清1ー銭謙益
柳 枝 柳 枝
離別経春又隔年 離別(りべつ)して春を経(へ) 又(ま)た年を隔(へだ)つ
揺青漾碧有誰憐 青を揺るがし碧(みどり)を漾(ただよ)わすも 誰有ってか憐れまん
春来羞共東風語 春来(き)たって 東風(とうふう)と共に語るを羞(は)ず
背却桃花独自眠 桃花(とうか)に背却(はいきゃく)して 独り自(みずか)ら眠る
⊂訳⊃
お前と別れてから春が過ぎ 年もかわる
緑の葉を揺るがせているが 誰が憐れんでくれるものか
春が来て 春風と語りあうのも恥ずかしく
二人とも桃の花に背をむけて ひとり淋しく眠っている
⊂ものがたり⊃ 遼東の長白山地を住地としていた建州女真(ジュルチン)族の愛新覚羅(アイシンギョロ)ヌルハチは、明の万暦十一年(1583)、二十五歳のとき撫順関外の興京付近で自立しました。戦うこと三十余年、女真族の大半を旗下に収め、万暦四十四年(1616)正月にカーンに推戴されます。
ヌルハチの後金軍と明軍の攻防、明における李自成(りじせい)の大順軍の興起、李自成の北京包囲と毅宗の自殺、山海関の守将呉三桂(ごさんけい)と後金改め清の摂政王ドルゴンの北京入城などについては、歴史書をお読みください。
清の順治元年(1644)九月、ドルゴンは幼帝フリンを北京に迎えて即位式を行ない、清朝政権の成立を宣言します。しかし、清による統治は少数者による統治に過ぎません。ドルゴンは北京入城の翌月、六月のはじめ、清に服している証しとして薙髪を求める布告を出しますが、漢人の猛反発をうけて二十日ほどで布告を緩和します。だが、南京を占領すると改めて薙髪令をだし、十日以内に辮髪にせよと命じました。
この布告は国中に衝撃をあたえ、江南では反清の抵抗運動が高まります。浙江では魯王朱以海(しゅいかい)が擁立され、南京を逃れた唐王朱聿鍵(しゅいつけん)は福建で即位して年号を隆武と定めますが、たちまち清軍に鎮圧されました。ついで順治三年(1646)十二月、広州(広東省広州市)の肇慶で桂王朱由榔(しゅゆうろう)が即位し、永暦の年号を立てます。
嶺南が清の支配に組み入れられていくなか桂王政権は雲南に移り、永暦十六年(1662)、追いつめられてビルマに逃げこんだところをビルマ人に捕らえられました。桂王は雲南に進出していた呉三桂の軍に引き渡されて殺され、十六年間の亡命政権で終わりました。
明末の崇禎二年(1629)、江南にあった文社(志や趣味を同じくする文人サークル)十数社が連合して「復社」が設立されました。中心となったのは雲間(上海市松江県)の「応社」の指導者で「婁東の二張」と称された張傅(ちょうふ)と張采(ちょうさい)です。「応社」は古学を復興し、有為の人材の育成を目標に掲げて社会にコミットする詩を重んじました。基本的には古文辞派に親近感を抱いていましたが、張傅は『漢魏六朝百三家集』を編纂して盛唐にこだわらない広い視野の持ち主でした。
「復社」に参加した明末の詩人陳子龍・呉偉業・顧炎武・黄宗羲らのほとんどは明清の王朝交代を経験することになります。陳子龍は「幾社」の主宰者で「復社」にも参加していましたが、反清運動のなかで自殺するので明詩の殿軍(しんがり)といわれます。
清代初期の詩人は東林党や「復社」の流れをくむ明の知識人が主流であり、国家の滅亡と異民族の支配という激動の時代を生きた人々です。まず挙げられるのは銭謙益(せんけんえき)と呉偉業(ごいぎょう)で、龔鼎孳(きょうていじ)と合わせて「江左の三大家」と称されます。なかでも銭謙益は竟陵派の鍾惺よりも十年遅れて生まれ、陳子龍や呉偉業よりは二十六、七歳の年長でした。明清交替の動乱期にこの年齢差は大きいのですが、一時、清に仕え、清代を生きて長命であったので清の詩人に数えられます。
銭謙益(1582ー1664)は常熟(江蘇省常熟県)の人。明の神宗の万暦十年に生まれます。二十代のはじめから東林党に属し、万暦三十八年(1610)、二十九歳で進士に及第、翰林院編修になります。十年後に神宗が崩じ、あとを継いだ光宗は在位一か月で急死して熹宗の代になり、明朝は大きく揺れます。混乱のつづくなか、宦官に反対してしばしば獄に投じられ、毅宗の崇禎二年(1629)四十八歳のとき、礼部侍郎で罷免されます。
六十三歳のときに明が滅亡し、南京に拠った福王に招かれて礼部尚書になります。翌順治二年(1645)、南京が清軍に包囲されると城を開いて降服し、清に仕えて礼部右侍郎になります。この行為は裏切りとして非難をあび、半年後に職を辞して故郷に隠棲することになります。康煕三年(1664)になくなり、享年八十三歳です。
詩題の「柳枝」(りゅうし)は柳の枝。明の崇禎二年(1629)、四十八歳のときに罷免されて故郷に帰る途中、柳に託してみずからを憐れんだ作です。はじめの二句は柳によびかける言葉で、「青を揺るがし碧を漾わすも 誰有ってか憐れまん」は自問自答です。後半二句は感慨で、結句の「桃花」は華やかなものの比喩。ここでは官界での出世でしょう。そうしたものに「背を向けて」孤独であると詠うのです。
清2ー銭謙益
舟 中 舟 中
断岸蘆抽白 断岸(だんがん) 芦(あし)は白きを抽(ひきだ)し
斜陽蓼褪紅 斜陽(しゃよう) 蓼(たで)は紅(あか)きを褪(ぬ)ぐ
舟行秋色裏 舟は秋色(しゅうしょく)の裏(うち)を行き
人在水声中 人は水声(すいせい)の中(なか)に在り
掠燕経残雨 掠燕(りゃくえん) 残雨(ざんう)を経(へ)
吟蝉趣晩風 吟蝉(ぎんせん) 晩風(ばんふう)を趣(うなが)す
陰虫休切切 陰虫(いんちゅう) 切切(せつせつ)たるを休(や)めよ
已是白頭翁 已(すで)に是(こ)れ白頭翁(はくとうおう)
⊂訳⊃
切り立つ崖 芦は白い穂をのぞかせ
蓼の紅花は 夕陽のなかで色あせる
舟は 秋景色のなかをゆき
私は 水の音に包まれている
燕は 降りのこしの雨を掠めて飛び
蝉は 夕風を促すように鳴いている
秋の虫よ 切々と鳴くのはよしてくれ
私はもう 白髪頭の老人なのだ
⊂ものがたり⊃ 詩題の「舟中」(しゅうちゅう)は舟のなかでの作という意味です。「柳枝」とおなじく崇禎二年に罷免されて故郷に帰る途中の作で、運河をゆく舟旅です。季節は秋。岸辺の芦は白い穂をだし、蓼の紅い花も色あせています。中四句のはじめの対句は秋景色のなかをゆく舟と乗っている人(自分)。聞こえるのは水の音だけです。
つぎの対句の燕と蝉は秋になると消えていくもので、都を追われる身に喩えるのでしょう。結びの「陰虫」は秋に鳴く虫のことで、鈴虫や蟋蟀の類です。夜になって虫の声が聞こえてきます。切々と鳴く声に堪えがたい思いがして、鳴くのはよしてくれと呼びかけるのでした。
清3ー銭謙益
獄中雑詩 獄中雑詩
夜拆驚呼夢亦便 夜拆(やたく) 驚呼(きょうこ)して 夢も亦(ま)た便(あわ)く
昼応如夜夜如年 昼は応(まさ)に夜の如く 夜は年(とし)の如かるべし
都将永日鎖長繋 都(すべ)て永日(えいじつ)を将(もっ)て 鎖(くさり)長く繋ぎ
只倚孤魂伴独眠 只(た)だ孤魂(ここん)に倚(よ)って 独眠(どくみん)に伴(ともな)う
画獄脚跟還有地 獄を画(かく)して 脚跟(きゃくこん) 還(なお)地(ち)有り
覆盆頭上不多天 覆盆(ふくぼん)頭上(とうじょう) 多(おお)からざるの天
此中未悟逍遥理 此の中(うち) 未(いま)だ悟(さと)らず 逍遥(しょうよう)の理(り)
枉読南華第一篇 枉(むな)しく読む 南華(なんか)の第一篇
⊂訳⊃
夜廻りの拍子木の音に 驚かされて夢も覚めやすく
昼は夜のように暗く 夜は一年のようにながい
来る日も来る日も 鎖につながれ
孤独な眠りの供は 夢だけだ
狭く区切った獄房だが 踵の先にはまだ隙間があり
盆を頭に被せたように 空は少ししかみえない
こんななかでいまだに 「逍遥遊」の道理を悟らぬとは
『荘子』冒頭の一篇を 読み過ごしてしまったのか
⊂ものがたり⊃ 崇禎九年(1636)に故郷にいたとき、銭謙益は不法行為を摘発され都に連行されて訊問をうけました。詩は翌崇禎十年、北京の獄中での作です。はじめの二句は獄中での日夜です。「夜拆」(夜廻りの叩く拍子木)の音に驚いて目をさまします。昼も夜も長く遅々としています。
中四句で獄中生活をさらに詳しく描きます。獄中では鎖に繋がれていたようです。「孤魂」の魂は夢のことで、魂は夢になって現れると考えられていました。「脚跟」は踵(かかと)のこと、獄房は足を伸ばして踵のさきに隙間がある程度の広さでした。空もわずかしかみえない暗い閉ざされた空間です。
最後の二句は感懐で、「逍遥」は『荘子』冒頭の「逍遥遊」のことです。唐の玄宗皇帝の時代に『荘子』を尊んで『南華真経』と称しましたので、「南華第一篇」というのです。獄中にあって『荘子』になにものにも捉われない自由の境地のあることを思いだし、そんな境地になれない自分を嘆くのです。(2016.8.3)
柳 枝 柳 枝
離別経春又隔年 離別(りべつ)して春を経(へ) 又(ま)た年を隔(へだ)つ
揺青漾碧有誰憐 青を揺るがし碧(みどり)を漾(ただよ)わすも 誰有ってか憐れまん
春来羞共東風語 春来(き)たって 東風(とうふう)と共に語るを羞(は)ず
背却桃花独自眠 桃花(とうか)に背却(はいきゃく)して 独り自(みずか)ら眠る
⊂訳⊃
お前と別れてから春が過ぎ 年もかわる
緑の葉を揺るがせているが 誰が憐れんでくれるものか
春が来て 春風と語りあうのも恥ずかしく
二人とも桃の花に背をむけて ひとり淋しく眠っている
⊂ものがたり⊃ 遼東の長白山地を住地としていた建州女真(ジュルチン)族の愛新覚羅(アイシンギョロ)ヌルハチは、明の万暦十一年(1583)、二十五歳のとき撫順関外の興京付近で自立しました。戦うこと三十余年、女真族の大半を旗下に収め、万暦四十四年(1616)正月にカーンに推戴されます。
ヌルハチの後金軍と明軍の攻防、明における李自成(りじせい)の大順軍の興起、李自成の北京包囲と毅宗の自殺、山海関の守将呉三桂(ごさんけい)と後金改め清の摂政王ドルゴンの北京入城などについては、歴史書をお読みください。
清の順治元年(1644)九月、ドルゴンは幼帝フリンを北京に迎えて即位式を行ない、清朝政権の成立を宣言します。しかし、清による統治は少数者による統治に過ぎません。ドルゴンは北京入城の翌月、六月のはじめ、清に服している証しとして薙髪を求める布告を出しますが、漢人の猛反発をうけて二十日ほどで布告を緩和します。だが、南京を占領すると改めて薙髪令をだし、十日以内に辮髪にせよと命じました。
この布告は国中に衝撃をあたえ、江南では反清の抵抗運動が高まります。浙江では魯王朱以海(しゅいかい)が擁立され、南京を逃れた唐王朱聿鍵(しゅいつけん)は福建で即位して年号を隆武と定めますが、たちまち清軍に鎮圧されました。ついで順治三年(1646)十二月、広州(広東省広州市)の肇慶で桂王朱由榔(しゅゆうろう)が即位し、永暦の年号を立てます。
嶺南が清の支配に組み入れられていくなか桂王政権は雲南に移り、永暦十六年(1662)、追いつめられてビルマに逃げこんだところをビルマ人に捕らえられました。桂王は雲南に進出していた呉三桂の軍に引き渡されて殺され、十六年間の亡命政権で終わりました。
明末の崇禎二年(1629)、江南にあった文社(志や趣味を同じくする文人サークル)十数社が連合して「復社」が設立されました。中心となったのは雲間(上海市松江県)の「応社」の指導者で「婁東の二張」と称された張傅(ちょうふ)と張采(ちょうさい)です。「応社」は古学を復興し、有為の人材の育成を目標に掲げて社会にコミットする詩を重んじました。基本的には古文辞派に親近感を抱いていましたが、張傅は『漢魏六朝百三家集』を編纂して盛唐にこだわらない広い視野の持ち主でした。
「復社」に参加した明末の詩人陳子龍・呉偉業・顧炎武・黄宗羲らのほとんどは明清の王朝交代を経験することになります。陳子龍は「幾社」の主宰者で「復社」にも参加していましたが、反清運動のなかで自殺するので明詩の殿軍(しんがり)といわれます。
清代初期の詩人は東林党や「復社」の流れをくむ明の知識人が主流であり、国家の滅亡と異民族の支配という激動の時代を生きた人々です。まず挙げられるのは銭謙益(せんけんえき)と呉偉業(ごいぎょう)で、龔鼎孳(きょうていじ)と合わせて「江左の三大家」と称されます。なかでも銭謙益は竟陵派の鍾惺よりも十年遅れて生まれ、陳子龍や呉偉業よりは二十六、七歳の年長でした。明清交替の動乱期にこの年齢差は大きいのですが、一時、清に仕え、清代を生きて長命であったので清の詩人に数えられます。
銭謙益(1582ー1664)は常熟(江蘇省常熟県)の人。明の神宗の万暦十年に生まれます。二十代のはじめから東林党に属し、万暦三十八年(1610)、二十九歳で進士に及第、翰林院編修になります。十年後に神宗が崩じ、あとを継いだ光宗は在位一か月で急死して熹宗の代になり、明朝は大きく揺れます。混乱のつづくなか、宦官に反対してしばしば獄に投じられ、毅宗の崇禎二年(1629)四十八歳のとき、礼部侍郎で罷免されます。
六十三歳のときに明が滅亡し、南京に拠った福王に招かれて礼部尚書になります。翌順治二年(1645)、南京が清軍に包囲されると城を開いて降服し、清に仕えて礼部右侍郎になります。この行為は裏切りとして非難をあび、半年後に職を辞して故郷に隠棲することになります。康煕三年(1664)になくなり、享年八十三歳です。
詩題の「柳枝」(りゅうし)は柳の枝。明の崇禎二年(1629)、四十八歳のときに罷免されて故郷に帰る途中、柳に託してみずからを憐れんだ作です。はじめの二句は柳によびかける言葉で、「青を揺るがし碧を漾わすも 誰有ってか憐れまん」は自問自答です。後半二句は感慨で、結句の「桃花」は華やかなものの比喩。ここでは官界での出世でしょう。そうしたものに「背を向けて」孤独であると詠うのです。
清2ー銭謙益
舟 中 舟 中
断岸蘆抽白 断岸(だんがん) 芦(あし)は白きを抽(ひきだ)し
斜陽蓼褪紅 斜陽(しゃよう) 蓼(たで)は紅(あか)きを褪(ぬ)ぐ
舟行秋色裏 舟は秋色(しゅうしょく)の裏(うち)を行き
人在水声中 人は水声(すいせい)の中(なか)に在り
掠燕経残雨 掠燕(りゃくえん) 残雨(ざんう)を経(へ)
吟蝉趣晩風 吟蝉(ぎんせん) 晩風(ばんふう)を趣(うなが)す
陰虫休切切 陰虫(いんちゅう) 切切(せつせつ)たるを休(や)めよ
已是白頭翁 已(すで)に是(こ)れ白頭翁(はくとうおう)
⊂訳⊃
切り立つ崖 芦は白い穂をのぞかせ
蓼の紅花は 夕陽のなかで色あせる
舟は 秋景色のなかをゆき
私は 水の音に包まれている
燕は 降りのこしの雨を掠めて飛び
蝉は 夕風を促すように鳴いている
秋の虫よ 切々と鳴くのはよしてくれ
私はもう 白髪頭の老人なのだ
⊂ものがたり⊃ 詩題の「舟中」(しゅうちゅう)は舟のなかでの作という意味です。「柳枝」とおなじく崇禎二年に罷免されて故郷に帰る途中の作で、運河をゆく舟旅です。季節は秋。岸辺の芦は白い穂をだし、蓼の紅い花も色あせています。中四句のはじめの対句は秋景色のなかをゆく舟と乗っている人(自分)。聞こえるのは水の音だけです。
つぎの対句の燕と蝉は秋になると消えていくもので、都を追われる身に喩えるのでしょう。結びの「陰虫」は秋に鳴く虫のことで、鈴虫や蟋蟀の類です。夜になって虫の声が聞こえてきます。切々と鳴く声に堪えがたい思いがして、鳴くのはよしてくれと呼びかけるのでした。
清3ー銭謙益
獄中雑詩 獄中雑詩
夜拆驚呼夢亦便 夜拆(やたく) 驚呼(きょうこ)して 夢も亦(ま)た便(あわ)く
昼応如夜夜如年 昼は応(まさ)に夜の如く 夜は年(とし)の如かるべし
都将永日鎖長繋 都(すべ)て永日(えいじつ)を将(もっ)て 鎖(くさり)長く繋ぎ
只倚孤魂伴独眠 只(た)だ孤魂(ここん)に倚(よ)って 独眠(どくみん)に伴(ともな)う
画獄脚跟還有地 獄を画(かく)して 脚跟(きゃくこん) 還(なお)地(ち)有り
覆盆頭上不多天 覆盆(ふくぼん)頭上(とうじょう) 多(おお)からざるの天
此中未悟逍遥理 此の中(うち) 未(いま)だ悟(さと)らず 逍遥(しょうよう)の理(り)
枉読南華第一篇 枉(むな)しく読む 南華(なんか)の第一篇
⊂訳⊃
夜廻りの拍子木の音に 驚かされて夢も覚めやすく
昼は夜のように暗く 夜は一年のようにながい
来る日も来る日も 鎖につながれ
孤独な眠りの供は 夢だけだ
狭く区切った獄房だが 踵の先にはまだ隙間があり
盆を頭に被せたように 空は少ししかみえない
こんななかでいまだに 「逍遥遊」の道理を悟らぬとは
『荘子』冒頭の一篇を 読み過ごしてしまったのか
⊂ものがたり⊃ 崇禎九年(1636)に故郷にいたとき、銭謙益は不法行為を摘発され都に連行されて訊問をうけました。詩は翌崇禎十年、北京の獄中での作です。はじめの二句は獄中での日夜です。「夜拆」(夜廻りの叩く拍子木)の音に驚いて目をさまします。昼も夜も長く遅々としています。
中四句で獄中生活をさらに詳しく描きます。獄中では鎖に繋がれていたようです。「孤魂」の魂は夢のことで、魂は夢になって現れると考えられていました。「脚跟」は踵(かかと)のこと、獄房は足を伸ばして踵のさきに隙間がある程度の広さでした。空もわずかしかみえない暗い閉ざされた空間です。
最後の二句は感懐で、「逍遥」は『荘子』冒頭の「逍遥遊」のことです。唐の玄宗皇帝の時代に『荘子』を尊んで『南華真経』と称しましたので、「南華第一篇」というのです。獄中にあって『荘子』になにものにも捉われない自由の境地のあることを思いだし、そんな境地になれない自分を嘆くのです。(2016.8.3)