成(な)さん
管牠冬夏与春秋 牠(か)の冬夏(とうか)と春秋(しゅんじゅう)とに管(かん)せんや
⊂訳⊃
私は華蓋の運に出あって なにをしようしているのか
進む方向を変えない内に 頭をぶつけてしまったようだ
敗れた帽子で顔を隠し 繁華な街を通り抜けるような
破れた船に酒を載せて 流れに浮かぶような日々だった
これからは眉をあげて 冷静に千人の敵にむかいあい
謙虚な態度で子供と遊び 牛の役目も喜んでつとめよう
小さな家に身を隠して 一家の者をまもり
季節の移ろい世の変化に かかわり合うのはやめにしよう
⊂ものがたり⊃ 詩題「自嘲」はみずからを嘲ることです。亡くなる四年前、民国二十一年(1932)の作品です。上海に移って五年目、魯迅は五十二歳になっていました。前年九月に満洲事変が起こり、南京の蒋介石は東北軍閥の張学良に隠忍自重を求めました。つづくこの年の一月に上海事変がおこり、魯迅の書斎にも弾丸が飛来し、家族とともに内山書店に避難しました。三月には満洲国が建国します。
七言律詩のはじめ二句は現在の心境です。「華蓋」は占星術の用語で、僧侶にめぐりあうと栄達するが凡人にであうと八方塞がりになる星です。まだ進路を変えようとしないうちに「碰頭」(頭打ち)になると詠います。
中四句二聯の対句のはじめ二句は、これまでの不安定な生活を総括します。比喩をもちいて描いていますが、国民党政権の追及を逃れて暮らす日々でした。つづく対句は今後の生き方についての抱負です。「千夫の指」は千人の人の指、多くの敵のことです。「孺子の牛」は子供の遊び相手の牛で、わが子と遊ぶとき牛になって子供を喜ばせてやろうといいます。逃げ隠れせずに論戦し、家庭ではよい父親になろうと詠うのです。
最後の二句では今後の生き方について重ねてのべ、「牠の冬夏と春秋とに管せんや」と結びます。「冬夏」は季節の移りかわり、「春秋」は史書の『春秋』をさし、時代の変転です。「牠の……に管せんや」と詠い、悠然とした生き方をしようといっていますが、満洲の成りゆきに失望を隠せない魯迅です。(2016.9.29)
※ 以上で、清代を終わります。閲覧ありがとうございました。