清16ー施閏章
山 行 山 行
野寺分晴樹 野寺(やじ) 晴樹(せいじゅ)を分(わか)ち
山亭過晩霞 山亭(さんてい) 晩霞(ばんか)過(す)ぐ
春深無客到 春深くして 客(かく)の到(いた)る無く
一路落松花 一路(いちろ) 松花(しょうか)落つ
⊂訳⊃
見わたせば 夕映えの樹々のなかに野の寺がはっきりと見え
見上げれば 山頂の東屋のまえを夕靄が流れている
春たけなわだが 訪れてくる人もなく
山にひと筋の路 黄色い花が散っている
⊂ものがたり⊃ 施閏章(しじゅんしょう:1618―1683)は宣城(安徽省宣城県)の人。明の万暦四十六年(1618)に生まれ、二十七歳のときに明の滅亡に遇います。清の順治六年(1649)、三十二歳で進士に及第し、康煕十八年(1679)に召されて博学鴻詞科を受験します。翰林院侍講に任じられて『明史』の編纂に従事し、景泰(代宗)・天順(英宗)二朝の列伝を執筆しました。そのご累進して侍読学士に至ります。
詩は宣城体という詩風を確立して宋琬とならび称され、「南施北宋」とよばれます。尊唐派の領袖になり、数十年にわたって東南詩壇を主宰しました。康煕二十二年(1683)になくなり、享年六十六歳です。
詩題の「山行」(さんこう)は山歩きのことです。季節は晩春、日暮れ時です。起句の「野寺」は山路から見た野の寺と考えられ、「晴樹」は夕陽に映える樹々、「分ち」はくっきり見える、見分けられるという意味です。承句の「山亭」は山の頂にある東屋で、見上げたのでしょう。
転句の「客」は観光客のことで、旅人ではありません。山にひとすじの路が延び、路のうえには「松花」(黄色い花)が点々と落ちていました。スケッチ風の掬い取ったような作品ですが、五言絶句の限られた詩句のなかに周到な配慮がほどこされており、こうした簡潔で清澄な詩風を「宣城体」というのでしょう。
山 行 山 行
野寺分晴樹 野寺(やじ) 晴樹(せいじゅ)を分(わか)ち
山亭過晩霞 山亭(さんてい) 晩霞(ばんか)過(す)ぐ
春深無客到 春深くして 客(かく)の到(いた)る無く
一路落松花 一路(いちろ) 松花(しょうか)落つ
⊂訳⊃
見わたせば 夕映えの樹々のなかに野の寺がはっきりと見え
見上げれば 山頂の東屋のまえを夕靄が流れている
春たけなわだが 訪れてくる人もなく
山にひと筋の路 黄色い花が散っている
⊂ものがたり⊃ 施閏章(しじゅんしょう:1618―1683)は宣城(安徽省宣城県)の人。明の万暦四十六年(1618)に生まれ、二十七歳のときに明の滅亡に遇います。清の順治六年(1649)、三十二歳で進士に及第し、康煕十八年(1679)に召されて博学鴻詞科を受験します。翰林院侍講に任じられて『明史』の編纂に従事し、景泰(代宗)・天順(英宗)二朝の列伝を執筆しました。そのご累進して侍読学士に至ります。
詩は宣城体という詩風を確立して宋琬とならび称され、「南施北宋」とよばれます。尊唐派の領袖になり、数十年にわたって東南詩壇を主宰しました。康煕二十二年(1683)になくなり、享年六十六歳です。
詩題の「山行」(さんこう)は山歩きのことです。季節は晩春、日暮れ時です。起句の「野寺」は山路から見た野の寺と考えられ、「晴樹」は夕陽に映える樹々、「分ち」はくっきり見える、見分けられるという意味です。承句の「山亭」は山の頂にある東屋で、見上げたのでしょう。
転句の「客」は観光客のことで、旅人ではありません。山にひとすじの路が延び、路のうえには「松花」(黄色い花)が点々と落ちていました。スケッチ風の掬い取ったような作品ですが、五言絶句の限られた詩句のなかに周到な配慮がほどこされており、こうした簡潔で清澄な詩風を「宣城体」というのでしょう。