明21ー王守仁
闕 題 闕 題
金山一点大如拳 金山(きんざん)一点 大なること拳(こぶし)の如し
打破維揚水底天 打破(だは)す 維揚(いよう) 水底(すいてい)の天(てん)
酔倚妙高台上月 酔(よ)うて倚(よ)る 妙高台上(みょうこうだいじょう)の月
玉簫吹徹洞龍眠 玉簫(ぎょくしょう) 吹徹(すいてつ)して 洞龍(どうりゅう)眠る
⊂訳⊃
金山の遠景は一点 握り拳の大きさだ
その金山が 長江の底をわって天に聳える
酔い心地で 妙高台上の月を眺めていると
簫の音は響き渡り 龍は洞窟で眠っている
⊂ものがたり⊃ 王守仁(おうしゅじん:1472ー1528)は余姚(浙江省余姚県)の人。陽明学の創始者「王陽明」として有名です。憲宗の成化八年(1472)に生まれ、父の王華(おうか)は成化十七年(1481)の科挙に状元(首席)で及第し南京吏部尚書に至りました。高級官僚の子として十歳のころから朱子学を学び、ひろく学問の世界を渉猟して南宋の思想家陸九淵(りくきゅうえん)の心学の影響をうけるようになります。
孝宗の弘治十二年(1499)、二十八歳で進士に及第し流入しますが、宦官劉瑾(りゅうきん)に反対する運動に加わり、龍場(貴州省)の駅丞に左遷されます。この流謫の生活のなかで三年間思索をつづけ、三十七歳のときに「龍場の頓悟」に至り、朱子学の「性即理」を「心即理」に転換します。そのご劉瑾の失脚によって都に復帰し、巡撫として江西や福建の農民反乱を鎮圧します。
武宗の正徳十四年(1519)に寧王李宸濠(りしんごう)の反乱を平定し、軍事的行政的な手腕によって南京兵部尚書に任ぜられ、官僚として充分な活動をしながら自己の新しい哲学を築きます。正徳十五年(1520)、四十九歳のときに人の心の本体を「良知」と規定し、人の行為が良知から離れるときに悪が生じると主張。ここから実践的な哲学である「知行合一」の思想が生まれます。
王守仁は前七子の時代の自由な気風のなか、朱子学的な精神修養よりも内面の「良知・良心」の自然なあらわれを尊重し、実践こそが貴いと主張しました。詩人としてははじめ古文辞派に属していましたが、自己の新しい儒学を確立するにしたがって古文辞派の擬古主義にあきたらず、個性尊重の方向をうちだします。晩年に陽明洞に室を定めたことから王陽明と称され、世宗の嘉靖七年(1528)になくなりました。享年五十七歳でした。
詩題に「闕題」(けつだい)とあり、もと無題であった作品に後人が注したものでしょう。十一歳のとき祖父に連れられて潤州(江蘇省鎮江市)の金山に遊んだときの作とされていますが、いずれにしろ若いころの作品です。「金山」は潤州の街の西北、長江の江心にあった海抜六十㍍の島です。島にある金山寺(通称)は江南屈指の巨刹でした。
はじめの二句は金山の描写。「金山一点」については中唐の竇庠(とうしょう)の詩「金山寺」に「一点の青螺(せいら) 白浪の中」の句があります。金山も遠くからみると大きな拳のようだが、長江の底を割って天に聳えると豪快に詠います。「維揚」は揚州の別名で、そこを流れる長江も意味します。
後半は金山にある「妙高台」(物見台の名)での感懐です。酔って台上の月を眺め、簫の音が流れるのを聞きますが、洞窟には龍が眠っているといいます。金山に白龍洞という洞窟があるのにかけた表現であり、自分を雌伏する龍に喩えて将来を期する心を詠っていると解釈できるでしょう。
明22ー王守仁
山中示諸生 山中にて諸生に示す
渓辺坐流水 渓辺(けいへん) 流水(りゅうすい)に坐せば
水流心共閑 水流(すいりゅう) 心と共に閑(かん)なり
不知山月上 知らず 山月(さんげつ)の上るを
松影落衣斑 松影(しょうえい) 衣(ころも)に落ちて斑(まだら)なり
⊂訳⊃
谷川のほとり 流れをまえに静坐すれば
水の流れは 心に和して静かである
いつのまにか 山上に月が昇り
松影は衣に落ちて まだら模様になっている
⊂ものがたり⊃ 詩題に「山中(さんちゅう)にて諸生に示す」とありますので、弟子たちにしめした作品でしょう。学者・思想家としての名も高まり、山中に道場を開いていたころの作と思われます。はじめの二句で谷川の流れをまえにして静坐していると、雑念を拭い去って静かな境地になると詠います。後半二句は詩的感興で、いつのまにか山上に月が昇り、松の木の影が衣に落ちてまだら模様を描いていると自然との合一を示唆します。禅的な境地をしめしており、擬古主義から抜けだした境地といえます。(2016.6.25)
闕 題 闕 題
金山一点大如拳 金山(きんざん)一点 大なること拳(こぶし)の如し
打破維揚水底天 打破(だは)す 維揚(いよう) 水底(すいてい)の天(てん)
酔倚妙高台上月 酔(よ)うて倚(よ)る 妙高台上(みょうこうだいじょう)の月
玉簫吹徹洞龍眠 玉簫(ぎょくしょう) 吹徹(すいてつ)して 洞龍(どうりゅう)眠る
⊂訳⊃
金山の遠景は一点 握り拳の大きさだ
その金山が 長江の底をわって天に聳える
酔い心地で 妙高台上の月を眺めていると
簫の音は響き渡り 龍は洞窟で眠っている
⊂ものがたり⊃ 王守仁(おうしゅじん:1472ー1528)は余姚(浙江省余姚県)の人。陽明学の創始者「王陽明」として有名です。憲宗の成化八年(1472)に生まれ、父の王華(おうか)は成化十七年(1481)の科挙に状元(首席)で及第し南京吏部尚書に至りました。高級官僚の子として十歳のころから朱子学を学び、ひろく学問の世界を渉猟して南宋の思想家陸九淵(りくきゅうえん)の心学の影響をうけるようになります。
孝宗の弘治十二年(1499)、二十八歳で進士に及第し流入しますが、宦官劉瑾(りゅうきん)に反対する運動に加わり、龍場(貴州省)の駅丞に左遷されます。この流謫の生活のなかで三年間思索をつづけ、三十七歳のときに「龍場の頓悟」に至り、朱子学の「性即理」を「心即理」に転換します。そのご劉瑾の失脚によって都に復帰し、巡撫として江西や福建の農民反乱を鎮圧します。
武宗の正徳十四年(1519)に寧王李宸濠(りしんごう)の反乱を平定し、軍事的行政的な手腕によって南京兵部尚書に任ぜられ、官僚として充分な活動をしながら自己の新しい哲学を築きます。正徳十五年(1520)、四十九歳のときに人の心の本体を「良知」と規定し、人の行為が良知から離れるときに悪が生じると主張。ここから実践的な哲学である「知行合一」の思想が生まれます。
王守仁は前七子の時代の自由な気風のなか、朱子学的な精神修養よりも内面の「良知・良心」の自然なあらわれを尊重し、実践こそが貴いと主張しました。詩人としてははじめ古文辞派に属していましたが、自己の新しい儒学を確立するにしたがって古文辞派の擬古主義にあきたらず、個性尊重の方向をうちだします。晩年に陽明洞に室を定めたことから王陽明と称され、世宗の嘉靖七年(1528)になくなりました。享年五十七歳でした。
詩題に「闕題」(けつだい)とあり、もと無題であった作品に後人が注したものでしょう。十一歳のとき祖父に連れられて潤州(江蘇省鎮江市)の金山に遊んだときの作とされていますが、いずれにしろ若いころの作品です。「金山」は潤州の街の西北、長江の江心にあった海抜六十㍍の島です。島にある金山寺(通称)は江南屈指の巨刹でした。
はじめの二句は金山の描写。「金山一点」については中唐の竇庠(とうしょう)の詩「金山寺」に「一点の青螺(せいら) 白浪の中」の句があります。金山も遠くからみると大きな拳のようだが、長江の底を割って天に聳えると豪快に詠います。「維揚」は揚州の別名で、そこを流れる長江も意味します。
後半は金山にある「妙高台」(物見台の名)での感懐です。酔って台上の月を眺め、簫の音が流れるのを聞きますが、洞窟には龍が眠っているといいます。金山に白龍洞という洞窟があるのにかけた表現であり、自分を雌伏する龍に喩えて将来を期する心を詠っていると解釈できるでしょう。
明22ー王守仁
山中示諸生 山中にて諸生に示す
渓辺坐流水 渓辺(けいへん) 流水(りゅうすい)に坐せば
水流心共閑 水流(すいりゅう) 心と共に閑(かん)なり
不知山月上 知らず 山月(さんげつ)の上るを
松影落衣斑 松影(しょうえい) 衣(ころも)に落ちて斑(まだら)なり
⊂訳⊃
谷川のほとり 流れをまえに静坐すれば
水の流れは 心に和して静かである
いつのまにか 山上に月が昇り
松影は衣に落ちて まだら模様になっている
⊂ものがたり⊃ 詩題に「山中(さんちゅう)にて諸生に示す」とありますので、弟子たちにしめした作品でしょう。学者・思想家としての名も高まり、山中に道場を開いていたころの作と思われます。はじめの二句で谷川の流れをまえにして静坐していると、雑念を拭い去って静かな境地になると詠います。後半二句は詩的感興で、いつのまにか山上に月が昇り、松の木の影が衣に落ちてまだら模様を描いていると自然との合一を示唆します。禅的な境地をしめしており、擬古主義から抜けだした境地といえます。(2016.6.25)