明15ー李夢望
秋 望 秋 望
黄河水繞漢宮牆 黄河(こうが) 水は繞(めぐ)る 漢宮(かんきゅう)の牆(しょう)
河上秋風雁幾行 河上(かじょう) 秋風(しゅうふう) 雁(がん) 幾行(いくこう)
客子過濠追野馬 客子(かくし) 濠(ほり)を過ぎて野馬(やば)を追い
将軍鞱箭射天狼 将軍 箭(や)を鞱(おさ)めて天狼(てんろう)を射る
黄塵古渡迷飛挽 黄塵(こうじん) 古渡(こと) 飛挽(ひばん)迷い
白月横空冷戦場 白月(はくげつ) 空(くう)を横ぎって戦場(せんじょう)冷(ひや)やかなり
聞道朔方多勇略 聞道(きくなら)く 朔方(さくほう) 勇略(ゆうりゃく)多しと
只今誰是郭汾陽 只(た)だ今 誰(たれ)か是(こ)れ 郭汾陽(かくふんよう)
⊂訳⊃
黄河の水は 長安の城をめぐって流れ
川面をわたる秋の風 南へかえる雁の群れ
兵たちは濠を渡って 野生の馬を追い
将軍は弓矢を携えて 天狼星を射ぬく
黄砂の舞う渡し場で 荷役は慌ただしくうごき
白い月は空を横切り 戦場を冷たく照らす
朔北の地では昔から 勇ましい策戦がおこなわれた
さて 今の世の郭将軍となるのは誰であろうか
⊂ものがたり⊃ 憲宗成化帝の時代に明は安定期を迎えました。成化二十三年(1487)八月、憲宗が在位二十四年で崩じると、皇太子が即位して孝宗弘治帝となります。孝宗は中興の英主とうたわれ、宦官の政事介入を排除して詩文も興隆の時代を迎えます。
李東陽は杜甫を尊崇し、「台閣体」の詩を改革して茶陵派を形成しましたが、高官であったこともあり、詩風は穏健でした。茶陵派の穏健な詩風に反発して起こった文学革新運動が「古文辞派」(擬古派ともいいます)ですが、李東陽が唐代の詩を重んじる復古主義であった点では古文辞派の先駆者ともいえます。古文辞派は「文は必ず秦・漢、詩は必ず盛唐」と提唱し、李白・杜甫に代表される盛唐の詩を重んじました。
古文辞派のうち憲宗の成化年間に生まれ、孝宗の時代からつぎの武宗の時代に活躍する詩人を「前七子」といいます。七子とは七人の詩人のことですが、その代表と目されるのは李夢陽(りぼうよう)と何景明です。
李夢陽(1473ー1530)は慶陽(甘粛省慶陽県)の人。憲宗の成化九年(1473)に生まれ、孝宗の弘治六年(1493)、二十歳で進士に及第して戸部主事になります。剛直な性格で、しばしば権門の上司や同僚と対立し、下獄や免官をくりかえしました。官は江西提学副使にとどまり、世宗の嘉靖九年(1530)になくなります。享年五十八歳でした。
詩題の「秋望」(しゅうぼう)は秋の眺めという意味です。杜甫に「春望」があるのを思わせますが内容は異なります。孝宗の弘治十三年(1500)、二十八歳のときに辺境守備の陣地を訪れ、宴会の席で披露した作品と思われます。はじめの二句で黄河の役割を大きく描きます。「漢宮」は長安の都をさすので、ここでの「黃河」は河套(オルドス)をめぐる黄河で、秋空を南へ飛んでいく雁の群れを描きます。
中四句は辺塞の描写です。はじめ二句の「客子」は遠征の兵士のことで、城外に野生の馬を追って騎馬の訓練をしているのでしょう。将軍は弓矢を携えて「天狼を射る」、「天狼」は星の名で、異民族が攻めてくる兆しとされていました。それを射ぬくのですから異民族(ここではモンゴル)を討伐する意味になります。
つぎの二句は前線の兵站をになう渡し場のようすです。「飛挽」は荷役の者が慌ただしく働いているようすで、夜になれば「白月」(明るく輝く月)が戦場を冷たく照らしています。結びの二句は励ましの言葉でしょう。「郭汾陽」は安史の乱のときに活躍した郭子儀(かくしぎ)のことで、功により汾陽郡王に封じられました。つまり誰が国を守る名将軍になるのかと期待をしめす結びであり、前途有為の若者の詩を思わせます。
秋 望 秋 望
黄河水繞漢宮牆 黄河(こうが) 水は繞(めぐ)る 漢宮(かんきゅう)の牆(しょう)
河上秋風雁幾行 河上(かじょう) 秋風(しゅうふう) 雁(がん) 幾行(いくこう)
客子過濠追野馬 客子(かくし) 濠(ほり)を過ぎて野馬(やば)を追い
将軍鞱箭射天狼 将軍 箭(や)を鞱(おさ)めて天狼(てんろう)を射る
黄塵古渡迷飛挽 黄塵(こうじん) 古渡(こと) 飛挽(ひばん)迷い
白月横空冷戦場 白月(はくげつ) 空(くう)を横ぎって戦場(せんじょう)冷(ひや)やかなり
聞道朔方多勇略 聞道(きくなら)く 朔方(さくほう) 勇略(ゆうりゃく)多しと
只今誰是郭汾陽 只(た)だ今 誰(たれ)か是(こ)れ 郭汾陽(かくふんよう)
⊂訳⊃
黄河の水は 長安の城をめぐって流れ
川面をわたる秋の風 南へかえる雁の群れ
兵たちは濠を渡って 野生の馬を追い
将軍は弓矢を携えて 天狼星を射ぬく
黄砂の舞う渡し場で 荷役は慌ただしくうごき
白い月は空を横切り 戦場を冷たく照らす
朔北の地では昔から 勇ましい策戦がおこなわれた
さて 今の世の郭将軍となるのは誰であろうか
⊂ものがたり⊃ 憲宗成化帝の時代に明は安定期を迎えました。成化二十三年(1487)八月、憲宗が在位二十四年で崩じると、皇太子が即位して孝宗弘治帝となります。孝宗は中興の英主とうたわれ、宦官の政事介入を排除して詩文も興隆の時代を迎えます。
李東陽は杜甫を尊崇し、「台閣体」の詩を改革して茶陵派を形成しましたが、高官であったこともあり、詩風は穏健でした。茶陵派の穏健な詩風に反発して起こった文学革新運動が「古文辞派」(擬古派ともいいます)ですが、李東陽が唐代の詩を重んじる復古主義であった点では古文辞派の先駆者ともいえます。古文辞派は「文は必ず秦・漢、詩は必ず盛唐」と提唱し、李白・杜甫に代表される盛唐の詩を重んじました。
古文辞派のうち憲宗の成化年間に生まれ、孝宗の時代からつぎの武宗の時代に活躍する詩人を「前七子」といいます。七子とは七人の詩人のことですが、その代表と目されるのは李夢陽(りぼうよう)と何景明です。
李夢陽(1473ー1530)は慶陽(甘粛省慶陽県)の人。憲宗の成化九年(1473)に生まれ、孝宗の弘治六年(1493)、二十歳で進士に及第して戸部主事になります。剛直な性格で、しばしば権門の上司や同僚と対立し、下獄や免官をくりかえしました。官は江西提学副使にとどまり、世宗の嘉靖九年(1530)になくなります。享年五十八歳でした。
詩題の「秋望」(しゅうぼう)は秋の眺めという意味です。杜甫に「春望」があるのを思わせますが内容は異なります。孝宗の弘治十三年(1500)、二十八歳のときに辺境守備の陣地を訪れ、宴会の席で披露した作品と思われます。はじめの二句で黄河の役割を大きく描きます。「漢宮」は長安の都をさすので、ここでの「黃河」は河套(オルドス)をめぐる黄河で、秋空を南へ飛んでいく雁の群れを描きます。
中四句は辺塞の描写です。はじめ二句の「客子」は遠征の兵士のことで、城外に野生の馬を追って騎馬の訓練をしているのでしょう。将軍は弓矢を携えて「天狼を射る」、「天狼」は星の名で、異民族が攻めてくる兆しとされていました。それを射ぬくのですから異民族(ここではモンゴル)を討伐する意味になります。
つぎの二句は前線の兵站をになう渡し場のようすです。「飛挽」は荷役の者が慌ただしく働いているようすで、夜になれば「白月」(明るく輝く月)が戦場を冷たく照らしています。結びの二句は励ましの言葉でしょう。「郭汾陽」は安史の乱のときに活躍した郭子儀(かくしぎ)のことで、功により汾陽郡王に封じられました。つまり誰が国を守る名将軍になるのかと期待をしめす結びであり、前途有為の若者の詩を思わせます。