明33ー徐渭
夜宿丘園 夜 丘園に宿す
老樹拏空雲 老樹(ろうじゅ) 空雲(くううん)を拏(とら)え
長藤羅渓翠 長藤(ちょうとう) 渓翠(けいすい)を羅(あみ)す
碧火冷枯根 碧火(へきか) 枯根(ここん)に冷(ひや)やかに
前山友精崇 前山(ぜんざん) 精崇(せいすう)を友(とも)とす
或為道士服 或るもの 道士(どうし)の服(ふく)を為(な)し
月明対人語 月明(げつめい) 人に対して語(かた)る
幸勿相猜嫌 幸(さいわ)いに 相猜嫌(あいせんけん)すること勿(なか)れ
夜來談客旅 夜来(やらい) 客旅(かくりょ)を談(だん)ぜん
⊂訳⊃
老木は 夜空の雲をつかみ取るように立ち
蔦葛は 谷川の水に網をかけるように広がる
青い鬼火が 枯れた木の根元に冷たく光り
前方の山は 妖怪変化が潜んでいるようだ
そこに何者か 道士の服を着た者があらわれ
月の光の中で わたしに語りかける
どうか私を 怪しまないでくれ
夜も更けた 旅の話でもしようではないか
⊂ものがたり⊃ 穆宗隆慶帝が在位七年、三十六歳の若さで急死すると、十歳の皇太子朱翊鈞(しゅよくきん)が跡をついで神宗万暦帝になります。宰相張居正が病没すると神宗は贅沢と遊蕩に耽るようになり、政事は乱れて党派の対立が激しくなりました。
宦官寄りの閹党(えんとう)と反宦官の官僚は激しく対立し、反宦官派の吏部侍郎顧憲成(こけんせい)は皇太子の冊立をめぐって神宗の怒りに触れ免職されます。故郷の無錫(江蘇省無錫市)に帰った顧憲成は、親しい友人たちと東林学院を興して講学につとめました。朱子学を講じ、朝政を論じて宦官の悪事を批判したので、多くの士大夫の支持を集めました。閹党の者はかれらを東林党と呼んで憎みますが、東林党の流れは明末の在野の批判勢力として力を伸ばしていきます。
古文辞派「後七子」の詩も神宗の万暦年間になるとマンネリ化して、擬古主義の弊害が出てきます。そこに王守仁の流れを汲む陽明学左派の李贄(りし:字は卓吾(たくご))が出てきて、個の重視、心の尊重をとなえました。
李贄(1527ー1602)は世宗の嘉靖六年(1527)に泉州晋江(福建省泉州市)で生まれ、嘉靖中期に挙人にあげられました。穆宗が即位した嘉靖四十五年(1566)には四十歳になっており、思想家・文芸評論家として活躍します。それまで詩よりも低く見られていた演劇や小説、特に『水滸伝』を高く評価し、庶民文化の重要性を訴えます。宰相張居正がいなくなると政事は乱れ、過酷な刑罰が横行しました。農民蜂起に同情的であった李贄は迫害をうけるようになり、万暦三十年(1602)に獄中で自殺します。享年七十六歳です。
古文辞派の詩が批判されるなか、詩壇とは離れたところから個性的な詩人があらわれます。徐渭(じょい)は在野の画家・著述家で、湯顕祖は異色の詩人・劇作家です。二人は個性派とよばれる人々の先駆者と目されています。
徐渭(1522ー1595)は山陰(浙江省紹興市)の人。世宗即位の翌年、嘉靖元年(1522)の生まれですが庶子でした。父親は徐渭が生まれた年になくなり、実母は十歳のときに徐家から追いだされます。義母も徐渭が十代半ばのときになくなり家は没落します。六歳のころから教育をうけ、文才に恵まれていましたが科挙には及第できませんでした。
二十歳で結婚しますが、その妻も五、六年でなくなるという不幸にあいます。壮年期に浙江総督胡宗憲(こそうけん)の幕下に書記として勤めますが、胡宗憲が逮捕されると連座を恐れるあまり精神不安定になり自殺をはかります。のちに後妻を殺して獄に投ぜられ、釈放後は山水に隠れて詩酒書画を友としました。晩年は著述に励み、神宗の万暦二十三年(1595)になくなります。享年七十四歳です。
詩題の「丘園」(きゅうえん)は丘の上の庭園です。作者が三十代のころ南を旅行し、丘の上にある大きな屋敷に泊りました。そのときの作品です。夜、眠れなかったのか庭を散歩し、その感懐を幻想的に詠います。
四句ずつ前後に分かれ、はじめの四句で庭の雰囲気を描きます。大きな老木が聳え立ち、「長藤」(長い蔦葛)が谷川の水に網をかけるように広がっています。「碧火」は鬼火のことで、鬼火が枯れ木の根元で冷たくひかり、前方の山は「精崇」(もののけ、妖怪)が潜んでいるような雰囲気です。薄気味の悪い導入部です。
後半の四句では、突如、道士の服装をした人物があらわれて「人」(私)に語りかけます。結びはその言葉で、「幸いに……勿れ)」は願うという意味になり、「猜嫌」は疑う、嫌がるという意味です。どうか私を怪しまないでくれ。夜も更けたので旅の話でもしようではないか、と道士の服装をした者がいいます。一種の物語詩で怪奇小説の雰囲気をただよわせる詩です。
明34ー徐渭
題葡萄圖 葡萄の図に題す
半生落魄已成翁 半生(はんせい) 落魄(らくたく) 已(すで)に翁(おきな)と成り
独立書斎嘯晩風 独り書斎に立ちて 晩風(ばんぷう)に嘯(うそぶ)く
筆底明珠無処売 筆底(ひつてい)の明珠(めいしゅ) 売るに処(ところ)無し
閑抛閑擲野藤中 閑に抛(なげう)ち 閑に擲(なげう)たん 野藤(やとう)の中(うち)
⊂訳⊃
わが半生は落ちぶれたまま すでに老人になり
ひとり書斎のまえに立ち 夕風になかで詩を吟じる
わたしの描く葡萄の実は どこに行っても売れないから
心静かに投げ込んでやろう 蔦葛のなかに
⊂ものがたり⊃ 詩は自作の「墨葡萄図」に書きつけた題画詩です。五十三、四歳のころの作品で、不遇の人生を振りかえります。はじめの二句は自分の姿。「落魄」(落托(らくたく))は落ちぶれてがっかりするようすであり、老いてひとり書斎のまえに立ち詩を吟じています。
後半の二句は感慨で、「筆底の明珠」は絵筆でかいた葡萄の実。その絵が売れないので、「閑に抛ち 閑に擲たん」と嘆いて結びます。自分の絵が評価されないのなら心静かに、この葡萄の絵のなかに自分の画才を思う存分注ぎこむことにしようと、居直った心情を詠うのでしょう。(2016.7.10)
夜宿丘園 夜 丘園に宿す
老樹拏空雲 老樹(ろうじゅ) 空雲(くううん)を拏(とら)え
長藤羅渓翠 長藤(ちょうとう) 渓翠(けいすい)を羅(あみ)す
碧火冷枯根 碧火(へきか) 枯根(ここん)に冷(ひや)やかに
前山友精崇 前山(ぜんざん) 精崇(せいすう)を友(とも)とす
或為道士服 或るもの 道士(どうし)の服(ふく)を為(な)し
月明対人語 月明(げつめい) 人に対して語(かた)る
幸勿相猜嫌 幸(さいわ)いに 相猜嫌(あいせんけん)すること勿(なか)れ
夜來談客旅 夜来(やらい) 客旅(かくりょ)を談(だん)ぜん
⊂訳⊃
老木は 夜空の雲をつかみ取るように立ち
蔦葛は 谷川の水に網をかけるように広がる
青い鬼火が 枯れた木の根元に冷たく光り
前方の山は 妖怪変化が潜んでいるようだ
そこに何者か 道士の服を着た者があらわれ
月の光の中で わたしに語りかける
どうか私を 怪しまないでくれ
夜も更けた 旅の話でもしようではないか
⊂ものがたり⊃ 穆宗隆慶帝が在位七年、三十六歳の若さで急死すると、十歳の皇太子朱翊鈞(しゅよくきん)が跡をついで神宗万暦帝になります。宰相張居正が病没すると神宗は贅沢と遊蕩に耽るようになり、政事は乱れて党派の対立が激しくなりました。
宦官寄りの閹党(えんとう)と反宦官の官僚は激しく対立し、反宦官派の吏部侍郎顧憲成(こけんせい)は皇太子の冊立をめぐって神宗の怒りに触れ免職されます。故郷の無錫(江蘇省無錫市)に帰った顧憲成は、親しい友人たちと東林学院を興して講学につとめました。朱子学を講じ、朝政を論じて宦官の悪事を批判したので、多くの士大夫の支持を集めました。閹党の者はかれらを東林党と呼んで憎みますが、東林党の流れは明末の在野の批判勢力として力を伸ばしていきます。
古文辞派「後七子」の詩も神宗の万暦年間になるとマンネリ化して、擬古主義の弊害が出てきます。そこに王守仁の流れを汲む陽明学左派の李贄(りし:字は卓吾(たくご))が出てきて、個の重視、心の尊重をとなえました。
李贄(1527ー1602)は世宗の嘉靖六年(1527)に泉州晋江(福建省泉州市)で生まれ、嘉靖中期に挙人にあげられました。穆宗が即位した嘉靖四十五年(1566)には四十歳になっており、思想家・文芸評論家として活躍します。それまで詩よりも低く見られていた演劇や小説、特に『水滸伝』を高く評価し、庶民文化の重要性を訴えます。宰相張居正がいなくなると政事は乱れ、過酷な刑罰が横行しました。農民蜂起に同情的であった李贄は迫害をうけるようになり、万暦三十年(1602)に獄中で自殺します。享年七十六歳です。
古文辞派の詩が批判されるなか、詩壇とは離れたところから個性的な詩人があらわれます。徐渭(じょい)は在野の画家・著述家で、湯顕祖は異色の詩人・劇作家です。二人は個性派とよばれる人々の先駆者と目されています。
徐渭(1522ー1595)は山陰(浙江省紹興市)の人。世宗即位の翌年、嘉靖元年(1522)の生まれですが庶子でした。父親は徐渭が生まれた年になくなり、実母は十歳のときに徐家から追いだされます。義母も徐渭が十代半ばのときになくなり家は没落します。六歳のころから教育をうけ、文才に恵まれていましたが科挙には及第できませんでした。
二十歳で結婚しますが、その妻も五、六年でなくなるという不幸にあいます。壮年期に浙江総督胡宗憲(こそうけん)の幕下に書記として勤めますが、胡宗憲が逮捕されると連座を恐れるあまり精神不安定になり自殺をはかります。のちに後妻を殺して獄に投ぜられ、釈放後は山水に隠れて詩酒書画を友としました。晩年は著述に励み、神宗の万暦二十三年(1595)になくなります。享年七十四歳です。
詩題の「丘園」(きゅうえん)は丘の上の庭園です。作者が三十代のころ南を旅行し、丘の上にある大きな屋敷に泊りました。そのときの作品です。夜、眠れなかったのか庭を散歩し、その感懐を幻想的に詠います。
四句ずつ前後に分かれ、はじめの四句で庭の雰囲気を描きます。大きな老木が聳え立ち、「長藤」(長い蔦葛)が谷川の水に網をかけるように広がっています。「碧火」は鬼火のことで、鬼火が枯れ木の根元で冷たくひかり、前方の山は「精崇」(もののけ、妖怪)が潜んでいるような雰囲気です。薄気味の悪い導入部です。
後半の四句では、突如、道士の服装をした人物があらわれて「人」(私)に語りかけます。結びはその言葉で、「幸いに……勿れ)」は願うという意味になり、「猜嫌」は疑う、嫌がるという意味です。どうか私を怪しまないでくれ。夜も更けたので旅の話でもしようではないか、と道士の服装をした者がいいます。一種の物語詩で怪奇小説の雰囲気をただよわせる詩です。
明34ー徐渭
題葡萄圖 葡萄の図に題す
半生落魄已成翁 半生(はんせい) 落魄(らくたく) 已(すで)に翁(おきな)と成り
独立書斎嘯晩風 独り書斎に立ちて 晩風(ばんぷう)に嘯(うそぶ)く
筆底明珠無処売 筆底(ひつてい)の明珠(めいしゅ) 売るに処(ところ)無し
閑抛閑擲野藤中 閑に抛(なげう)ち 閑に擲(なげう)たん 野藤(やとう)の中(うち)
⊂訳⊃
わが半生は落ちぶれたまま すでに老人になり
ひとり書斎のまえに立ち 夕風になかで詩を吟じる
わたしの描く葡萄の実は どこに行っても売れないから
心静かに投げ込んでやろう 蔦葛のなかに
⊂ものがたり⊃ 詩は自作の「墨葡萄図」に書きつけた題画詩です。五十三、四歳のころの作品で、不遇の人生を振りかえります。はじめの二句は自分の姿。「落魄」(落托(らくたく))は落ちぶれてがっかりするようすであり、老いてひとり書斎のまえに立ち詩を吟じています。
後半の二句は感慨で、「筆底の明珠」は絵筆でかいた葡萄の実。その絵が売れないので、「閑に抛ち 閑に擲たん」と嘆いて結びます。自分の絵が評価されないのなら心静かに、この葡萄の絵のなかに自分の画才を思う存分注ぎこむことにしようと、居直った心情を詠うのでしょう。(2016.7.10)