清13ー顧炎武
精 衛 精 衛
万事有不平 万事(ばんじ) 平(たい)らかならざる有るに
爾何空自苦 爾(なんじ) 何ぞ空(むな)しく自ら苦しむ
長将一寸身 長(たけ) 一寸の身を将(もっ)て
銜木到終古 木を銜(くわ)えて終古(しゅうこ)に到る
我願平東海 我れ東海(とうかい)を平らかにするを願い
身沈心不改 身(み) 沈むも 心 改めず
大海無平期 大海(たいかい) 平らかなるの期(とき)無くば
我心無絶時 我が心 絶ゆるの時(とき)無し
嗚呼君不見 嗚呼(ああ) 君見ずや
西山銜木衆鳥多 西山(せいざん)に木を銜(くわ)うる衆鳥は多し
鵲来燕去自成窠 鵲(かささぎ)は来たり 燕は去り 自ら窠(す)を成す
⊂訳⊃
なにごとにも うまくいかないことがあるというのに
お前はなぜに 自分自身を苦しめているのか
一寸ほどの 小さなからだで
小枝をはこび いつまでも止めないつもりのようだが
私は東の海を 埋めてしまいたいと思い
疲れ果てて 海に沈もうとも心は変えません
大海原が 埋めつくされる時がないならば
わたしの心の おさまる時はないのです
木の枝を銜えて飛ぶ鳥は 西の山にもたくさんいるが
鵲だろうと燕だろうと 自分の巣をつくっているだけだよ
⊂ものがたり⊃ 反清運動のつづくなか摂政王ドルゴンは鎮圧の戦をすすめ、ほぼ成果をあげた順治七年(1650)、三十九歳の若さで急死します。しかし、ドルゴンは死去と同時に弾劾にあいます。このとき順治帝は十三歳の少年でしたが、叔父ドルゴンの廟を破壊して断固とした親政の実をしめします。明からつづく後宮を粛清し、宦官の政事介入を厳禁しました。
順治帝は北京に来てからの七年間に深く中国文化に親しみ、感化されていたといいますが、その行動には儒教道徳と東林党的な反宦官の思想がうかがえます。北京ではすでに順治三年(1646)に科挙が再開されており、漢人知識人の任用がはじまっていました。これらの人々の言説が十三歳の皇帝に影響をあたえたかもしれません。
ドルゴンは死の前年の順治六年(1649)に内三院制を定めて中央の政事態勢をととのえていましたが、順治帝は順治十五年(1658)に内三院制を内閣制に改め、明代の中央官制をほとんどそのまま踏襲しました。明の統治制度のいいところを取りいれ、悪いところを切り捨てるという清の政事姿勢は順治帝に始まるのです。
清の支配体制がととのえられていくなか、呉偉業より少し遅れて明の万暦三十八年(1610)以降に江南で生まれた顧炎武(こえんぶ)と黄宗羲は、反清運動には挫折しますが、あくまで清に仕えず在野の学者としての志をつらぬきます。一方、反清運動のさかんであった江南から少し離れたところにいた宋琬と施閏章は清の科挙に応じ、任官して新しい詩風を築きます。明の文化を引きつぐ遺臣たちも二つの道に分かれて歩むことになるのです。
顧炎武(1613―1682)は崑山(江蘇省崑山県)の人。明の万暦四十一年(1603)に生まれ、若くして「復社」に参加して反体制運動にたずさわります。三十二歳のときに明が滅亡し、南下する清軍に抗して反清運動に加わりますが成功しませんでした。以後、各地を遍歴して学問をつづけ、明代の空理空論を排して実証と経世の学を重んじました。『日知録』などの著作を著わし、考証学の基礎を打ち立てます。その学名は高く、しばしば清朝に招かれましたが応ぜず、明の遺民として生涯を送ります。康煕二十一年(1682)に亡くなり、享年七十歳です。
詩題の「精衛」(せいえい)は神話の鳥です。神農氏炎帝の娘女娃(じょあい)が東海で溺れて死に、化して小鳥になりました。死んだ恨みを晴らすために、朝から晩まで小枝や小石を口に銜えて運び、海を埋め立てようとしました。そのことから固い信念、諦めない努力の比喩となります。
詩は四、四、二句にわけて読むことができ、はじめの四句は作者から精衛への問いかけです。「終古」は永久に、いつまでもという意味で、海を埋め立てようとしても所詮無駄なことではないかと問いかけます。つぎの四句は精衛の答えです。初句と同じ「平」が使われていますが、さきの平は「やすらか」、あとの平は「たいらか」であり、埋め立てて平らにすることです。
最後の二句は十二言と七言の雑言になっており、精衛の信念(執念)をうけた作者のコメントです。西の山には木の枝を銜えて飛んでいる鳥がたくさんいるが、鵲だって燕だって子育てのために巣を造っているだけだといいます。この結びは逆説を含んでおり、自分は精衛のように漢民族の国の再興を諦めないといっていることになります。
精 衛 精 衛
万事有不平 万事(ばんじ) 平(たい)らかならざる有るに
爾何空自苦 爾(なんじ) 何ぞ空(むな)しく自ら苦しむ
長将一寸身 長(たけ) 一寸の身を将(もっ)て
銜木到終古 木を銜(くわ)えて終古(しゅうこ)に到る
我願平東海 我れ東海(とうかい)を平らかにするを願い
身沈心不改 身(み) 沈むも 心 改めず
大海無平期 大海(たいかい) 平らかなるの期(とき)無くば
我心無絶時 我が心 絶ゆるの時(とき)無し
嗚呼君不見 嗚呼(ああ) 君見ずや
西山銜木衆鳥多 西山(せいざん)に木を銜(くわ)うる衆鳥は多し
鵲来燕去自成窠 鵲(かささぎ)は来たり 燕は去り 自ら窠(す)を成す
⊂訳⊃
なにごとにも うまくいかないことがあるというのに
お前はなぜに 自分自身を苦しめているのか
一寸ほどの 小さなからだで
小枝をはこび いつまでも止めないつもりのようだが
私は東の海を 埋めてしまいたいと思い
疲れ果てて 海に沈もうとも心は変えません
大海原が 埋めつくされる時がないならば
わたしの心の おさまる時はないのです
木の枝を銜えて飛ぶ鳥は 西の山にもたくさんいるが
鵲だろうと燕だろうと 自分の巣をつくっているだけだよ
⊂ものがたり⊃ 反清運動のつづくなか摂政王ドルゴンは鎮圧の戦をすすめ、ほぼ成果をあげた順治七年(1650)、三十九歳の若さで急死します。しかし、ドルゴンは死去と同時に弾劾にあいます。このとき順治帝は十三歳の少年でしたが、叔父ドルゴンの廟を破壊して断固とした親政の実をしめします。明からつづく後宮を粛清し、宦官の政事介入を厳禁しました。
順治帝は北京に来てからの七年間に深く中国文化に親しみ、感化されていたといいますが、その行動には儒教道徳と東林党的な反宦官の思想がうかがえます。北京ではすでに順治三年(1646)に科挙が再開されており、漢人知識人の任用がはじまっていました。これらの人々の言説が十三歳の皇帝に影響をあたえたかもしれません。
ドルゴンは死の前年の順治六年(1649)に内三院制を定めて中央の政事態勢をととのえていましたが、順治帝は順治十五年(1658)に内三院制を内閣制に改め、明代の中央官制をほとんどそのまま踏襲しました。明の統治制度のいいところを取りいれ、悪いところを切り捨てるという清の政事姿勢は順治帝に始まるのです。
清の支配体制がととのえられていくなか、呉偉業より少し遅れて明の万暦三十八年(1610)以降に江南で生まれた顧炎武(こえんぶ)と黄宗羲は、反清運動には挫折しますが、あくまで清に仕えず在野の学者としての志をつらぬきます。一方、反清運動のさかんであった江南から少し離れたところにいた宋琬と施閏章は清の科挙に応じ、任官して新しい詩風を築きます。明の文化を引きつぐ遺臣たちも二つの道に分かれて歩むことになるのです。
顧炎武(1613―1682)は崑山(江蘇省崑山県)の人。明の万暦四十一年(1603)に生まれ、若くして「復社」に参加して反体制運動にたずさわります。三十二歳のときに明が滅亡し、南下する清軍に抗して反清運動に加わりますが成功しませんでした。以後、各地を遍歴して学問をつづけ、明代の空理空論を排して実証と経世の学を重んじました。『日知録』などの著作を著わし、考証学の基礎を打ち立てます。その学名は高く、しばしば清朝に招かれましたが応ぜず、明の遺民として生涯を送ります。康煕二十一年(1682)に亡くなり、享年七十歳です。
詩題の「精衛」(せいえい)は神話の鳥です。神農氏炎帝の娘女娃(じょあい)が東海で溺れて死に、化して小鳥になりました。死んだ恨みを晴らすために、朝から晩まで小枝や小石を口に銜えて運び、海を埋め立てようとしました。そのことから固い信念、諦めない努力の比喩となります。
詩は四、四、二句にわけて読むことができ、はじめの四句は作者から精衛への問いかけです。「終古」は永久に、いつまでもという意味で、海を埋め立てようとしても所詮無駄なことではないかと問いかけます。つぎの四句は精衛の答えです。初句と同じ「平」が使われていますが、さきの平は「やすらか」、あとの平は「たいらか」であり、埋め立てて平らにすることです。
最後の二句は十二言と七言の雑言になっており、精衛の信念(執念)をうけた作者のコメントです。西の山には木の枝を銜えて飛んでいる鳥がたくさんいるが、鵲だって燕だって子育てのために巣を造っているだけだといいます。この結びは逆説を含んでおり、自分は精衛のように漢民族の国の再興を諦めないといっていることになります。