清23ー査慎行
舟夜書所見 舟夜 見る所を書す
月黒見漁燈 月(つき)黒くして 漁燈(ぎょとう)を見る
孤光一点蛍 孤光(ここう) 一点の蛍
微微風簇浪 微微(びび)として風は浪を簇(あつ)め
散作満河星 散りて作(な)す 満河(まんか)の星
⊂訳⊃
月のない夜に 漁り火だけが見えている
一点の光は 一匹の蛍のようだ
そよ吹く風が 川面にさざ波をひろげると
光は砕けて 星屑を散らしたようになる
⊂ものがたり⊃ 康煕帝の時代は対外問題の処理が課題でした。そのころロシア人は黒貂の毛皮を求めてシベリアに進出しており、清はロシア人の退去を求めて軍事衝突になりました。五年間の紛争の後、康煕二十八年(1689)にネルチンスク条約を結んでロシアとの国境を画定します。
一方、西北方ではジュンガル(西モンゴル)部のガルダンが蒙古の統一を目ざして東に兵をむけていました。康煕三十五年(1689)、康煕帝はガルダンを親征して自殺させます。ガルダンを失ったジュンガル部はそのご勢いを盛りかえし、チベットを占領しました。康煕帝は青海・四川の両道からチベットに兵をすすめ、康煕五十九年(1720)、ジュンガル勢力をチベットから一掃します。
清は少数民族による漢族支配のために科挙制度を積極的に取り入れ、朱子学を宣揚しました。康熙帝は康煕十一年(1672)に「聖諭広訓」十六条を公布して広く民衆に礼の徳目の順守を求めます。一方、イエズス会その他によるカソリック教の布教も盛んでした。康熙帝は宣教師のもたらす科学技術の導入に積極的でしたが、康煕四十五年(1707)、中国の典礼を認めない宣教師をマカオに追放し、伝統を守る姿勢をしめしました。康煕帝は布教の自由に制限を加えましたが、もともと学問を好み詩文に親しむ知識人であり、西欧の学術導入には熱心でした。
康煕五十五年(1716)に完成した『康煕字典』は康煕帝最大の文化事業であり、漢字の規範を確定したことの意味は大きいといわれています。しかし、征服王朝による朱子学の称揚は漢人の民族主義、「排満論」の芽を残すことになり、やがて統治上の禍根となるのです。康煕六十一年(1722)、康煕帝は死に臨んで第四子の愛新覚羅胤禛(いんしん)を後継者に指名し、十一月に雍正帝が即位します。
査慎行(さしんこう)は康煕帝より四年はやく生まれ、明滅亡後の平和な時代を生きて晩年の康煕帝に仕えた詩人です。一方、厲鶚(れいがく)は官途をめざしますが科挙に及第できず、野にあって康煕末年から雍正帝の時代をへて乾隆まで生きた詩人です。
査慎行(1650―1727)は海寧(浙江省海寧県)の人。順治七年(1650)に生まれ、長じて各地を歴遊して詩文にかかわります。康煕四十二年(1703)、五十四歳のとき進士に及第し、翰林院編修になって康煕帝の近くに仕えました。その二十三年後の雍正四年(1726)、七十七歳のときに弟嗣庭(してい)の筆過事件に連座して免職になり、翌年になくなります。享年七十八歳です。
詩題の「舟夜」(しゅうや)は舟泊りの夜のことです。その夜、見たものを書くと題します。はじめの二句で闇夜に灯る漁船の篝火を描きます。魚を集めるために焚く篝火でしょう。後半の二句は、そのとき微風が吹いてきて川面にさざ波がひろがりました。すると水面の光がちりぢりに砕け、川面に星屑を散らしたようになったと詠います。
鮮やかな叙景、繊細な詩情ですが、その背景には異民族の王朝に仕えるという屈折した思いもあったでしょう。康熙帝の時代にあっても、反満の言動は厳しく取り締まられており、政事を批判する社会詩の余地はない時代でした。
舟夜書所見 舟夜 見る所を書す
月黒見漁燈 月(つき)黒くして 漁燈(ぎょとう)を見る
孤光一点蛍 孤光(ここう) 一点の蛍
微微風簇浪 微微(びび)として風は浪を簇(あつ)め
散作満河星 散りて作(な)す 満河(まんか)の星
⊂訳⊃
月のない夜に 漁り火だけが見えている
一点の光は 一匹の蛍のようだ
そよ吹く風が 川面にさざ波をひろげると
光は砕けて 星屑を散らしたようになる
⊂ものがたり⊃ 康煕帝の時代は対外問題の処理が課題でした。そのころロシア人は黒貂の毛皮を求めてシベリアに進出しており、清はロシア人の退去を求めて軍事衝突になりました。五年間の紛争の後、康煕二十八年(1689)にネルチンスク条約を結んでロシアとの国境を画定します。
一方、西北方ではジュンガル(西モンゴル)部のガルダンが蒙古の統一を目ざして東に兵をむけていました。康煕三十五年(1689)、康煕帝はガルダンを親征して自殺させます。ガルダンを失ったジュンガル部はそのご勢いを盛りかえし、チベットを占領しました。康煕帝は青海・四川の両道からチベットに兵をすすめ、康煕五十九年(1720)、ジュンガル勢力をチベットから一掃します。
清は少数民族による漢族支配のために科挙制度を積極的に取り入れ、朱子学を宣揚しました。康熙帝は康煕十一年(1672)に「聖諭広訓」十六条を公布して広く民衆に礼の徳目の順守を求めます。一方、イエズス会その他によるカソリック教の布教も盛んでした。康熙帝は宣教師のもたらす科学技術の導入に積極的でしたが、康煕四十五年(1707)、中国の典礼を認めない宣教師をマカオに追放し、伝統を守る姿勢をしめしました。康煕帝は布教の自由に制限を加えましたが、もともと学問を好み詩文に親しむ知識人であり、西欧の学術導入には熱心でした。
康煕五十五年(1716)に完成した『康煕字典』は康煕帝最大の文化事業であり、漢字の規範を確定したことの意味は大きいといわれています。しかし、征服王朝による朱子学の称揚は漢人の民族主義、「排満論」の芽を残すことになり、やがて統治上の禍根となるのです。康煕六十一年(1722)、康煕帝は死に臨んで第四子の愛新覚羅胤禛(いんしん)を後継者に指名し、十一月に雍正帝が即位します。
査慎行(さしんこう)は康煕帝より四年はやく生まれ、明滅亡後の平和な時代を生きて晩年の康煕帝に仕えた詩人です。一方、厲鶚(れいがく)は官途をめざしますが科挙に及第できず、野にあって康煕末年から雍正帝の時代をへて乾隆まで生きた詩人です。
査慎行(1650―1727)は海寧(浙江省海寧県)の人。順治七年(1650)に生まれ、長じて各地を歴遊して詩文にかかわります。康煕四十二年(1703)、五十四歳のとき進士に及第し、翰林院編修になって康煕帝の近くに仕えました。その二十三年後の雍正四年(1726)、七十七歳のときに弟嗣庭(してい)の筆過事件に連座して免職になり、翌年になくなります。享年七十八歳です。
詩題の「舟夜」(しゅうや)は舟泊りの夜のことです。その夜、見たものを書くと題します。はじめの二句で闇夜に灯る漁船の篝火を描きます。魚を集めるために焚く篝火でしょう。後半の二句は、そのとき微風が吹いてきて川面にさざ波がひろがりました。すると水面の光がちりぢりに砕け、川面に星屑を散らしたようになったと詠います。
鮮やかな叙景、繊細な詩情ですが、その背景には異民族の王朝に仕えるという屈折した思いもあったでしょう。康熙帝の時代にあっても、反満の言動は厳しく取り締まられており、政事を批判する社会詩の余地はない時代でした。