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ティェンタオの自由訳漢詩 清ー王士禛

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 清19ー王士禛
     秋 柳                 秋   柳

  秋来何処最銷魂   秋来(しゅうらい)  何(いず)れの処か最も銷魂(しょうこん)なる
  残照西風白下門   残照(ざんしょう)  西風(せいふう)  白下(はくか)の門
  他日差池春燕影   他日(たじつ)    差池(しち)たり  春燕(しゅんえん)の影
  祗今憔悴晩煙痕   祗今(ただいま)  憔悴(しょうすい)す  晩煙(ばんえん)の痕(あと)
  愁生陌上黄驄曲   愁いは生ず  陌上(はくじょう)  黄驄(こうそう)の曲
  夢遠江南烏夜村   夢は遠し   江南(こうなん)   烏夜(うや)の村
  莫聴臨風三弄笛   聴く莫(なか)れ  風に臨む三弄(さんろう)の笛
  玉関哀怨總難論   玉関(ぎょくかん)の哀怨(あいえん)  総て論じ難し

  ⊂訳⊃
          秋になって  心をそそる場所はどこであろうか
          夕映えのなかの西の風  白門を出たあたり
          春先には燕が飛びかい  柳に影を映していたが
          いまは柳もやつれ果て  あとには夕靄がただようばかり
          野原の道の「黄驄の曲」  愁いはいっそう掻き立てられ
          江南の「烏夜の村」     鴉の話は遠い昔の夢物語
          風に流れる「三弄の笛」  聴くのはよしたほうがよい
          玉門関での哀しい思い  「折楊柳」はいうまでもない


 ⊂ものがたり⊃ 王士禛(おうししん:1634―1711)は新城(山東省桓台県)の人。崇禎七年(1634)に生まれ、十一歳のとき明の滅亡にあいます。若くして詩名高く、清の順治十五年(1658)、二十五歳で進士に及第し江南に赴任します。康熙帝の世になり、都にもどされて順調に栄進し、経筵講官、国史副総裁をへて刑部尚書に至ります。詩は王維や孟浩然の古淡、余韻を愛し、「神韻説」を唱えて清初一代の詩宗と仰がれます。康煕朝の詩壇の中心人物として活躍し、康熙五十年(1711)に亡くなりました。享年七十八歳です。
 詩題の「秋柳」(しゅうりゅう)は詠物詩の題材です。順治十四年(1657)秋、二十四歳のときに故郷に近い歴下(山東省済南市)の大明湖に遊び、宴会の席で披露したもので、詩は前後四句にわかれ、後半四句にいままでにない工夫が施されていて注目をあびました。一躍詩名が高まり、翌年進士に及第したといいます。
 前半四句は白門の柳の描写です。「銷魂」は心が消え入ることで、ここでは哀愁をそそる意味でしょう。秋の季節に心をそそる一番の場所はどこであろうかと問いかけてまず注意をひきつけます。二句目は印象語を重ねてイメージを出す手法で、「残照」(夕映え)、「西風」(秋風)、「白下の門」です。
 南京の西北門を白門といい一帯を「白下」といいました。のちに南京の別名になったほどの名所で、駅亭の柳が送別の柳として有名でした。「他日」はかつて、「差池」は『詩経』邶風「燕燕」に出てくる語で後になり先になるさま、燕の飛ぶようすです。その燕が影を落としていた柳もいまはやつれ果て、「晩煙」(夕靄)が漂っているだけだと詠います。
 後半四句はこの詩が喝采を博した眼目の部分で、四つの故事を持ち出して送別の柳を修飾します。「黄驄の曲」は唐の太宗が遼を征伐したとき、黄驄という愛馬が途上で死にました。その馬の死を悼んで作らせた曲です。「烏夜の村」(浙江省海塩県の南にある村)は東晋の宰相何充(かじゅう)の弟何準(かじゅん)が隠栖した地で、何準の娘が生まれたときと皇后に冊立されたときに烏が鳴き騒いだという伝えがあります。
 「三弄の笛」は東晋の笛の名手桓伊(かんい)が川辺の道を車で通っていたとき、舟の中から王羲之(おうぎし)の息子の王徽之(おうきし)に呼びとめられて一曲を所望されました。桓伊は車をおりて三曲を奏し、終わるとひと言も言葉を交わさずに別れたといいます。晋代の風流とはこんなものだというのでしょう。「玉関の哀怨」は王之渙の辺塞詩「涼州詞」をさし、「羌笛(きょうてき) 何ぞ須(もち)いん 楊柳を怨むを 春光(しゅんこう)度(わた)らず 玉門関」とあります。

 清20ー王士禛
     江 上               江   上

  呉頭楚尾路如何   呉頭(ごとう)  楚尾(そび)  路(みち)如何(いかん)
  烟雨秋深暗白波   烟雨(えんう)  秋深くして白波(はくは)暗し
  晩趁寒潮渡江去   晩(くれ)に寒潮(かんちょう)を趁(お)うて江を渡って去る
  満林黄葉雁聲多   満林(まんりん)の黄葉(こうよう)  雁声(がんせい)多し

  ⊂訳⊃
          呉から楚にかけての路は  どうであろうか

          霧雨の秋は深くて   白い波も暗くみえる

          日暮れに潮に乗って  長江を渡れば

          林は黄葉の真っ盛り  あちらこちらで雁の声


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「江上」(こうじょう)は長江のほとり。順治十七年(1660)八月、江南の任地へおもむく途中の作です。「呉頭 楚尾」は呉の地から西の楚の地へかかる付近のことです。このあたりの路のようすはどうであろうかと問いかけて注意を引きつけます。以下三句は江南の晩秋の風景です。「白波暗し」というのは、秋の陽が翳ったのでしょう。長江を渡れば、樹林の黄葉と雁の声が印象的です。

 清21ー王士禛
   秦淮雑詩二十首 其一    秦淮雑詩二十首 其の一

  年来腸断秣陵舟   年来  腸断(ちょうだん)す   秣陵(まつりょう)の舟
  夢遶秦淮水上楼   夢は遶(めぐ)る  秦淮(しんわい)  水上の楼
  十日雨糸風片裏   十日(じゅうじつ)の雨糸(うし)  風片(ふうへん)の裏(うち)
  濃春煙景似残秋   濃春(のうしゅん)の煙景(えんけい)  残秋(ざんしゅう)に似たり

  ⊂訳⊃ 
          長い間 心の底から  秣陵の舟遊びに憧れていた

          秦淮の川辺の楼の   大宴会を夢みていた

          十日もつづく細い雨   吹いてはやむ風のなか

          春たけなわの霧雨は  晩秋のような愁いを含む


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「秦淮」(しんわい)は南京南郊の秦淮河口付近のことです。江南の任地に着任した翌年の順治十八年(1661)の早春、念願であった南京を訪れました。華北で育った王士禛にとって、六朝の都南京は憧れの古都でした。
 起承句は「年来」(永年)の夢がかなえられた喜びを詠います。「腸断」(はらわたが千切れる思い)は、ここでは心の底から思い焦がれていたという意味で使われています。「秣陵」は南京の古い呼び名で、南京での舟遊びに憧れていたというのです。
 秦淮河口は長江の渡津で、岸辺には歓楽街がさかえていました。「水上」は川辺のことで、秦淮の岸には妓楼がひしめいていました。転結の二句では南京の雨を詠います。十日もつづく早春の細い雨、吹いてはやむ風です。結びの「濃春の煙景 残秋に似たり」は、妓楼に閉じこめられて舟遊びも思うようにならず、退屈しているのでしょう。

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