南北朝40ー庾信
擬詠懐二十七首 詠懐に擬す 二十七首
其三 其の三
爼豆非所習 爼豆(そとう)は習(なら)う所に非(あら)ず
帷幄復無謀 帷幄(いあく)は復(ま)た謀(はか)ること無し
不言班定遠 言(おも)わず 班定遠(はんていえん)のごとく
応為万里侯 応(まさ)に万里の侯(こう)に為(な)るべしと
燕客思遼水 燕客(えんきゃく)は遼水(りょうすい)を思い
秦人望隴頭 秦人(しんひと)は隴頭(ろうとう)を望む
倡家遭強聘 倡家(しょうか) 強聘(きょうへい)に遭(あ)い
質子値仍留 質子(しつし) 仍(な)お留(とど)めらるるに値(あ)う
自憐才智尽 自ら才智(さいち)の尽(つ)くるを憐(あわ)れみ
空傷年鬢秋 空(むな)しく年鬢(ねんびん)の秋を傷(いた)むのみ
⊂訳⊃
私は政事のことに暗く
軍事の才能もない
だからあの班超のように
定遠侯になろうとは思わない
燕から来た旅人は 故郷の川を思い
秦から来た人は 故郷の山を懐かしむ
妓楼の女のように 無理に招かれ
人質のように 止め置かれる
このようにして 才智の尽きるのを悲しみ
むなしく老いて 白髪になるのを嘆くのだ
⊂ものがたり⊃ 梁の武帝は三十九歳のときに国を建て、在位は四十八年にわたります。政事は安定し、経済も発展し、都建康には堂塔伽藍が立ち並びました。ところが治世の半ばごろから仏教を篤く信仰するようになり、六十三歳のときから八十四歳までの間に四度も捨身を行いました。
捨身というのは仏寺に投じて仏に仕えることですが、皇帝が寺に行ってしまっては政事が成り立ちません。群臣は仏寺に多額の喜捨をして皇宮への帰還を請願するありさまでした。
そのころ北朝の北魏は、十年に及ぶ混乱のあと東西に分裂していました。梁は東魏と和平条約を結んでいましたが、東魏に内紛が起こり、有力武将の侯景(こうけい)が梁に帰属を求めてきました。
梁は侯景の申し出を受け入れ、侯景を河南王に封じて後援します。反対する東魏は兵を出し、梁と侯景の連合軍は破れて敗走します。窮鼠猫を咬むといいますが、寿春(安徽省寿県)に逃げ帰った侯景は、梁が東魏と和睦して自分を東魏に引き渡すのではないかと恐れ、兵を率いて梁都建康に攻め寄せて来ました。
地方の貧窮の民が合流したため侯景の軍は大軍となり、梁都は四か月の籠城の末に陥落します。八十六歳の武帝は侯景に捕えられ、二か月後に憤死します。梁都を占領した侯景は大宝二年(551)に即位して漢帝を称しますが、荊州(湖北省江陵県)の王僧弁(おうそうべん)の軍と広州(広東省広州市)の陳覇先(ちんはせん)の軍に攻められて滅びます。史上「侯景の乱」と称される動乱は終了しますが、都建康は荒れ果ててしまいました。
そのころ四十一歳になっていた庾信は、梁の使者として西魏の長安に赴きます。ところが、長安滞在中に西魏が滅んで北周になるという政変に遭遇し、長安に抑留されてしまいます。そのとき梁でも、実力者の陳覇先が梁の敬帝に禅譲をせまって陳王朝が成立します。そのため、庾信は故郷に帰ることができなくなりました。
そのご、庾信は知識人としての教養を認められて北周に仕えるようになり、以後、望郷の思いを詩につづるようになります。杜甫が高く評価するのは、北朝に仕えるようになってからの庾信の詩です。
詩題の「詠懐に擬す」は魏の阮籍(げんせき)の詠懐詩(2月23日のブログ参照)に倣うという意味ですが、政事的偽装でしょう。其の三の詩は四、四、二句に区分して読むことができ、はじめ四句の「爼豆」は祭事に用いる器のこと、政事を意味します。「帷幄」は天幕のことで軍事を指します。この二句は自分は政事にも軍事にも向いていないというのです。「班定遠」は西域制覇の功績で定遠侯に封ぜられた後漢の班超(はんちょう)のことです。自分は班超のような人物になろうとは思わないと詠います
つぎの四句では、燕の旅人や秦の人が故郷の川「遼水」や山「隴頭」を慕うのは当然のことといい、自分は故郷から引き離され、「倡家」(妓女を置く家)の女か「質子」(人質の子)のように無理やりに抑留されていると詠います。最後の二句は以上を総括して、自分の運命を嘆くのです。
擬詠懐二十七首 詠懐に擬す 二十七首
其三 其の三
爼豆非所習 爼豆(そとう)は習(なら)う所に非(あら)ず
帷幄復無謀 帷幄(いあく)は復(ま)た謀(はか)ること無し
不言班定遠 言(おも)わず 班定遠(はんていえん)のごとく
応為万里侯 応(まさ)に万里の侯(こう)に為(な)るべしと
燕客思遼水 燕客(えんきゃく)は遼水(りょうすい)を思い
秦人望隴頭 秦人(しんひと)は隴頭(ろうとう)を望む
倡家遭強聘 倡家(しょうか) 強聘(きょうへい)に遭(あ)い
質子値仍留 質子(しつし) 仍(な)お留(とど)めらるるに値(あ)う
自憐才智尽 自ら才智(さいち)の尽(つ)くるを憐(あわ)れみ
空傷年鬢秋 空(むな)しく年鬢(ねんびん)の秋を傷(いた)むのみ
⊂訳⊃
私は政事のことに暗く
軍事の才能もない
だからあの班超のように
定遠侯になろうとは思わない
燕から来た旅人は 故郷の川を思い
秦から来た人は 故郷の山を懐かしむ
妓楼の女のように 無理に招かれ
人質のように 止め置かれる
このようにして 才智の尽きるのを悲しみ
むなしく老いて 白髪になるのを嘆くのだ
⊂ものがたり⊃ 梁の武帝は三十九歳のときに国を建て、在位は四十八年にわたります。政事は安定し、経済も発展し、都建康には堂塔伽藍が立ち並びました。ところが治世の半ばごろから仏教を篤く信仰するようになり、六十三歳のときから八十四歳までの間に四度も捨身を行いました。
捨身というのは仏寺に投じて仏に仕えることですが、皇帝が寺に行ってしまっては政事が成り立ちません。群臣は仏寺に多額の喜捨をして皇宮への帰還を請願するありさまでした。
そのころ北朝の北魏は、十年に及ぶ混乱のあと東西に分裂していました。梁は東魏と和平条約を結んでいましたが、東魏に内紛が起こり、有力武将の侯景(こうけい)が梁に帰属を求めてきました。
梁は侯景の申し出を受け入れ、侯景を河南王に封じて後援します。反対する東魏は兵を出し、梁と侯景の連合軍は破れて敗走します。窮鼠猫を咬むといいますが、寿春(安徽省寿県)に逃げ帰った侯景は、梁が東魏と和睦して自分を東魏に引き渡すのではないかと恐れ、兵を率いて梁都建康に攻め寄せて来ました。
地方の貧窮の民が合流したため侯景の軍は大軍となり、梁都は四か月の籠城の末に陥落します。八十六歳の武帝は侯景に捕えられ、二か月後に憤死します。梁都を占領した侯景は大宝二年(551)に即位して漢帝を称しますが、荊州(湖北省江陵県)の王僧弁(おうそうべん)の軍と広州(広東省広州市)の陳覇先(ちんはせん)の軍に攻められて滅びます。史上「侯景の乱」と称される動乱は終了しますが、都建康は荒れ果ててしまいました。
そのころ四十一歳になっていた庾信は、梁の使者として西魏の長安に赴きます。ところが、長安滞在中に西魏が滅んで北周になるという政変に遭遇し、長安に抑留されてしまいます。そのとき梁でも、実力者の陳覇先が梁の敬帝に禅譲をせまって陳王朝が成立します。そのため、庾信は故郷に帰ることができなくなりました。
そのご、庾信は知識人としての教養を認められて北周に仕えるようになり、以後、望郷の思いを詩につづるようになります。杜甫が高く評価するのは、北朝に仕えるようになってからの庾信の詩です。
詩題の「詠懐に擬す」は魏の阮籍(げんせき)の詠懐詩(2月23日のブログ参照)に倣うという意味ですが、政事的偽装でしょう。其の三の詩は四、四、二句に区分して読むことができ、はじめ四句の「爼豆」は祭事に用いる器のこと、政事を意味します。「帷幄」は天幕のことで軍事を指します。この二句は自分は政事にも軍事にも向いていないというのです。「班定遠」は西域制覇の功績で定遠侯に封ぜられた後漢の班超(はんちょう)のことです。自分は班超のような人物になろうとは思わないと詠います
つぎの四句では、燕の旅人や秦の人が故郷の川「遼水」や山「隴頭」を慕うのは当然のことといい、自分は故郷から引き離され、「倡家」(妓女を置く家)の女か「質子」(人質の子)のように無理やりに抑留されていると詠います。最後の二句は以上を総括して、自分の運命を嘆くのです。