清57ー王国維
欲 覓 覓めんと欲す
欲覓吾心已自難 吾(わ)が心を覓(もと)めんと欲するも 已(すで)に自(おのず)から難(かた)し
更従何処把心安 更に何(いず)れの処(ところ)従(よ)り 心の安きを把(と)らんや
詩縁病輟弥無頼 詩は病に縁(よ)りて輟(や)め 弥々(いよいよ)頼るもの無く
憂与生来詎有端 憂(うれ)いは生と与(とも)に来たりて 詎(なん)ぞ端(たん)有らん
起看月中霜万瓦 起ちて看(み)る 月中(げつちゅう) 霜 万瓦(ばんが)
臥聞風裏竹千竿 臥(ふ)して聞く 風裏(ふうり) 竹 千竿(せんかん)
滄浪亭北君遷樹 滄浪亭北(そうろうていほく) 君遷(くんせん)の樹(き)
何限棲鴉噪暮寒 何限(かげん)の棲鴉(せいあ) 暮寒(ぼかん)に噪(さわ)ぐ
⊂訳⊃
自分の心を尋ね求めるが そのことがすでに難しい
これ以上の心の落ち着きを どこに求めようというのか
病のために詩作もやめて いよいよ頼るものもなく
生きているだけで悩みは湧き 切っかけなどは要らない
立って見れば 霜が降りたように月下で煌めく無数の瓦
寝て聞くのは 風に吹かれてざわめくたくさんの竹の音
滄浪亭の北に 君遷の樹がある
塒に帰る鴉が 夕暮れの寒さのなかで騒いでいる
⊂ものがたり⊃ 光緒九年(1883)、ベトナムを巡って清仏戦争がおこり、翌十年までつづきます。その十二月に朝鮮で甲申政変がおこり、日清両国は朝鮮に出兵しました。光緒二十年(1894・明治二十七年)に日清戦争がはじまりますが、戦ったのは主として李鴻章の淮軍と北洋艦隊でした。翌年四月、日本と李鴻章のあいだで日清講和条約(下関条約)が結ばれます。
公羊学派の学者であった康有為(こうゆうい)は明治維新を成し遂げた日本の改革に注目し、梁啓超(りょうけいちょう)らと政事改革のための理論に取り組み、しばしば上書して「変法自強」を訴えました。租借という名の領土侵略に危機感を抱いていた光緒帝は、光緒二十四年(1898)六月、「国是を定めるの詔」を下して変法の実施を明らかにし、康有為を総理衙門章京(ジャンチン:大臣補佐)に任命して矢継ぎばやに上諭を公布しました。
九月七日には変法に批判的であった李鴻章を総理衙門大臣から罷免します。すると保守派は西太后を擁してクーデターを起こし、九月二十一日、光緒帝は幽閉され、康有為と梁啓超は日本へ亡命します。変法自強運動の挫折です。
光緒二十五年(1899)十二月、山東西部で義和団の乱が発生します。義和団は「扶清滅洋」のスローガンをかかげて翌年四月には天津・北京に迫る勢いになります。清朝は義和団を乱民とみるか義民とみるかで逡巡していましたが、西太后は義和団の排外主義に乗じて列強に宣戦布告をします。しかし、八か国連合軍が北京に入城するにおよんで西太后は光緒帝をともなって西安に逃げ、李鴻章を広州から呼びだして講和を結ばせます。
光緒二十七年(1901)北京にもどった西太后は光緒の新政と呼ばれる改革に乗り出しました。その内容は二年前にみずから排斥した変法運動を復活させるものでした。軍の近代化がすすめられ、六個師団からなる北洋新軍が編成され、その中心になったのは武衛右軍をひきいる山東巡撫の袁世凱(えんせいがい)でした。この年、李鴻章が死去したので、袁世凱はその後任として北洋大臣・直隷総督に任命され、清朝最大の実力者にのしあがります。
中国東北部の権益をめぐって日露戦争がはじまるのは、光緒三十年(1904・明治三十七年)二月のことです。清朝は局外中立を宣言し、戦争は日本の勝利に帰して翌年九月、日露講和条約がポーツマスで調印されます。
日本が大国ロシアに勝利したのは中国にとって驚きでした。日本にならって中国でも欽定憲法を制定し、政事改革を進めるべきであるという声が高まり、光緒三十四年(1908)九月に明治憲法をモデルにした憲法草案が示されました。九年以内に国会を召集することも約束されましたが、その年の十一月十四日に光緒帝が崩じ、つづいて西太后が死去したのです。
西太后は病に倒れた十三日、光緒帝の弟醇親王載灃(さいほう)の王子愛新覚羅溥儀(ふぎ)を皇太子に指名し、載灃を摂政王に任じました。十二月二日、二歳の溥儀は即位して宣統帝となります。
清朝が日本へ留学生を派遣するのは日清戦争後の光緒二十二年(1896)からです。王国維(おうこくい)は初期の日本留学生で学者として終始しますが、最後は清朝に殉じて自殺したので清の最後の詩人といえるでしょう。
王国維(1877―1927)は海寧(浙江省海寧県)の人。光緒三年(1877)に生まれ、光緒二十七年(1901・明治三十四年)、二十五歳のときに来日して物理学を学びます。翌年には帰国し、蘇州で哲学や心理学を講じます。
宣統三年(1911)、三十五歳のとき辛亥革命に遭遇し、翌民国元年に清は滅亡します。以後、清朝の遺老をもって任じ、羅振玉(らしんぎょく)にしたがって日本に亡命します。京都で古文字学(甲骨文・金文)や中国古代史の研究に従事し、西洋の哲学・文学・美術を学びます。帰国後、清華研究院や北京大学に迎えられましたが、民国十六年(1927)、国民革命軍の北京入城をまえに頤和園の昆明湖に入水して自殺しました。享年五十一歳です。
詩題の「覓(もと)めんと欲す」は探し求めたい、探しあてたいという心の欲求をいいます。日本留学から帰って江南にいた二十八歳の冬の作品です。中四句二聯の対句を前後の二句で囲む七言律詩で、まず自分の不安な心境から詠いだします。王朝の衰退をまえにして自分はこれからどうしたらいいのか、心の拠りどころさえわからないと詠います。
中四句のはじめの対句では、その不安定な気持ちをさらに強調します。病気のために詩作もやめてしまった。不安、心配、悩みは、後から後から湧き起こってきます。つぎの対句では視点をかえて叙景に移ります。立ちあがってみると、見えるのは「月中 霜 万瓦」、横になって聞こえるのは「風裏 竹 千竿」であり、情景は蒼然とした心情をうかがわせます。
最後の二句は結びで、不吉な予感に満ちています。作者は滄浪亭にいて、その北に「君遷の樹」(豆柿の木)が生えています。豆柿は柿科の植物で、君主が遷るという寓意があります。あたりには「何限の棲鴉」(塒に帰ろうとする鴉)が夕暮れの冷えこみのなかでしきりに鳴いています。その声は清朝が瓦解するのではないかという予感、そうした予感を感じる人々のざわめく声のようでもありました。
欲 覓 覓めんと欲す
欲覓吾心已自難 吾(わ)が心を覓(もと)めんと欲するも 已(すで)に自(おのず)から難(かた)し
更従何処把心安 更に何(いず)れの処(ところ)従(よ)り 心の安きを把(と)らんや
詩縁病輟弥無頼 詩は病に縁(よ)りて輟(や)め 弥々(いよいよ)頼るもの無く
憂与生来詎有端 憂(うれ)いは生と与(とも)に来たりて 詎(なん)ぞ端(たん)有らん
起看月中霜万瓦 起ちて看(み)る 月中(げつちゅう) 霜 万瓦(ばんが)
臥聞風裏竹千竿 臥(ふ)して聞く 風裏(ふうり) 竹 千竿(せんかん)
滄浪亭北君遷樹 滄浪亭北(そうろうていほく) 君遷(くんせん)の樹(き)
何限棲鴉噪暮寒 何限(かげん)の棲鴉(せいあ) 暮寒(ぼかん)に噪(さわ)ぐ
⊂訳⊃
自分の心を尋ね求めるが そのことがすでに難しい
これ以上の心の落ち着きを どこに求めようというのか
病のために詩作もやめて いよいよ頼るものもなく
生きているだけで悩みは湧き 切っかけなどは要らない
立って見れば 霜が降りたように月下で煌めく無数の瓦
寝て聞くのは 風に吹かれてざわめくたくさんの竹の音
滄浪亭の北に 君遷の樹がある
塒に帰る鴉が 夕暮れの寒さのなかで騒いでいる
⊂ものがたり⊃ 光緒九年(1883)、ベトナムを巡って清仏戦争がおこり、翌十年までつづきます。その十二月に朝鮮で甲申政変がおこり、日清両国は朝鮮に出兵しました。光緒二十年(1894・明治二十七年)に日清戦争がはじまりますが、戦ったのは主として李鴻章の淮軍と北洋艦隊でした。翌年四月、日本と李鴻章のあいだで日清講和条約(下関条約)が結ばれます。
公羊学派の学者であった康有為(こうゆうい)は明治維新を成し遂げた日本の改革に注目し、梁啓超(りょうけいちょう)らと政事改革のための理論に取り組み、しばしば上書して「変法自強」を訴えました。租借という名の領土侵略に危機感を抱いていた光緒帝は、光緒二十四年(1898)六月、「国是を定めるの詔」を下して変法の実施を明らかにし、康有為を総理衙門章京(ジャンチン:大臣補佐)に任命して矢継ぎばやに上諭を公布しました。
九月七日には変法に批判的であった李鴻章を総理衙門大臣から罷免します。すると保守派は西太后を擁してクーデターを起こし、九月二十一日、光緒帝は幽閉され、康有為と梁啓超は日本へ亡命します。変法自強運動の挫折です。
光緒二十五年(1899)十二月、山東西部で義和団の乱が発生します。義和団は「扶清滅洋」のスローガンをかかげて翌年四月には天津・北京に迫る勢いになります。清朝は義和団を乱民とみるか義民とみるかで逡巡していましたが、西太后は義和団の排外主義に乗じて列強に宣戦布告をします。しかし、八か国連合軍が北京に入城するにおよんで西太后は光緒帝をともなって西安に逃げ、李鴻章を広州から呼びだして講和を結ばせます。
光緒二十七年(1901)北京にもどった西太后は光緒の新政と呼ばれる改革に乗り出しました。その内容は二年前にみずから排斥した変法運動を復活させるものでした。軍の近代化がすすめられ、六個師団からなる北洋新軍が編成され、その中心になったのは武衛右軍をひきいる山東巡撫の袁世凱(えんせいがい)でした。この年、李鴻章が死去したので、袁世凱はその後任として北洋大臣・直隷総督に任命され、清朝最大の実力者にのしあがります。
中国東北部の権益をめぐって日露戦争がはじまるのは、光緒三十年(1904・明治三十七年)二月のことです。清朝は局外中立を宣言し、戦争は日本の勝利に帰して翌年九月、日露講和条約がポーツマスで調印されます。
日本が大国ロシアに勝利したのは中国にとって驚きでした。日本にならって中国でも欽定憲法を制定し、政事改革を進めるべきであるという声が高まり、光緒三十四年(1908)九月に明治憲法をモデルにした憲法草案が示されました。九年以内に国会を召集することも約束されましたが、その年の十一月十四日に光緒帝が崩じ、つづいて西太后が死去したのです。
西太后は病に倒れた十三日、光緒帝の弟醇親王載灃(さいほう)の王子愛新覚羅溥儀(ふぎ)を皇太子に指名し、載灃を摂政王に任じました。十二月二日、二歳の溥儀は即位して宣統帝となります。
清朝が日本へ留学生を派遣するのは日清戦争後の光緒二十二年(1896)からです。王国維(おうこくい)は初期の日本留学生で学者として終始しますが、最後は清朝に殉じて自殺したので清の最後の詩人といえるでしょう。
王国維(1877―1927)は海寧(浙江省海寧県)の人。光緒三年(1877)に生まれ、光緒二十七年(1901・明治三十四年)、二十五歳のときに来日して物理学を学びます。翌年には帰国し、蘇州で哲学や心理学を講じます。
宣統三年(1911)、三十五歳のとき辛亥革命に遭遇し、翌民国元年に清は滅亡します。以後、清朝の遺老をもって任じ、羅振玉(らしんぎょく)にしたがって日本に亡命します。京都で古文字学(甲骨文・金文)や中国古代史の研究に従事し、西洋の哲学・文学・美術を学びます。帰国後、清華研究院や北京大学に迎えられましたが、民国十六年(1927)、国民革命軍の北京入城をまえに頤和園の昆明湖に入水して自殺しました。享年五十一歳です。
詩題の「覓(もと)めんと欲す」は探し求めたい、探しあてたいという心の欲求をいいます。日本留学から帰って江南にいた二十八歳の冬の作品です。中四句二聯の対句を前後の二句で囲む七言律詩で、まず自分の不安な心境から詠いだします。王朝の衰退をまえにして自分はこれからどうしたらいいのか、心の拠りどころさえわからないと詠います。
中四句のはじめの対句では、その不安定な気持ちをさらに強調します。病気のために詩作もやめてしまった。不安、心配、悩みは、後から後から湧き起こってきます。つぎの対句では視点をかえて叙景に移ります。立ちあがってみると、見えるのは「月中 霜 万瓦」、横になって聞こえるのは「風裏 竹 千竿」であり、情景は蒼然とした心情をうかがわせます。
最後の二句は結びで、不吉な予感に満ちています。作者は滄浪亭にいて、その北に「君遷の樹」(豆柿の木)が生えています。豆柿は柿科の植物で、君主が遷るという寓意があります。あたりには「何限の棲鴉」(塒に帰ろうとする鴉)が夕暮れの冷えこみのなかでしきりに鳴いています。その声は清朝が瓦解するのではないかという予感、そうした予感を感じる人々のざわめく声のようでもありました。