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ティェンタオの自由訳漢詩 明ー袁宏道

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 明37ー袁宏道
   病起偶題 其一      病より起ちて偶々題す 其の一

  対客心如怯     客(かく)に対して  心  怯(おび)ゆるが如く
  窺銅只自憐     銅(かがみ)を窺(うかが)って  只(た)だ自(みずか)ら憐(あわ)れむ
  負暄疎敗髪     暄(けん)を負(お)うて    敗髪(はいはつ)を疎(くしけず)り
  発篋理残篇     篋(きょう)を発(ひら)いて  残篇(ざんぺん)を理(おさ)む
  名豈儒冠悞     名は豈(あ)に儒冠(じゅかん)に悞(あやま)られんや
  病因濁酒痊     病(やまい)は濁酒(だくしゅ)に因(よ)って痊(い)ゆ
  浮生喩泡影     浮生(ふせい)  泡影(ほうえい)に喩(たと)えらる
  何以楽靑年     何(なに)を以(もっ)て青年を楽しまんや

  ⊂訳⊃
          見舞いの客にむかうと  怯えてしまう
          鏡のなかの顔を覗けば  憐れむばかりだ
          日向ぼっこをしながら   乱れた髪をくしけずり
          文箱を開けて   書きそこないの詩を直す
          儒学の勉強で  名が損なわれるはずはなく
          わたしの病は   濁り酒の力でなおったのだ
          人の一生は    泡や影のように儚いもの
          ならば若い日を  どうやって楽しもうか


 ⊂ものがたり⊃ 神宗の万暦年間(1572―1620)は四十八年におよびます。神宗の贅沢によって文華は爛熟しますが、国家財政はまたたくまに危機に陥ります。それに拍車をかけたのが内外の三大乱です。
 万暦二十年(1592)二月、モンゴル族の将軍ボバイが叛して寧夏城(寧夏回族自治区霊武県)を占領しました。鎮圧するのは九月になりますが、反乱の最中、四月に豊臣秀吉軍が朝鮮半島に攻めこんできました。文禄の役・慶長の役の始まりです。明は朝鮮に援軍を送りますが敗北を重ねます。その外寇がまだ終わっていない万暦二十五年(1597)七月、播州(貴州省遵義県)の族長楊応龍(ようおうりゅう)が叛し、鎮圧に三年を要しました。
 李贄の文学論に刺激された個性派の動きは、個性の尊重という叙情の基本に立ち返ろうとするものでしたが、政事の混迷のなか社会から眼を逸らして個人の内面に逃避する側面がありました。個性派の前半をいろどるのは袁宗道・宏道・中道の三兄弟であり、兄弟が公安(湖北省公安県)の出身であったことから公安派(三袁)と呼ばれます。代表するのは袁宏道(えんこうどう)です。
 袁宏道(1586ー1610)は公安(湖北省公安県)の人。穆宗の隆慶二年(1586)に生まれ、若くして詩才を発揮し十代半ばで詩会を結成します。神宗の万暦二十年(1592)に二十五歳で進士に及第しますが、内憂外患の時代でした。そんななか呉県(江蘇省蘇州市)の知県になって名声を博し、礼部主事などを歴任、吏部稽勛郎中に至ります。
 古文辞派が一世を風靡するなか二十四歳のときに李贄(卓吾)にあい、影響を受けて擬古主義に反対します。性霊説を唱え、詩文は真情の吐露を第一とすべきと主張し、詩語も平易なものを用いて公安派の創始者となります。しかし、病弱のため万暦三十八年(1610)になくなり、享年四十三歳です。
 詩題の「病(やまい)より起(た)ちて」は病の床を離れてという意味です。十九歳のときの作とされ、若いころから病弱でした。はじめの二句は病みあがりの精神状態で、気弱になっていることをのべます。中四句のはじめ二句は病気が治ったので身嗜みを整え、書きそこないの詩に手を加えてみたりします。「暄を負うて」は太陽の光を浴びること、日なたぼっこをすることの決まり文句です。「篋」は竹で編んだ箱、文箱として用いていたのでしょう。
 つぎの二句は病が治ったことへの感懐で、これからも儒学に励む覚悟をのべます。酒の力で病気が治ったといっているのは、これからも酒を嗜むという意味でしょうか。最後の二句は結びの感懐で、これからは無理をしないで楽しみながら生きていこうと陶淵明の考え方に倣う処世観をのべます。「浮生 泡影に喩えらる」というのは、『金剛般若経』に「世の中一切のものは夢幻泡影(むげんほうえい)」とあるのを引用しており、十九歳で仏教にも関心のある早熟の才能でした。

 明38ー袁宏道
   過呉戲柬江進之     呉を過って戲れに江進之に柬す

  少年作客時     少年  客(かく)と作(な)りし時
  浸浸慕君長     浸浸(しんしん)として君長(くんちょう)を慕(した)う
  千旄絡長衢     千旄(せんぼう)  長衢(ちょうく)に絡(つづ)き
  一呵已神往     一呵(いっか)   已(すで)に神往(しんおう)す
  前者為呉令     前者(さき)には呉令(ごれい)と為(な)り
  始復羨游客     始めて復(ま)た遊客(ゆうかく)を羨(うらや)む
  覚彼白衫寛     彼(か)の白衫(はくさん)の寛(かん)なるを覚(おぼ)え
  恨我腰帯窄     我が腰帯(ようたい)の窄(せま)きを恨(うら)みき
  今日過呉下     今日(こんにち)  呉下(ごか)を過(よぎ)る
  客来官已了     客として来たり  官は已(すで)に了(おわ)る
  從頭細忖量     頭(はじめ)より細(こま)やかに忖量(そんりょう)するに
  客比官較好     客は官に比して較好(ややよ)し
  客是一尺雪     客は是(こ)れ一尺の雪
  官是一窟塵     官(かん)は是れ一窟(いっくつ)の塵(ちり)
  欲得客兼勢     客にして兼ねて勢(せい)を得んと欲すれば
  同年作主人     同年(どうねん)は主人(しゅじん)と作(な)れり

  ⊂訳⊃  
          若いころ  旅暮らしのときは
          役人を羨ましいと思っていた
          旗をつらねて大通りをゆく
          先駆の一声に見惚れていた
          ところが先年  呉の県令になって
          あらためて   旅する人を羨ましいと思う
          ゆったりした  白の上衣が好ましく
          官服の帯の   窮屈なのは嫌いである
          今度 呉の城下に立ち寄り
          仕事はやめて  旅人としてやってきた
          よくよく考えてみると
          役人よりは  旅人の方がましだ
          旅人を一尺の雪だとすれば
          役人などは穴蔵の中の塵芥
          旅の自由と権勢を  ともに得たいと思うなら
          同期生よ   君はすでに成し遂げている


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「江進之」(こうしんし)は進士の同年で友人です。公安派の詩人でした。万暦二十五年(1597)、三十歳のころに遊歴の途中かつて県令をしたことのある「呉」(江蘇省蘇州市)に立ち寄りました。そのとき書信に添えて送った詩で、みずから「戲(たわむ)れに」といっていますが、官僚を批判しています。
 前半八句で過去の体験と感想をのべます。「少年」は自分のことで二十代であることをしめします。若いころ「客」(旅)をしていたときは、「君長」(偉い役人)を羨ましいと思っていました。「千旄」は多くの旗さしもの、「長衢」は街の大通り、「一呵」は一声、先払いの声でしょう。その声に「神往」(魂を打たれる)したといいます。
 つぎの四句は自分が「呉令」(呉の県令)になったときのことです。役人になってみると、「游客」(自由に旅する人)が羨ましくなります。「白衫」は無位無官の者の着る白い上衣、「腰帯」は役人のつける腰おびで、そこに印綬をつるしています。役人の窮屈な生活が嫌になったというのです。
 後半八句は現在の感想で、「呉下」は蘇州の城下のことです。「官は已に了る」といっていますが、辞官していたわけではなく役目を一時離れていたことの詩的誇張でしょう。よくよく「忖量」(おしはかる)してみると、役人より旅人の方がましのようだといいます。そのことをつぎの対句で直喩して、旅人の潔白と役人の汚職を対比します。旅人の自由と役人の権勢を同時に持とうと思うなら、君はそれを成し遂げていると江進之を褒めます。「同年」は科挙の同年及第者が互いに相手を呼ぶときの言い方で、親戚以上の親しみがありました。

 明39ー袁宏道
   聴朱生説水滸伝      朱生が水滸伝を説くを聴く

  少年工諧謔     少年  諧謔(かいぎゃく)に工(たく)みに
  頗溺滑稽伝     頗(すこぶ)る   滑稽(こっけい)の伝(でん)に溺(おぼ)る
  後来読水滸     後来(こうらい)  水滸(すいこ)を読み
  文字益奇変     文字(もんじ)    益々(ますます)奇変(きへん)
  六経非至文     六経(りくけい)  至文(しぶん)に非(あら)ず
  馬遷失組練     馬遷(ばせん)は組練(それん)に失(しっ)す
  一雨快西風     一雨(いちう)  快西風(かいせいふう)
  聴君酣舌戰     君(きみ)が   酣舌戦(かんぜつせん)を聴(き)く

  ⊂訳⊃ 
          若いころから  洒落に巧みで
          『史記』の滑稽列伝に読みふける
          やがて『水滸伝』を読むと
          文章はいっそう勝れ 変化に富んでいる
          儒教の経典は     最高の名文とはいえず
          司馬遷の文章は   つくりものめいている
          さっと降るにわか雨  心地よい西の風
          あなたの語り口は   そんな感じがいたします


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「朱生」(しゅせい)は当時の有名な講談師でしょう。『水滸伝』は元末明初の施耐庵(したいあん)が書きはじめたものを同時代の作家羅貫中(らかんちゅう)が完成したとされ、梁山泊につどう豪傑たちの活躍を描く長篇白話小説です。農民蜂起を題材にした中国最初の作品といわれ、李贄は二種類の評点本を書き、「宇宙内五大文章」のひとつと讃えています。明代には講談として語られ、大衆的な人気を博しました。
 詩は前半四句で自分の読書体験をのべます。「少年」は自分のことで、若いころから「諧謔」(面白おかしい表現、機転の利いた表現)が上手だったといいます。『史記』の滑稽列伝を読みふけり、やがて『水滸伝』を読むようになりましたが、『史記』よりも『水滸伝』の方が面白かったといいます。
 後半の四句は中国古典の評価で「六経」は儒教の経典のことです。それを「至文」(最高の名文)にあらずと批判します。「馬遷」は司馬遷のことで、『史記』を意味します。「組練」は組み立てたり練り合わせたりすることで、『史記』の文章はうまく出来ていないと貶すのです。最後の二句は朱生への褒め言葉です。「一雨快西風」「酣舌戦」のようだと最高の褒め言葉を贈ります。李贄や公安派の反権力的は側面を窺わせる作品です。(2016.7.16)

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