明44ー陳子龍
小車行 小車の行(うた)
小車斑斑黄塵晩 小車(しょうしゃ) 斑斑(はんはん)たり 黄塵(こうじん)の晩(ばん)
夫為推 婦為挽 夫(おっと)は為(ため)に推(お)し 婦(ふ)は為に挽(ひ)く
出門何所之 門を出(い)でて 何の之(ゆ)く所ぞ
青青者楡療吾飢 青青(せいせい)たる者 楡(にれ) 吾(わ)が飢(うえ)を療(いや)さん
願得楽土共哺糜 願わくは楽土(らくど)を得て 共に糜(かゆ)を哺(くら)わん
風吹黄蒿 風は黄蒿(こうこう)を吹き
望見墻宇 墻宇(しょうう)を望見(ぼうけん)す
中有主人当飼汝 中(なか)に主人有りて 当(まさ)に汝(なんじ)を飼(か)うべし
叩門無人室無釜 門を叩(たた)くも人(ひと)無く 室(しつ)に釜(かま)無し
躑躅空巷涙如雨 空巷(くうこう)を躑躅(てきちょく)して 涙 雨の如し
⊂訳⊃
一輪車はごとごと進む 黄塵の舞う日暮れ
夫は車を後ろから押し 妻は綱を挽く
「家を出て 行くあてでもあるのですか」
「青く繁った楡の木で 飢えをいやそう
安住の地をえて 粥をたんまり食べたいものだ」
風は枯れ蓬の野原を吹きぬけ
遥かに土塀と屋根がみえる
「あそこには旦那がいて 食を恵んで下さるだろう」
門を叩くが誰も出てこず 部屋には鍋釜もない
無人の路地でおろおろし 涙は雨のように流れ落ちる
⊂ものがたり⊃ 陳子龍(ちんしりゅう:1608―1674)は華亭(江蘇省上海市松江県)の人。神宗の万暦三十六年(1608)に生まれ、毅宗の崇禎十年(1637)に三十歳で進士に及第し兵科給事中になります。朝廷の腐敗に失望して故郷に帰り、「幾社」を設立して古文運動に携わります。
古文辞派「後七子」の主張を継承して公安派・竟陵派に反対し、明詩の殿軍(しんがり)と称されています。「復社」につどう詩人たちとも呼応して慷慨の気にとむ社会詩を書きますが、三十七歳のとき明の滅亡に遭います。清(女真族)の関内侵入に抗して軍を起こそうとしますが逮捕され、順治四年(1647)に入水して自殺しました。享年四十歳です。
詩題の「小車」(しょうしゃ)は一輪車のこと。杜甫の「兵車行」は出征兵士を見送る詩ですが、こちらは飢饉に遭って逃亡する流民の苦しみを詠います。詩中に会話を含む雑言古詩です。はじめの二句は状況の設定です。「斑斑」は点々とまだらなさまで、あちらこちらに小車が動いているとも解されますが、杜甫の「兵車行」が「車轔轔(りんりん)」と擬音になっていますので小車のすすむ擬音と考えました。
一輪車は人がうしろから押すタイプの車で、夫が押し、妻は車の前につけた綱を挽きます。つぎの二句は夫婦の会話で、妻の問いに夫が答えます。「青青たる者 楡」という言い方は『詩経』に多い表現で、夫の答えは全体として詩経風です。楡の樹皮や葉は救荒食物であり、飢えを癒やすことができました。
つぎの四言二句で枯れた蓬の野原を過ぎ、前方に「墻宇」(村を囲む土塀と屋根)がみえてきました。つぎの一句は句中に「汝」とありますので、通行人の言葉でしょう。結びは家に着いたところで、「門を叩くも人無く 室に釜無し」です。「空巷」は人っ子ひとりいない路地のことで、無人の村でした。「躑躅」はゆきつもどりつすることで、おろおろしながら失望の涙を流すのです。
明45ー陳子龍
春日早起 春日 早(つと)に起く
独起凭欄対暁風 独り起ち 欄(らん)に凭(よ)って 暁風(ぎょうふう)に対す
満渓春水小橋東 満渓(まんけい)の春水(しゅんすい) 小橋(しょうきょう)の東
始知昨夜紅楼夢 始めて知る 昨夜 紅楼(こうろう)の夢
身在桃花万樹中 身は桃花(とうか) 万樹(ばんじゅ)の中(うち)に在り
⊂訳⊃
ひとり起きて欄干に凭れ 明け方の風に吹かれる
谷川にみなぎる春の水は 小橋の東へ流れてゆく
やっとわかった 紅楼でみた昨夜の夢は
桃の花咲く林の中 桃源境であったのだ
⊂ものがたり⊃ 詩題は「春の日に朝早く起きる」ということで、川辺の高楼のようなところに泊った翌朝の作品でしょう。前半二句は状況。ひとり起き出して回廊の欄干に凭れ、明け方の風に吹かれています。「満渓の春水」は春の雪解け水で増水した谷川のことで、水は谷川に架かる小さな橋のしたを東へ流れています。
後半二句は妓楼での華やかな宴の一夜を回想する詩とも解されますが、この二句には「始めて知る」が懸かりますので、これまでの自分の生活、そしてまた明の全盛期そのものが桃源境で酔い痴れていたようなものだったと、祖国滅亡の危機を予感する詩と解することができます。明が滅亡する前後につくられた作品で、亡国の危機に直面した者の痛切な反省の心を詠っていると見ることができます。(2016.7.22)
小車行 小車の行(うた)
小車斑斑黄塵晩 小車(しょうしゃ) 斑斑(はんはん)たり 黄塵(こうじん)の晩(ばん)
夫為推 婦為挽 夫(おっと)は為(ため)に推(お)し 婦(ふ)は為に挽(ひ)く
出門何所之 門を出(い)でて 何の之(ゆ)く所ぞ
青青者楡療吾飢 青青(せいせい)たる者 楡(にれ) 吾(わ)が飢(うえ)を療(いや)さん
願得楽土共哺糜 願わくは楽土(らくど)を得て 共に糜(かゆ)を哺(くら)わん
風吹黄蒿 風は黄蒿(こうこう)を吹き
望見墻宇 墻宇(しょうう)を望見(ぼうけん)す
中有主人当飼汝 中(なか)に主人有りて 当(まさ)に汝(なんじ)を飼(か)うべし
叩門無人室無釜 門を叩(たた)くも人(ひと)無く 室(しつ)に釜(かま)無し
躑躅空巷涙如雨 空巷(くうこう)を躑躅(てきちょく)して 涙 雨の如し
⊂訳⊃
一輪車はごとごと進む 黄塵の舞う日暮れ
夫は車を後ろから押し 妻は綱を挽く
「家を出て 行くあてでもあるのですか」
「青く繁った楡の木で 飢えをいやそう
安住の地をえて 粥をたんまり食べたいものだ」
風は枯れ蓬の野原を吹きぬけ
遥かに土塀と屋根がみえる
「あそこには旦那がいて 食を恵んで下さるだろう」
門を叩くが誰も出てこず 部屋には鍋釜もない
無人の路地でおろおろし 涙は雨のように流れ落ちる
⊂ものがたり⊃ 陳子龍(ちんしりゅう:1608―1674)は華亭(江蘇省上海市松江県)の人。神宗の万暦三十六年(1608)に生まれ、毅宗の崇禎十年(1637)に三十歳で進士に及第し兵科給事中になります。朝廷の腐敗に失望して故郷に帰り、「幾社」を設立して古文運動に携わります。
古文辞派「後七子」の主張を継承して公安派・竟陵派に反対し、明詩の殿軍(しんがり)と称されています。「復社」につどう詩人たちとも呼応して慷慨の気にとむ社会詩を書きますが、三十七歳のとき明の滅亡に遭います。清(女真族)の関内侵入に抗して軍を起こそうとしますが逮捕され、順治四年(1647)に入水して自殺しました。享年四十歳です。
詩題の「小車」(しょうしゃ)は一輪車のこと。杜甫の「兵車行」は出征兵士を見送る詩ですが、こちらは飢饉に遭って逃亡する流民の苦しみを詠います。詩中に会話を含む雑言古詩です。はじめの二句は状況の設定です。「斑斑」は点々とまだらなさまで、あちらこちらに小車が動いているとも解されますが、杜甫の「兵車行」が「車轔轔(りんりん)」と擬音になっていますので小車のすすむ擬音と考えました。
一輪車は人がうしろから押すタイプの車で、夫が押し、妻は車の前につけた綱を挽きます。つぎの二句は夫婦の会話で、妻の問いに夫が答えます。「青青たる者 楡」という言い方は『詩経』に多い表現で、夫の答えは全体として詩経風です。楡の樹皮や葉は救荒食物であり、飢えを癒やすことができました。
つぎの四言二句で枯れた蓬の野原を過ぎ、前方に「墻宇」(村を囲む土塀と屋根)がみえてきました。つぎの一句は句中に「汝」とありますので、通行人の言葉でしょう。結びは家に着いたところで、「門を叩くも人無く 室に釜無し」です。「空巷」は人っ子ひとりいない路地のことで、無人の村でした。「躑躅」はゆきつもどりつすることで、おろおろしながら失望の涙を流すのです。
明45ー陳子龍
春日早起 春日 早(つと)に起く
独起凭欄対暁風 独り起ち 欄(らん)に凭(よ)って 暁風(ぎょうふう)に対す
満渓春水小橋東 満渓(まんけい)の春水(しゅんすい) 小橋(しょうきょう)の東
始知昨夜紅楼夢 始めて知る 昨夜 紅楼(こうろう)の夢
身在桃花万樹中 身は桃花(とうか) 万樹(ばんじゅ)の中(うち)に在り
⊂訳⊃
ひとり起きて欄干に凭れ 明け方の風に吹かれる
谷川にみなぎる春の水は 小橋の東へ流れてゆく
やっとわかった 紅楼でみた昨夜の夢は
桃の花咲く林の中 桃源境であったのだ
⊂ものがたり⊃ 詩題は「春の日に朝早く起きる」ということで、川辺の高楼のようなところに泊った翌朝の作品でしょう。前半二句は状況。ひとり起き出して回廊の欄干に凭れ、明け方の風に吹かれています。「満渓の春水」は春の雪解け水で増水した谷川のことで、水は谷川に架かる小さな橋のしたを東へ流れています。
後半二句は妓楼での華やかな宴の一夜を回想する詩とも解されますが、この二句には「始めて知る」が懸かりますので、これまでの自分の生活、そしてまた明の全盛期そのものが桃源境で酔い痴れていたようなものだったと、祖国滅亡の危機を予感する詩と解することができます。明が滅亡する前後につくられた作品で、亡国の危機に直面した者の痛切な反省の心を詠っていると見ることができます。(2016.7.22)