清14ー黄宗羲
徐 夕 徐 夕
病骨支牀耐五更 病骨 牀(しょう)を支えて五更(ごこう)に耐(た)う
春来山鳥冷同聲 春(はる)来たって 山鳥(さんちょう) 冷やかに声を同じうす
無端世俗浮名重 端無(はしな)くも 世俗(せぞく)に浮名(ふめい)重きも
可験衰年道力軽 験(けん)す可し 衰年(すいねん)にして道力(どうりょく)軽(かろ)し
十岳平生虚夢想 十岳(じゅうがく) 平生(へいぜい) 虚(むな)しく夢想(むそう)し
六経注脚未分明 六経(りくけい)の注脚(ちゅうきゃく) 未(いま)だ分明(ぶんめい)ならず
明朝九十方開帙 明朝(みょうちょう) 九十 方(まさ)に帙(ちつ)を開き
老眼還思傍短檠 老眼(ろうがん) 還(ま)た思う 短檠(たんけい)に傍(そ)わんことを
⊂訳⊃
病んだ体を寝台に委ね 夜明けの時を過ごし
春を迎えた山鳥の声を 冷やかな思いで聞いている
思いがけなく はかない名声をえたが
もはや老衰して 道を求める力も弱まった
仙人の境地を 虚しく夢にみていたために
経典の注釈も いまだ理解できないでいる
明日からは九十への道 いまこそ書物をひらき
老いた眼もはばからず ちびた灯火のしたで読書に励もう
⊂もpのがたり⊃ 黄宗羲(こうそうぎ:1610―1695)は余姚(浙江省余姚県)の人。明の万暦三十八年(1610)に生まれ、若いころから行動派でした。父親は東林党に属し、迫害されて獄死しました。ときに十七歳であった黄宗羲は、二年後に上京して父親の仇を討ったといいます。復社に属して反宦官運動に参加し、三十五歳のときに明が滅びます。
清軍が南下してくると義勇軍を組織し、日本の長崎へいって援軍を求めます。三代将軍家光のころでしたが日本は出兵せず、援軍の求めは不成功に終わって中国に帰ります。清への抵抗は失敗し、以後、郷里で教育や著作にたずさわります。学者・思想家として名を成し、清朝の招きを受けますが応ぜず、隠居して著述活動に専念します。康煕三十四年(1695)に亡くなり、享年八十六歳でした。
詩題の「徐夕」(じょせき)は大晦日の晩のことです。ただし、詩では夜明けになっていますので、元日の朝早くになります。八十一歳のときの作と推定され、自分の過去を振りかえり、これからの決意をのべます。
はじめの二句は現在の自分の姿。病気で寝台に凭れているのでしょう。「五更」は午前四時くらいの時刻です。新春を寿ぐように山の鳥が鳴いていますが、作者はそれを冷やかな思いで聞いています。
中四句では自分のこれまでの人生を振りかえります。はじめの対句の「端無くも」は思いがけなくという意味で、最近の気力の衰えをのべます。「験す可し」は証拠がある、明確にわかる意味で、「道力」は道(儒教の教え)を求める意志でしょう。つぎの対句では学問一筋ではなく雑念の多かった自分を反省します。「十岳」は十の岩山で仙人の棲む世界です。仙人の境地になることなどを夢みていたために、「六経」(儒教の経典)の注釈の意味も充分には理解できないありさまだと謙遜します。
最後の二句は新年を迎えるに際しての覚悟です。「明朝九十」というのは九十歳へ一歩近づくという意味で、八十一歳になることです。「帙を開き」は書物を包んである紙を開くこと、読書をすることです。「短檠」は短い灯火、老眼もはばからずに読書に励もうと決意を詠います。
徐 夕 徐 夕
病骨支牀耐五更 病骨 牀(しょう)を支えて五更(ごこう)に耐(た)う
春来山鳥冷同聲 春(はる)来たって 山鳥(さんちょう) 冷やかに声を同じうす
無端世俗浮名重 端無(はしな)くも 世俗(せぞく)に浮名(ふめい)重きも
可験衰年道力軽 験(けん)す可し 衰年(すいねん)にして道力(どうりょく)軽(かろ)し
十岳平生虚夢想 十岳(じゅうがく) 平生(へいぜい) 虚(むな)しく夢想(むそう)し
六経注脚未分明 六経(りくけい)の注脚(ちゅうきゃく) 未(いま)だ分明(ぶんめい)ならず
明朝九十方開帙 明朝(みょうちょう) 九十 方(まさ)に帙(ちつ)を開き
老眼還思傍短檠 老眼(ろうがん) 還(ま)た思う 短檠(たんけい)に傍(そ)わんことを
⊂訳⊃
病んだ体を寝台に委ね 夜明けの時を過ごし
春を迎えた山鳥の声を 冷やかな思いで聞いている
思いがけなく はかない名声をえたが
もはや老衰して 道を求める力も弱まった
仙人の境地を 虚しく夢にみていたために
経典の注釈も いまだ理解できないでいる
明日からは九十への道 いまこそ書物をひらき
老いた眼もはばからず ちびた灯火のしたで読書に励もう
⊂もpのがたり⊃ 黄宗羲(こうそうぎ:1610―1695)は余姚(浙江省余姚県)の人。明の万暦三十八年(1610)に生まれ、若いころから行動派でした。父親は東林党に属し、迫害されて獄死しました。ときに十七歳であった黄宗羲は、二年後に上京して父親の仇を討ったといいます。復社に属して反宦官運動に参加し、三十五歳のときに明が滅びます。
清軍が南下してくると義勇軍を組織し、日本の長崎へいって援軍を求めます。三代将軍家光のころでしたが日本は出兵せず、援軍の求めは不成功に終わって中国に帰ります。清への抵抗は失敗し、以後、郷里で教育や著作にたずさわります。学者・思想家として名を成し、清朝の招きを受けますが応ぜず、隠居して著述活動に専念します。康煕三十四年(1695)に亡くなり、享年八十六歳でした。
詩題の「徐夕」(じょせき)は大晦日の晩のことです。ただし、詩では夜明けになっていますので、元日の朝早くになります。八十一歳のときの作と推定され、自分の過去を振りかえり、これからの決意をのべます。
はじめの二句は現在の自分の姿。病気で寝台に凭れているのでしょう。「五更」は午前四時くらいの時刻です。新春を寿ぐように山の鳥が鳴いていますが、作者はそれを冷やかな思いで聞いています。
中四句では自分のこれまでの人生を振りかえります。はじめの対句の「端無くも」は思いがけなくという意味で、最近の気力の衰えをのべます。「験す可し」は証拠がある、明確にわかる意味で、「道力」は道(儒教の教え)を求める意志でしょう。つぎの対句では学問一筋ではなく雑念の多かった自分を反省します。「十岳」は十の岩山で仙人の棲む世界です。仙人の境地になることなどを夢みていたために、「六経」(儒教の経典)の注釈の意味も充分には理解できないありさまだと謙遜します。
最後の二句は新年を迎えるに際しての覚悟です。「明朝九十」というのは九十歳へ一歩近づくという意味で、八十一歳になることです。「帙を開き」は書物を包んである紙を開くこと、読書をすることです。「短檠」は短い灯火、老眼もはばからずに読書に励もうと決意を詠います。