明13ー沈周
梔子花詩 梔子花の詩
雪魄氷花涼気清 雪魄(せっぱく)の氷花(ひょうか) 涼気(りょうき)清らかなり
曲欄深処艶神精 曲欄(きょくらん) 深き処(ところ) 艶(えん)にして神精(しんせい)
一鉤新月風牽影 一鉤(いっこう)の新月 風 影を牽(ひ)き
暗送嬌香入画庭 暗(あん)に嬌香(きょうこう)を送って 画庭(がてい)に入らしむ
⊂訳⊃
雪のような白い花 さわやかで清々しい
連なる欄干の奥に 精妙な姿で咲きほこる
釣針のような新月 風は花影を揺りうごかし
絵のような中庭に よい香りを送りとどける
⊂ものがたり⊃ 宣宗が治世一年で崩じると、九歳の太子が即位して英宗になります。幼帝を囲んで次第に宦官が勢力を強め、王振(おうしん)が寵用されて司礼監太監になります。王振は交易のことでモンゴルと対立し、英宗の親征を強行、「土木の変」を引き起こします。英宗がモンゴルの捕虜となったのです。
于謙は郕王(英宗の異母弟)を立てて景宗とし王振の一派を誅殺します。そしてモンゴル軍と戦いますが講和します。ところが、帰還してきた上皇英宗とわだかまりを生じ、やがて景宗が重病に罹ると、景泰八年(1457)正月、反于謙の宦官らはクーデターを起こし、英宗復位の挙にでました。景宗は病死し、于謙は捕らえられて死刑に処せられます。史上「奪門の変」とよばれる政変です。
復位した英宗天順帝は実権を宦官に握られ、成すところなく在位七年で崩じ、皇太子朱見深(しゅけんしん)が即位して憲宗成化帝になります。憲宗の時代に万里の長城の修築が開始され、工事は百年間にわたってつづくことになるのです。
華北で詩の不毛の時代がつづくなか、江南では市民による詩がつくりつづけられていました。都市や農村の富裕層が詩会などを通じて交流する催しがさかんになり、書画にも通じた文人が詩作の主な担い手でした。この時代の江南詩人に沈周(ちんしゅう)がいます。
沈周(1427―1509)は長洲(江蘇省蘇州市)の人。宣宗の宣徳二年(1427)に生まれ、憲宗が即位した天順八年(1468)には三十八歳になっていました。賢良をもって推挙されますが出仕せず、郷里で生活します。詩文書画に才能を発揮し、なかでも画は唐寅・文徴明・仇英とならんで「明四家」と称されます。武宗の正徳四年(1509)になくなり、享年八十三歳です。
詩題の「梔子花」(ししか)はくちなしの花のことです。「曲欄 深き処」、つまり屋敷の中庭の奥まったところに咲いている梔子の花を詠います。「雪魄」は雪の魂魄のことで、雪の精が舞い降りたような純白の花を咲かせているのです。見上げると空には釣針のように細い新月がかかり、夜風が吹いて、よい香りを「画庭」(山水画のように築かれた中庭)にゆき渡らせていると、巧みな比喩を駆使して繊細な詩情を詠いあげます。
梔子花詩 梔子花の詩
雪魄氷花涼気清 雪魄(せっぱく)の氷花(ひょうか) 涼気(りょうき)清らかなり
曲欄深処艶神精 曲欄(きょくらん) 深き処(ところ) 艶(えん)にして神精(しんせい)
一鉤新月風牽影 一鉤(いっこう)の新月 風 影を牽(ひ)き
暗送嬌香入画庭 暗(あん)に嬌香(きょうこう)を送って 画庭(がてい)に入らしむ
⊂訳⊃
雪のような白い花 さわやかで清々しい
連なる欄干の奥に 精妙な姿で咲きほこる
釣針のような新月 風は花影を揺りうごかし
絵のような中庭に よい香りを送りとどける
⊂ものがたり⊃ 宣宗が治世一年で崩じると、九歳の太子が即位して英宗になります。幼帝を囲んで次第に宦官が勢力を強め、王振(おうしん)が寵用されて司礼監太監になります。王振は交易のことでモンゴルと対立し、英宗の親征を強行、「土木の変」を引き起こします。英宗がモンゴルの捕虜となったのです。
于謙は郕王(英宗の異母弟)を立てて景宗とし王振の一派を誅殺します。そしてモンゴル軍と戦いますが講和します。ところが、帰還してきた上皇英宗とわだかまりを生じ、やがて景宗が重病に罹ると、景泰八年(1457)正月、反于謙の宦官らはクーデターを起こし、英宗復位の挙にでました。景宗は病死し、于謙は捕らえられて死刑に処せられます。史上「奪門の変」とよばれる政変です。
復位した英宗天順帝は実権を宦官に握られ、成すところなく在位七年で崩じ、皇太子朱見深(しゅけんしん)が即位して憲宗成化帝になります。憲宗の時代に万里の長城の修築が開始され、工事は百年間にわたってつづくことになるのです。
華北で詩の不毛の時代がつづくなか、江南では市民による詩がつくりつづけられていました。都市や農村の富裕層が詩会などを通じて交流する催しがさかんになり、書画にも通じた文人が詩作の主な担い手でした。この時代の江南詩人に沈周(ちんしゅう)がいます。
沈周(1427―1509)は長洲(江蘇省蘇州市)の人。宣宗の宣徳二年(1427)に生まれ、憲宗が即位した天順八年(1468)には三十八歳になっていました。賢良をもって推挙されますが出仕せず、郷里で生活します。詩文書画に才能を発揮し、なかでも画は唐寅・文徴明・仇英とならんで「明四家」と称されます。武宗の正徳四年(1509)になくなり、享年八十三歳です。
詩題の「梔子花」(ししか)はくちなしの花のことです。「曲欄 深き処」、つまり屋敷の中庭の奥まったところに咲いている梔子の花を詠います。「雪魄」は雪の魂魄のことで、雪の精が舞い降りたような純白の花を咲かせているのです。見上げると空には釣針のように細い新月がかかり、夜風が吹いて、よい香りを「画庭」(山水画のように築かれた中庭)にゆき渡らせていると、巧みな比喩を駆使して繊細な詩情を詠いあげます。