清26ー深徳潜
過許州 許州を過ぐ
到処陂塘決決流 到る処(ところ)の陂塘(ひとう) 決決(けつけつ)として流る
垂楊百里罨平疇 垂楊(すいよう) 百里 平疇(へいちゅう)を罨(おお)う
行人便覚鬚眉緑 行人(こうじん) 便(すなわ)ち覚(おぼ)ゆ 鬚眉(しゅび)の緑なるを
一路蝉声過許州 一路(いちろ)の蝉声(せんせい) 許州(きょしゅう)を過ぐ
⊂訳⊃
あちらこちらの池の堤は 爽やかにせせらぎ流れ
柳の並木は畑をめぐって どこまでもつづく
旅人は鬚も眉も 緑に染まった気分になり
蝉の鳴く声の中 一路許州を過ぎていく
⊂ものがたり⊃ 清朝二百六十八年のうち、康煕・雍正・乾隆の三代は全盛期と称されています。中国の人口は宋代から明代にかけておおむね一億人程度でしたが、清朝になってから二百年を経た乾隆末年には三億人を超え、明代の三倍になりました。その背景には農業生産力の増強があり、産業の発展と平和な生活がありました。
ただし、支配民族である満州族の人口は百万人程度であったと推定されており、三百分の一の少数支配でした。そのため康熙帝の時代においても漢族の夷狄思想には厳しい目がそそがれ、反満的な言動・詩文に対しては極刑が科されました。「文字の獄」と称され、漢族文人にとっては大きな制約のある時代でした。
清朝が抱えていたもうひとつの問題は、皇位継承法が確立していなかったことです。康熙帝には十七人の皇子があり、それぞれの皇子を擁して後継者争いが激しくなりました。雍正帝は即位の翌年、「太子密建」の法を宣言します。これはつぎの皇帝となる皇太子の名を公表せず、その名を記した親書を箱に封じて、紫禁城の乾清宮に掲げてある「正大光明」と書かれた扁額の裏に置くというものです。
このような定めをしたにもかかわらず、雍正帝は主な兄弟七名を幽閉し、雍正帝の死後、生きて釈放された者は二名に過ぎませんでした。雍正帝の治世は十三年と短く、おおむね康熙帝の政策を引きつぐものでした。大きな外征もおこなわず、全盛期の王朝を満喫した皇帝でした。
雍正十三年(1735)に雍正帝が崩じると、八月に二十五歳の愛新覚羅弘暦(こうれき)が即位して乾隆帝になります。乾隆帝の時代になってからも二十年間は大きな外征がなかったので、三十余年にわたる平和がつづきました。乾隆二十年(1755)になると清はジュンガルに遠征し、伊犁(いり:新疆ウイグル自治区伊寧市)地方を制圧します。以後、タリム盆地・台湾・チベット・ベトナム・ビルマなどへも兵を向け、遠征軍はネパールのカトマンズの近くまで達したといいます。
乾隆帝の時代に清は最大の版図になりますが、清の支配に服したモンゴル、チベット、ジュンガル(東トルキスタン)は漢族の中国に服したのではなく征服王朝である清に服したのであり、これら内陸アジアの民族に対して清は「中華の礼」を求めず、皇帝もチベット仏教の保護者として臨んだのです。清は複数の民族を各個に支配する征服王朝でした。
外征のつづくなか北京では『四庫全書』の編纂がすすめられ、十五年を費やして乾隆四十七年(1782)に完成します。「四庫」とは儒学・史学・哲学・文学のことで、あらゆる分野の古今の書籍を精選して筆写させ、良書に題と解説を付けました。収録された書籍は三千四百五十八種に達し、八万巻におよぶ一大文化事業でした。しかし、それは同時に思想調査の意味も持っており、反満的とみられる書籍の多くが禁書焚書になりました。「文字の獄」は乾隆帝の時代になって一段と厳しいものになりました。
深徳潜(しんとくせん)、鄭燮(ていしょう)、紀昀(きいん)の三人は乾隆盛世の官僚詩人です。生年に大きなへだたりがありますが、それはこの時代、官僚として詩を作ること、いい詩を残すことが如何に困難であったかをしめしています。三人のなかで一番若い紀昀は『四庫全書』総纂官になり、『四庫全書総目提要』の校閲補筆をしています。
深徳潜(1673―1769)は長洲(江蘇省蘇州市)の人。康煕十二年(1673)に生まれ、若いころから詩人として知られていましたが、三年に一度の科挙に二十回近く落第し、乾隆四年(1789)に六十七歳で進士に及第します。乾隆帝に詩を指導して宮廷詩人になり、内閣学士から礼部侍郎にすすみます。
詩論家としては「格調説」を唱え、詩は詩心と同時に格調(高度な構成意識)が大切であるとし、情に流されて形のはっきりしない詩を批判しました。乾隆期前半の詩壇の中心的存在として名声を保ち、乾隆三十四年(1769)になくなります。享年九十七歳でした。
詩題の「許州」(きょしゅう)の州治は河南省許昌県にあり、公用で許州を訪れたときに地元人士の宴会に招かれて軽く一首を披露したものでしょう。許州は河南の中央部に位置しており、広々とした田園地帯です。前半二句はその田園のさまを的確、簡潔に描きます。「平疇」は平らに広がる耕地のことです。
後半二句は、そうした地方にやってきた「行人」(旅人である私)の感懐です。緑いっぱいの夏の眺めのなか、鬚も眉も緑に染まった気分になると詠い、「一路の蝉声 許州を過ぐ」と結びます。蝉の鳴く声がいっぱいのひと筋の道、その許州を過ぎてゆくと表現に無駄がありません。
「蟬」は昔から高潔な人物の喩えとして用いられていますので、許州の人々を褒めている、もしくは正しい政事をやりなさいといっていると取ることができます。歯切れのよい詠いぶりのなかに周到な配慮がなされている詩です。
過許州 許州を過ぐ
到処陂塘決決流 到る処(ところ)の陂塘(ひとう) 決決(けつけつ)として流る
垂楊百里罨平疇 垂楊(すいよう) 百里 平疇(へいちゅう)を罨(おお)う
行人便覚鬚眉緑 行人(こうじん) 便(すなわ)ち覚(おぼ)ゆ 鬚眉(しゅび)の緑なるを
一路蝉声過許州 一路(いちろ)の蝉声(せんせい) 許州(きょしゅう)を過ぐ
⊂訳⊃
あちらこちらの池の堤は 爽やかにせせらぎ流れ
柳の並木は畑をめぐって どこまでもつづく
旅人は鬚も眉も 緑に染まった気分になり
蝉の鳴く声の中 一路許州を過ぎていく
⊂ものがたり⊃ 清朝二百六十八年のうち、康煕・雍正・乾隆の三代は全盛期と称されています。中国の人口は宋代から明代にかけておおむね一億人程度でしたが、清朝になってから二百年を経た乾隆末年には三億人を超え、明代の三倍になりました。その背景には農業生産力の増強があり、産業の発展と平和な生活がありました。
ただし、支配民族である満州族の人口は百万人程度であったと推定されており、三百分の一の少数支配でした。そのため康熙帝の時代においても漢族の夷狄思想には厳しい目がそそがれ、反満的な言動・詩文に対しては極刑が科されました。「文字の獄」と称され、漢族文人にとっては大きな制約のある時代でした。
清朝が抱えていたもうひとつの問題は、皇位継承法が確立していなかったことです。康熙帝には十七人の皇子があり、それぞれの皇子を擁して後継者争いが激しくなりました。雍正帝は即位の翌年、「太子密建」の法を宣言します。これはつぎの皇帝となる皇太子の名を公表せず、その名を記した親書を箱に封じて、紫禁城の乾清宮に掲げてある「正大光明」と書かれた扁額の裏に置くというものです。
このような定めをしたにもかかわらず、雍正帝は主な兄弟七名を幽閉し、雍正帝の死後、生きて釈放された者は二名に過ぎませんでした。雍正帝の治世は十三年と短く、おおむね康熙帝の政策を引きつぐものでした。大きな外征もおこなわず、全盛期の王朝を満喫した皇帝でした。
雍正十三年(1735)に雍正帝が崩じると、八月に二十五歳の愛新覚羅弘暦(こうれき)が即位して乾隆帝になります。乾隆帝の時代になってからも二十年間は大きな外征がなかったので、三十余年にわたる平和がつづきました。乾隆二十年(1755)になると清はジュンガルに遠征し、伊犁(いり:新疆ウイグル自治区伊寧市)地方を制圧します。以後、タリム盆地・台湾・チベット・ベトナム・ビルマなどへも兵を向け、遠征軍はネパールのカトマンズの近くまで達したといいます。
乾隆帝の時代に清は最大の版図になりますが、清の支配に服したモンゴル、チベット、ジュンガル(東トルキスタン)は漢族の中国に服したのではなく征服王朝である清に服したのであり、これら内陸アジアの民族に対して清は「中華の礼」を求めず、皇帝もチベット仏教の保護者として臨んだのです。清は複数の民族を各個に支配する征服王朝でした。
外征のつづくなか北京では『四庫全書』の編纂がすすめられ、十五年を費やして乾隆四十七年(1782)に完成します。「四庫」とは儒学・史学・哲学・文学のことで、あらゆる分野の古今の書籍を精選して筆写させ、良書に題と解説を付けました。収録された書籍は三千四百五十八種に達し、八万巻におよぶ一大文化事業でした。しかし、それは同時に思想調査の意味も持っており、反満的とみられる書籍の多くが禁書焚書になりました。「文字の獄」は乾隆帝の時代になって一段と厳しいものになりました。
深徳潜(しんとくせん)、鄭燮(ていしょう)、紀昀(きいん)の三人は乾隆盛世の官僚詩人です。生年に大きなへだたりがありますが、それはこの時代、官僚として詩を作ること、いい詩を残すことが如何に困難であったかをしめしています。三人のなかで一番若い紀昀は『四庫全書』総纂官になり、『四庫全書総目提要』の校閲補筆をしています。
深徳潜(1673―1769)は長洲(江蘇省蘇州市)の人。康煕十二年(1673)に生まれ、若いころから詩人として知られていましたが、三年に一度の科挙に二十回近く落第し、乾隆四年(1789)に六十七歳で進士に及第します。乾隆帝に詩を指導して宮廷詩人になり、内閣学士から礼部侍郎にすすみます。
詩論家としては「格調説」を唱え、詩は詩心と同時に格調(高度な構成意識)が大切であるとし、情に流されて形のはっきりしない詩を批判しました。乾隆期前半の詩壇の中心的存在として名声を保ち、乾隆三十四年(1769)になくなります。享年九十七歳でした。
詩題の「許州」(きょしゅう)の州治は河南省許昌県にあり、公用で許州を訪れたときに地元人士の宴会に招かれて軽く一首を披露したものでしょう。許州は河南の中央部に位置しており、広々とした田園地帯です。前半二句はその田園のさまを的確、簡潔に描きます。「平疇」は平らに広がる耕地のことです。
後半二句は、そうした地方にやってきた「行人」(旅人である私)の感懐です。緑いっぱいの夏の眺めのなか、鬚も眉も緑に染まった気分になると詠い、「一路の蝉声 許州を過ぐ」と結びます。蝉の鳴く声がいっぱいのひと筋の道、その許州を過ぎてゆくと表現に無駄がありません。
「蟬」は昔から高潔な人物の喩えとして用いられていますので、許州の人々を褒めている、もしくは正しい政事をやりなさいといっていると取ることができます。歯切れのよい詠いぶりのなかに周到な配慮がなされている詩です。