明14ー李東陽
游岳麓寺 岳麓寺に游ぶ
危峰高瞰楚江干 危峰(きほう) 高く瞰(み)る 楚江(そこう)の干(ほとり)
路在羊腸第幾盤 路は羊腸(ようちょう) 第幾盤(だいいくばん)にか在る
万樹松杉双径合 万樹(ばんじゅ)の松杉(しょうさん) 双径(そうけい)合し
四面風雨一僧寒 四面の風雨 一僧(いつそう)寒からん
平沙浅草連天遠 平沙(へいさ) 浅草(せんそう) 天に連なって遠く
落日孤城隔水看 落日(らくじつ) 孤城(こじょう) 水を隔てて看(み)る
薊北湘南倶入眼 薊北(けいほく) 湘南(しょうなん) 倶(とも)に眼(まなこ)に入り
鷓鴣声裏独凭欄 鷓鴣声裏(しゃこせいり) 独り欄(らん)に凭(よ)る
⊂訳⊃
聳える峰 高みから湘江の岸辺をみおろす
路はうねうねとつづき 何番目の曲がり角だろうか
松や杉の繁る林のなか ふたつの径はあわさり
一面の風雨のなかを 僧がひとり寒そうに歩いてきた
平らな砂浜に連なる草 天の果てまでひろがり
夕陽に映える城郭が 流れのむこうに望まれる
北の燕京 湖南の故郷 ともに私の目の前にあり
鷓鴣の声を聞きながら ひとり欄干に寄りかかる
⊂ものがたり⊃ 憲宗即位の天順八年(1464)は明建国の洪武元年(1368)から数えておよそ百年です。その間、高啓なきあとの江南では詩は民間の趣味人のものとなり、河北では宮廷の知識人を中心に「台閣体」が行われていました。憲宗の時代になって宮廷の知識人に詩の不毛の時代を打破して本来の姿にもどそうとする動きがでてきます。その先駆者が李東陽(りとうよう)です。
李東陽(1447―1516)は茶陵(湖南省)の人。英宗の正統十二年(1447)に北京で生まれます。茶陵は本貫の地で、早くから北京に住み、父親も高官でした。英宗の天順七年(1463)、憲宗即位の前年に十七歳で進士に及第し、要職を歴任します。
憲宗の成化年間(1465―1487)から孝宗の弘治年間(1488―1505)に詩壇の指導的な地位にあり、「台閣体」の詩の改革を唱えます。その流派を出身地にちなんで「茶陵派」(さりょうは)といいます。官は礼部尚書兼文淵閣大学士に至り、武宗の正徳十一年(1516)になくなります。享年六十九歳です。
詩題の「岳麓寺」(がくろくじ)は潭州(湖南省長沙市)にある名刹です。湘江左岸(西岸)の岳麓山上にあり、対岸に湘州城を望む地です。憲宗の成化八年(1472)、二十六歳のとき、父親とともにはじめて湖南の故郷に帰り、旅の感懐を詠いました。
はじめ二句の「楚江」は湘江のことです。岳麓山の山路を幾曲がりしながら楚の川湘江の岸辺をみおろします。中四句のはじめ二句は岳麓寺についたところ。雨風のなか僧が寒そうに出迎えてくれました。つぎの二句は岳麓寺からの眺めです。湘江の「平沙浅草」が遠くまでつらなり、対岸には夕陽に映える湘州城(長沙城)が望まれます。
最後の二句は結びの感懐です。都の「薊北」と「湘南」の故郷がともに目の前にあるような心地がして、心が引き裂かれたまま欄干に凭れて「鷓鴣」の鳴き声を聞いています。全体としてスケールの大きな風景を描いており、唐詩の趣を備えています。
游岳麓寺 岳麓寺に游ぶ
危峰高瞰楚江干 危峰(きほう) 高く瞰(み)る 楚江(そこう)の干(ほとり)
路在羊腸第幾盤 路は羊腸(ようちょう) 第幾盤(だいいくばん)にか在る
万樹松杉双径合 万樹(ばんじゅ)の松杉(しょうさん) 双径(そうけい)合し
四面風雨一僧寒 四面の風雨 一僧(いつそう)寒からん
平沙浅草連天遠 平沙(へいさ) 浅草(せんそう) 天に連なって遠く
落日孤城隔水看 落日(らくじつ) 孤城(こじょう) 水を隔てて看(み)る
薊北湘南倶入眼 薊北(けいほく) 湘南(しょうなん) 倶(とも)に眼(まなこ)に入り
鷓鴣声裏独凭欄 鷓鴣声裏(しゃこせいり) 独り欄(らん)に凭(よ)る
⊂訳⊃
聳える峰 高みから湘江の岸辺をみおろす
路はうねうねとつづき 何番目の曲がり角だろうか
松や杉の繁る林のなか ふたつの径はあわさり
一面の風雨のなかを 僧がひとり寒そうに歩いてきた
平らな砂浜に連なる草 天の果てまでひろがり
夕陽に映える城郭が 流れのむこうに望まれる
北の燕京 湖南の故郷 ともに私の目の前にあり
鷓鴣の声を聞きながら ひとり欄干に寄りかかる
⊂ものがたり⊃ 憲宗即位の天順八年(1464)は明建国の洪武元年(1368)から数えておよそ百年です。その間、高啓なきあとの江南では詩は民間の趣味人のものとなり、河北では宮廷の知識人を中心に「台閣体」が行われていました。憲宗の時代になって宮廷の知識人に詩の不毛の時代を打破して本来の姿にもどそうとする動きがでてきます。その先駆者が李東陽(りとうよう)です。
李東陽(1447―1516)は茶陵(湖南省)の人。英宗の正統十二年(1447)に北京で生まれます。茶陵は本貫の地で、早くから北京に住み、父親も高官でした。英宗の天順七年(1463)、憲宗即位の前年に十七歳で進士に及第し、要職を歴任します。
憲宗の成化年間(1465―1487)から孝宗の弘治年間(1488―1505)に詩壇の指導的な地位にあり、「台閣体」の詩の改革を唱えます。その流派を出身地にちなんで「茶陵派」(さりょうは)といいます。官は礼部尚書兼文淵閣大学士に至り、武宗の正徳十一年(1516)になくなります。享年六十九歳です。
詩題の「岳麓寺」(がくろくじ)は潭州(湖南省長沙市)にある名刹です。湘江左岸(西岸)の岳麓山上にあり、対岸に湘州城を望む地です。憲宗の成化八年(1472)、二十六歳のとき、父親とともにはじめて湖南の故郷に帰り、旅の感懐を詠いました。
はじめ二句の「楚江」は湘江のことです。岳麓山の山路を幾曲がりしながら楚の川湘江の岸辺をみおろします。中四句のはじめ二句は岳麓寺についたところ。雨風のなか僧が寒そうに出迎えてくれました。つぎの二句は岳麓寺からの眺めです。湘江の「平沙浅草」が遠くまでつらなり、対岸には夕陽に映える湘州城(長沙城)が望まれます。
最後の二句は結びの感懐です。都の「薊北」と「湘南」の故郷がともに目の前にあるような心地がして、心が引き裂かれたまま欄干に凭れて「鷓鴣」の鳴き声を聞いています。全体としてスケールの大きな風景を描いており、唐詩の趣を備えています。