明43ー王彦泓
余旧詩悉已遺忘 余が旧詩 悉く已に遺忘す 而して
而韜仲皆為存録展 韜仲 皆 存録を為す 展閲一過
閲一過 覚無端往 無端の往事 交々胸懐に集まるを
事交集胸懐恨然久 覚え 恨然 之れを久しゅうす
之 因呈四韻 因って四韻を呈す
不堪重対旧詩篇 堪(た)えず 重ねて旧詩篇(きゅうしへん)に対するに
潦倒歓場二十年 歓場(かんじょう)に潦倒(ろうとう)すること 二十年
多為微辞猜宋玉 多く微辞(びじ)を為(な)して宋玉(そうぎょく)を猜(はか)り
敢持才語傲非煙 敢(あえ)て才語(さいご)を持(じ)して非煙(ひえん)に傲(おご)る
春風鬢影弾琴看 春風(しゅんぷう) 鬢影(びんえい) 琴を弾(だん)じて看(み)
夜月歌声隔巷隣 夜月(やげつ) 歌声(かせい) 巷(こう)を隔(へだ)てて隣(とな)る
今日掩門梅雪下 今日(こんにち) 門を掩(おお)う 梅雪(ばいせつ)の下(もと)
薬炉声沸臥床前 薬炉(やくろ) 声(こえ)は沸(わ)く 臥床(がしょう)の前(まえ)
⊂訳⊃
昔の詩を読み返すのは やりきれない
歓楽の巷に入りびたり 二十年が過ぎた
微妙ないいまわしで 宋玉の再来かといわれ
気の利いた詩句で 妓女たちを唸らせる
春風に琴を弾きつつ 美女のおくれ毛を眺め
月明り 夜の歌声は 道巾ほどの近さであった
いまは門扉を閉じて 白梅の花咲く下
炉で薬を煎じる音が 枕元で湧きおこる
⊂ものがたり⊃ 万暦四十八年(1620)に神宗が崩じると皇太子朱常洛(しゅじょうらく)が即位して光宗泰昌帝になりますが、在位一か月でなくなります。毒殺されたという疑いも伝えられています。光宗の長子十六歳の少年朱由校(しゅゆこう)が即位して熹宗天啓帝になりますが、熹宗は明朝随一の暗君と称せられ、宦官魏忠賢(ぎちゅうけん)が専権を振るいます。
恐怖政事のもと無為無策の八年が過ぎて熹宗が崩じると、異母弟の信王朱由検(しゅゆけん)が位をついで毅宗崇禎帝になります。毅宗は帝国再建の志を抱き、政局の転換に着手し、魏忠賢は自殺して東林党の生きのこりが登用されますが、すでに有力な指導者の大半は失われていました。
明では英宗の正統年間(1436―1446)から農民や都市細民の暴動が頻発するようになり、くわえて遼東の女真族(ジュルチンぞく)が統一を果たし、後金国を立てて勢力を拡大してきました。そのため外防の軍事費もかさむことになります。毅宗即位の天啓七年(1627)、陝西の延安地方を中心に大飢饉があり、暴動はたちまち陝西全域に拡大しました。李自成(りじせい)ら明末の反乱については歴史書を参照してください。
崇禎年間(1628―1644)を生きた詩人に王彦泓(おうげんこう)と陳子龍がいます。二人の詩風、生き方はまったく方向を異にしていました。王彦泓(?―1642)は金壇(江蘇省)の人。科挙に及第せず、毅宗の崇禎年間に華亭訓導として終わります。詩は耽美的で晩唐の香奩体をつぐ優艶な詩を復活しました。国家衰亡のなか悲愁の色は深く、虚無にかたむいています。崇禎十五年(1642)に亡くなり、享年は不明です。
詩題は長い詞書(ことばがき)です。「韜仲」(とうちゅう:伝不詳)は友人でしょうが、字(あざな)か号と思われます。その韜仲が王彦泓の詩を保存していてくれた。それを「展閲一過」(紐解いてひととおり読む)と「無端往事」(思いがけない昔のこと)が胸にこみ上げてきました。そこで「恨然」(しょんぼり)して「四韻」(律詩)を贈ると経緯をのべます。
首聯で「歓場に潦倒すること 二十年」といっていますので、晩年の作品と思われます。「潦倒」は入りびたること、「歓場」は歓楽の巷です。そのころの詩をみせられて、読み返すのはやり切れないと謙遜します。謙遜しながらも過ぎ去った二十年は懐かしく、中四句でそのころの華やかな生活を思いだします。「微辞」は微妙ないいまわしのこと。「宋玉」は戦国楚の文人、屈原と並ぶ詩人です。「才語」は才知のある言葉、気の利いた詩句でしょう。「非煙」は唐代の伝奇に出てくる文学少女の名ですが、つづく二句から妓女をさすと思われます。
頚聯の二句は紅楼の巷で妓女たちと過ごした日々の想い出です。「巷」は街中の路地を意味しますので、妓女たちの歌声が聞こえるほどの近いところに住んでいたということです。尾聯は一転して現在のことです。「梅雪」は雪のように白い梅の花。門を閉じて人と交際せず、「臥床前」(寝台の前)では囲炉裏で薬を煎じる音が湧きおこっていると、自嘲気味に詠うのです。
余旧詩悉已遺忘 余が旧詩 悉く已に遺忘す 而して
而韜仲皆為存録展 韜仲 皆 存録を為す 展閲一過
閲一過 覚無端往 無端の往事 交々胸懐に集まるを
事交集胸懐恨然久 覚え 恨然 之れを久しゅうす
之 因呈四韻 因って四韻を呈す
不堪重対旧詩篇 堪(た)えず 重ねて旧詩篇(きゅうしへん)に対するに
潦倒歓場二十年 歓場(かんじょう)に潦倒(ろうとう)すること 二十年
多為微辞猜宋玉 多く微辞(びじ)を為(な)して宋玉(そうぎょく)を猜(はか)り
敢持才語傲非煙 敢(あえ)て才語(さいご)を持(じ)して非煙(ひえん)に傲(おご)る
春風鬢影弾琴看 春風(しゅんぷう) 鬢影(びんえい) 琴を弾(だん)じて看(み)
夜月歌声隔巷隣 夜月(やげつ) 歌声(かせい) 巷(こう)を隔(へだ)てて隣(とな)る
今日掩門梅雪下 今日(こんにち) 門を掩(おお)う 梅雪(ばいせつ)の下(もと)
薬炉声沸臥床前 薬炉(やくろ) 声(こえ)は沸(わ)く 臥床(がしょう)の前(まえ)
⊂訳⊃
昔の詩を読み返すのは やりきれない
歓楽の巷に入りびたり 二十年が過ぎた
微妙ないいまわしで 宋玉の再来かといわれ
気の利いた詩句で 妓女たちを唸らせる
春風に琴を弾きつつ 美女のおくれ毛を眺め
月明り 夜の歌声は 道巾ほどの近さであった
いまは門扉を閉じて 白梅の花咲く下
炉で薬を煎じる音が 枕元で湧きおこる
⊂ものがたり⊃ 万暦四十八年(1620)に神宗が崩じると皇太子朱常洛(しゅじょうらく)が即位して光宗泰昌帝になりますが、在位一か月でなくなります。毒殺されたという疑いも伝えられています。光宗の長子十六歳の少年朱由校(しゅゆこう)が即位して熹宗天啓帝になりますが、熹宗は明朝随一の暗君と称せられ、宦官魏忠賢(ぎちゅうけん)が専権を振るいます。
恐怖政事のもと無為無策の八年が過ぎて熹宗が崩じると、異母弟の信王朱由検(しゅゆけん)が位をついで毅宗崇禎帝になります。毅宗は帝国再建の志を抱き、政局の転換に着手し、魏忠賢は自殺して東林党の生きのこりが登用されますが、すでに有力な指導者の大半は失われていました。
明では英宗の正統年間(1436―1446)から農民や都市細民の暴動が頻発するようになり、くわえて遼東の女真族(ジュルチンぞく)が統一を果たし、後金国を立てて勢力を拡大してきました。そのため外防の軍事費もかさむことになります。毅宗即位の天啓七年(1627)、陝西の延安地方を中心に大飢饉があり、暴動はたちまち陝西全域に拡大しました。李自成(りじせい)ら明末の反乱については歴史書を参照してください。
崇禎年間(1628―1644)を生きた詩人に王彦泓(おうげんこう)と陳子龍がいます。二人の詩風、生き方はまったく方向を異にしていました。王彦泓(?―1642)は金壇(江蘇省)の人。科挙に及第せず、毅宗の崇禎年間に華亭訓導として終わります。詩は耽美的で晩唐の香奩体をつぐ優艶な詩を復活しました。国家衰亡のなか悲愁の色は深く、虚無にかたむいています。崇禎十五年(1642)に亡くなり、享年は不明です。
詩題は長い詞書(ことばがき)です。「韜仲」(とうちゅう:伝不詳)は友人でしょうが、字(あざな)か号と思われます。その韜仲が王彦泓の詩を保存していてくれた。それを「展閲一過」(紐解いてひととおり読む)と「無端往事」(思いがけない昔のこと)が胸にこみ上げてきました。そこで「恨然」(しょんぼり)して「四韻」(律詩)を贈ると経緯をのべます。
首聯で「歓場に潦倒すること 二十年」といっていますので、晩年の作品と思われます。「潦倒」は入りびたること、「歓場」は歓楽の巷です。そのころの詩をみせられて、読み返すのはやり切れないと謙遜します。謙遜しながらも過ぎ去った二十年は懐かしく、中四句でそのころの華やかな生活を思いだします。「微辞」は微妙ないいまわしのこと。「宋玉」は戦国楚の文人、屈原と並ぶ詩人です。「才語」は才知のある言葉、気の利いた詩句でしょう。「非煙」は唐代の伝奇に出てくる文学少女の名ですが、つづく二句から妓女をさすと思われます。
頚聯の二句は紅楼の巷で妓女たちと過ごした日々の想い出です。「巷」は街中の路地を意味しますので、妓女たちの歌声が聞こえるほどの近いところに住んでいたということです。尾聯は一転して現在のことです。「梅雪」は雪のように白い梅の花。門を閉じて人と交際せず、「臥床前」(寝台の前)では囲炉裏で薬を煎じる音が湧きおこっていると、自嘲気味に詠うのです。