明35ー湯顕祖
秋発庾嶺 秋 庾嶺を発す
楓葉沾秋影 楓葉(ふうよう) 秋影(しゅうえい)沾(うるお)い
涼蝉隠夕暉 涼蝉(りょうせん) 夕暉(せきき)に隠(かく)る
梧雲初暗靄 梧雲(ごうん) 初めて暗靄(あんあい)
花露欲霏微 花露(かろ) 霏微(ひび)ならんと欲す
嶺色随行棹 嶺色(れいしょく) 行棹(こうとう)に随(したが)い
江光満客衣 江光(こうこう) 客衣(かくい)に満つ
徘徊今夜月 徘徊(はいかい)す 今夜の月
孤鵲正南飛 孤鵲(こじゃく) 正(まさ)に南飛(なんぴ)す
⊂訳⊃
秋になって 楓の葉はなんだか湿っぽい
夕陽のなか 蝉はやがていなくなる
桐の木立は 夕靄におおわれはじめ
花の露も 霞んで見えなくなろうとする
舟が進むにつれて 峰のおもむきはかわり
川面の光は 旅の衣を照らしだす
今宵の月が 空にただよい
一羽の鵲は いままさに南へ飛んでいく
⊂ものがたり⊃ 湯顕祖(とうけんそ:1550―1616)は臨川(江西省)の人。世宗の嘉靖二十九年(1550)に官家に生まれ、若くして文名をあげます。穆宗の隆慶四年(1570)に二十一歳で郷試に及第しますが、反宦官の東林党と親しかったために張居正に睨まれて迫害をうけます。その間、在野の詩人として活躍し、劇作にも手をつけます。
神宗の万暦十年(1582)に張居正がなくなり、翌万暦十一年に三十四歳で進士に及第します。南京太常博士をへて礼部主事にすすみますが、万暦十九年(1591)、四十二歳のときに朝廷を批判して徐聞(広東省)に流されます。
赦されて遂昌(浙江省)の知県になりますが五年で辞し、臨川県沙井巷の清遠楼玉茗堂に隠棲して演劇・詩文の執筆に従事します。明代を代表する劇作家であり、「玉茗堂四夢」(紫釵記・南柯記・牡丹亭還魂記・邯鄲記)は代表作とされています。万暦四十四年(1616)に不遇のうちになくなり、享年六十七歳です。
詩題の「庾嶺」(ゆれい)は江西省と広東省の境にある山脈です。徐聞(広東省)に流されて嶺南におもむく途中、大庾嶺を越えました。後半に「行棹」とあるので、舟行に移ってからの詩でしょう。
詩は舟の進行にしたがって詠いすすめられます。前半四句はあたりの景色です。「楓葉」は秋になると美しく紅葉しますが、それを湿っぽいと感じます。蝉の鳴き声も日暮れとともに聞こえなくなります。つづく二句も航路の点景で、「梧雲」は雲のように繁っている梧桐の木立のことです。「霏微」は霞んで見えなくなること。これら暗く湿った光景は作者の心情の反映でもあるでしょう。
後半四句は「行棹」(舟がすすむこと)につれて大庾嶺の峰はたたずまいをかえ、川面に反映した夕陽が「客衣」(旅の衣)を照らしだします。日が沈み、月が昇り、結びでは夜空にただよう月と南へ渡っていく鵲の姿を描きます。ひとり流謫の地へむかう自分を鵲に喩えるのでしょう。
明36ー湯顕祖
聞都城渴雨 都城の渇雨を聞く
時苦攤税 時に攤税に苦しむ
五風十雨亦爲褒 五風十雨(ごふうじゅうう) 亦(ま)た褒(ほう)と為(な)る
薄夜焚香沾御袍 薄夜(はくや) 香(こう)を焚(た)いて 御袍(ぎょほう)沾(うるお)う
当知雨亦愁抽税 当(まさ)に知るべし 雨も亦た抽税(ちゅうぜい)を愁(うれ)うるを
笑語江南申漸高 笑語(しょうご)す 江南の 申漸高(しんぜんこう)
⊂訳⊃
恵みの雨は 天子のお褒めにあずかることができる
夕暮れ時に香を焚いて 雨乞いをされているからだ
おわかりになるべきだ 江南の申漸高が笑ったように
雨もまた 税を取られるのが嫌いなのだ
⊂ものがたり⊃ 詩題の「渴雨」(かつう)は日照りのことです。北京周辺が旱魃に襲われていると聞き、民衆が「攤税」(たんぜい:納税)に苦しむと政府を批判します。白居易風の諷諭詩になっており、遂昌の知県を辞してまもないころの作品でしょう。
四字熟語の「五風十雨」は五日に一度の風、十日に一度の雨、稔りをもたらす恵みの風雨です。それが「褒と為る」のは天子が雨乞い中だからです。天子の雨乞いにもかかわらず「渴雨」になったのは「当に知るべし」、雨もまた「抽税」(徴税)を嫌っているからだ皮肉ります。
五代十国のころ南唐に「申漸高」という者がいて、都周辺に雨が降っていて都のなかに降らないのはなぜだろうと聞かれ、「雨も税金を取られるのがいやなので街の中に入って来ないのです」と答えたといいます。その故事を踏まえています。(2016.7.12)
秋発庾嶺 秋 庾嶺を発す
楓葉沾秋影 楓葉(ふうよう) 秋影(しゅうえい)沾(うるお)い
涼蝉隠夕暉 涼蝉(りょうせん) 夕暉(せきき)に隠(かく)る
梧雲初暗靄 梧雲(ごうん) 初めて暗靄(あんあい)
花露欲霏微 花露(かろ) 霏微(ひび)ならんと欲す
嶺色随行棹 嶺色(れいしょく) 行棹(こうとう)に随(したが)い
江光満客衣 江光(こうこう) 客衣(かくい)に満つ
徘徊今夜月 徘徊(はいかい)す 今夜の月
孤鵲正南飛 孤鵲(こじゃく) 正(まさ)に南飛(なんぴ)す
⊂訳⊃
秋になって 楓の葉はなんだか湿っぽい
夕陽のなか 蝉はやがていなくなる
桐の木立は 夕靄におおわれはじめ
花の露も 霞んで見えなくなろうとする
舟が進むにつれて 峰のおもむきはかわり
川面の光は 旅の衣を照らしだす
今宵の月が 空にただよい
一羽の鵲は いままさに南へ飛んでいく
⊂ものがたり⊃ 湯顕祖(とうけんそ:1550―1616)は臨川(江西省)の人。世宗の嘉靖二十九年(1550)に官家に生まれ、若くして文名をあげます。穆宗の隆慶四年(1570)に二十一歳で郷試に及第しますが、反宦官の東林党と親しかったために張居正に睨まれて迫害をうけます。その間、在野の詩人として活躍し、劇作にも手をつけます。
神宗の万暦十年(1582)に張居正がなくなり、翌万暦十一年に三十四歳で進士に及第します。南京太常博士をへて礼部主事にすすみますが、万暦十九年(1591)、四十二歳のときに朝廷を批判して徐聞(広東省)に流されます。
赦されて遂昌(浙江省)の知県になりますが五年で辞し、臨川県沙井巷の清遠楼玉茗堂に隠棲して演劇・詩文の執筆に従事します。明代を代表する劇作家であり、「玉茗堂四夢」(紫釵記・南柯記・牡丹亭還魂記・邯鄲記)は代表作とされています。万暦四十四年(1616)に不遇のうちになくなり、享年六十七歳です。
詩題の「庾嶺」(ゆれい)は江西省と広東省の境にある山脈です。徐聞(広東省)に流されて嶺南におもむく途中、大庾嶺を越えました。後半に「行棹」とあるので、舟行に移ってからの詩でしょう。
詩は舟の進行にしたがって詠いすすめられます。前半四句はあたりの景色です。「楓葉」は秋になると美しく紅葉しますが、それを湿っぽいと感じます。蝉の鳴き声も日暮れとともに聞こえなくなります。つづく二句も航路の点景で、「梧雲」は雲のように繁っている梧桐の木立のことです。「霏微」は霞んで見えなくなること。これら暗く湿った光景は作者の心情の反映でもあるでしょう。
後半四句は「行棹」(舟がすすむこと)につれて大庾嶺の峰はたたずまいをかえ、川面に反映した夕陽が「客衣」(旅の衣)を照らしだします。日が沈み、月が昇り、結びでは夜空にただよう月と南へ渡っていく鵲の姿を描きます。ひとり流謫の地へむかう自分を鵲に喩えるのでしょう。
明36ー湯顕祖
聞都城渴雨 都城の渇雨を聞く
時苦攤税 時に攤税に苦しむ
五風十雨亦爲褒 五風十雨(ごふうじゅうう) 亦(ま)た褒(ほう)と為(な)る
薄夜焚香沾御袍 薄夜(はくや) 香(こう)を焚(た)いて 御袍(ぎょほう)沾(うるお)う
当知雨亦愁抽税 当(まさ)に知るべし 雨も亦た抽税(ちゅうぜい)を愁(うれ)うるを
笑語江南申漸高 笑語(しょうご)す 江南の 申漸高(しんぜんこう)
⊂訳⊃
恵みの雨は 天子のお褒めにあずかることができる
夕暮れ時に香を焚いて 雨乞いをされているからだ
おわかりになるべきだ 江南の申漸高が笑ったように
雨もまた 税を取られるのが嫌いなのだ
⊂ものがたり⊃ 詩題の「渴雨」(かつう)は日照りのことです。北京周辺が旱魃に襲われていると聞き、民衆が「攤税」(たんぜい:納税)に苦しむと政府を批判します。白居易風の諷諭詩になっており、遂昌の知県を辞してまもないころの作品でしょう。
四字熟語の「五風十雨」は五日に一度の風、十日に一度の雨、稔りをもたらす恵みの風雨です。それが「褒と為る」のは天子が雨乞い中だからです。天子の雨乞いにもかかわらず「渴雨」になったのは「当に知るべし」、雨もまた「抽税」(徴税)を嫌っているからだ皮肉ります。
五代十国のころ南唐に「申漸高」という者がいて、都周辺に雨が降っていて都のなかに降らないのはなぜだろうと聞かれ、「雨も税金を取られるのがいやなので街の中に入って来ないのです」と答えたといいます。その故事を踏まえています。(2016.7.12)