明27ー李攀龍
寄元美二首 其二 元美に寄す 二首 其の二
漁陽烽火暗西山 漁陽(ぎょよう)の烽火(ほうか) 西山(せいざん)に暗し
一片征鴻海上還 一片(いっぺん)の征鴻(せいこう) 海上より還(かえ)る
多少胡笳吹不転 多少(たしょう)の胡笳(こか) 吹いて転ぜざるに
秋風先入薊門関 秋風(しゅうふう) 先(ま)ず入る 薊門関(けいもんかん)
⊂訳⊃
漁陽の狼煙が 西山の上に黒く立ち昇っているとき
一羽の渡鳥が 海上からはるばるとやってきた
至る所の胡笳の曲 その音色が変わらないうちに
秋風はひと足早く 居庸関に吹きわたる
⊂ものがたり⊃ 弘治十八年(1505)五月に孝宗が亡くなると、十四歳の皇太子朱厚照(しゅこうしょう)があとを継ぎ、武宗正徳帝の世となります。武宗は逸楽を好み奇行が多く、正徳五年(1510)に安化王の反乱をひき起こします。正徳十六年(1521)三月、三十一歳の若さでなくなり、孝宗の弟興献王の嗣子で十五歳の朱厚(しゅこうそう)が後嗣に立てられました。世宗嘉靖帝です。
世宗は大学士楊廷和(ようていわ)をもちいて内治に努めますが、やがて道教に熱中するようになり、政務をかえりみなくなりました。嘉靖四十五年(1566)十二月、六十歳の世宗は不老長寿の丹薬の飲みすぎで崩じ、皇太子朱載尹(しゅさいこう)が即位して穆宗隆慶帝となります。
穆宗は即位するや、隆慶元年(1567)に大学士張居正(ちょうきょせい)を起用して、武宗から世宗へと二代つづいた政事の乱れの立て直しに努めます。古文辞派の詩人で「後七子」とよばれる人々は武宗の後半から世宗のはじめにかけて生まれ、世宗の時代から穆宗・神宗の時代にかけて北京で活躍する詩人です。その代表と目されるのが李攀龍(りはんりゅう)と王世貞です。
李攀龍(1514ー1570)は歴城(山東省済南市)の人。武宗の正徳九年(1514)に生まれ、家は貧しかったのですが詩歌を好みました。世宗の嘉靖二十三年(1544)、三十一歳で進士に及第し、官は陝西提学副使、河南按察使などを歴任します。前七子につづく世代として復古主義をとなえ、「前漢よりの文、天宝より後の詩に見るべきものは無い」と主張しました。盛唐の詩を尊重する『唐詩選』の選者として名高いのですが、最近の研究では誤伝とする説が有力です。穆宗の隆慶四年(1570)になくなり、享年五十七歳でした。
詩題の「元美」(げんび)は詩友王世貞の字(あざな)で、「寄」は遠く離れた人に詩を贈ることです。王世貞が国境防衛軍の参謀として北の辺境に赴任したとき、都から贈った詩でしょう。はじめの二句で王世貞の着任を祝います。「漁陽」(河北省天津市付近)に「烽火」(のろし)が揚がるのは危険の報せです。そんなとき「一片の征鴻」は王世貞をさし、「海上」は海のほとりで、遠くから着任したことを意味します。この二句にはそれぞれ出典があり、白居易と張九齢の詩句を踏まえています。
後半の「胡笳」は異民族の笛。それが「転ぜざるに」というのは、状況がかわらないという意味でしょう。「薊門関」は北京の北にある居庸関のことで、情勢がかわらないまま居庸関に秋風が吹きはじめたと任地の友を思いやるのです。
寄元美二首 其二 元美に寄す 二首 其の二
漁陽烽火暗西山 漁陽(ぎょよう)の烽火(ほうか) 西山(せいざん)に暗し
一片征鴻海上還 一片(いっぺん)の征鴻(せいこう) 海上より還(かえ)る
多少胡笳吹不転 多少(たしょう)の胡笳(こか) 吹いて転ぜざるに
秋風先入薊門関 秋風(しゅうふう) 先(ま)ず入る 薊門関(けいもんかん)
⊂訳⊃
漁陽の狼煙が 西山の上に黒く立ち昇っているとき
一羽の渡鳥が 海上からはるばるとやってきた
至る所の胡笳の曲 その音色が変わらないうちに
秋風はひと足早く 居庸関に吹きわたる
⊂ものがたり⊃ 弘治十八年(1505)五月に孝宗が亡くなると、十四歳の皇太子朱厚照(しゅこうしょう)があとを継ぎ、武宗正徳帝の世となります。武宗は逸楽を好み奇行が多く、正徳五年(1510)に安化王の反乱をひき起こします。正徳十六年(1521)三月、三十一歳の若さでなくなり、孝宗の弟興献王の嗣子で十五歳の朱厚(しゅこうそう)が後嗣に立てられました。世宗嘉靖帝です。
世宗は大学士楊廷和(ようていわ)をもちいて内治に努めますが、やがて道教に熱中するようになり、政務をかえりみなくなりました。嘉靖四十五年(1566)十二月、六十歳の世宗は不老長寿の丹薬の飲みすぎで崩じ、皇太子朱載尹(しゅさいこう)が即位して穆宗隆慶帝となります。
穆宗は即位するや、隆慶元年(1567)に大学士張居正(ちょうきょせい)を起用して、武宗から世宗へと二代つづいた政事の乱れの立て直しに努めます。古文辞派の詩人で「後七子」とよばれる人々は武宗の後半から世宗のはじめにかけて生まれ、世宗の時代から穆宗・神宗の時代にかけて北京で活躍する詩人です。その代表と目されるのが李攀龍(りはんりゅう)と王世貞です。
李攀龍(1514ー1570)は歴城(山東省済南市)の人。武宗の正徳九年(1514)に生まれ、家は貧しかったのですが詩歌を好みました。世宗の嘉靖二十三年(1544)、三十一歳で進士に及第し、官は陝西提学副使、河南按察使などを歴任します。前七子につづく世代として復古主義をとなえ、「前漢よりの文、天宝より後の詩に見るべきものは無い」と主張しました。盛唐の詩を尊重する『唐詩選』の選者として名高いのですが、最近の研究では誤伝とする説が有力です。穆宗の隆慶四年(1570)になくなり、享年五十七歳でした。
詩題の「元美」(げんび)は詩友王世貞の字(あざな)で、「寄」は遠く離れた人に詩を贈ることです。王世貞が国境防衛軍の参謀として北の辺境に赴任したとき、都から贈った詩でしょう。はじめの二句で王世貞の着任を祝います。「漁陽」(河北省天津市付近)に「烽火」(のろし)が揚がるのは危険の報せです。そんなとき「一片の征鴻」は王世貞をさし、「海上」は海のほとりで、遠くから着任したことを意味します。この二句にはそれぞれ出典があり、白居易と張九齢の詩句を踏まえています。
後半の「胡笳」は異民族の笛。それが「転ぜざるに」というのは、状況がかわらないという意味でしょう。「薊門関」は北京の北にある居庸関のことで、情勢がかわらないまま居庸関に秋風が吹きはじめたと任地の友を思いやるのです。