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ティェンタオの自由訳漢詩 明ー于謙

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 明11ー于謙 
     詠石灰                石灰を詠ず

  千鎚万鑿出深山   千鎚万鑿(せんついばんさく)  深山(しんざん)より出(い)づ
  烈火焚焼若等閑   烈火の焚焼(ふんしょう)     等閑(とうかん)の若(ごと)し
  粉骨砕身渾不怕   粉骨砕身(ふんこつさいしん)  渾(すべ)て怕(おそ)れず
  要留清白在人間   要(かなら)ず清白(せいはく)を留めて  人間(じんかん)に在(あ)らしめん

  ⊂訳⊃
          叩かれ穿たれて  山の奥から掘りだされる

          炎に焼かれるが  気にしない

          粉骨砕身も     恐れることなく

          清く正しい姿で   この世にいつづけようではないか


 ⊂ものがたり⊃ 明建国の性格については歴史書によってもらいたいと思いますが、朱元璋政権の中枢は地主階級によって支えられ、伝統的な王朝復活への志向を持っていました。盟主の朱元璋だけが貧農の出身でしたので、洪武帝は内治をととのえると、自己への権力の集中にとりかかります。「古惟庸の獄」はそのはじまりです。つづく「藍玉の獄」によって建国の功臣のほとんどは粛清され、かわりに宗族の諸王が要所に分封されます。
 なかでも最大の勢力は燕王朱棣(しゅてい)でした。洪武帝は長子を皇太子に立てていましたが、皇太子が病没すると皇孫の朱允炆(しゅいんぶん)を皇位継承者に定めます。洪武三十一年(1398)に太祖洪武帝が七十一年の生涯を閉じると、二代皇帝朱允炆(恵帝)は叔父にあたる諸王の権力を削ごうとします。
 建文元年(1399)、燕王朱棣は北平府(北京市)で兵をあげ、内戦は四年間にわたってつづき、恵帝(建文帝ともいう)は応天府に火を放って自殺します。史上「靖難の変」と称される政変です。燕王朱棣は即位して永楽帝となり、翌年正月をもって永楽元年(1403)とします。つづいて五回にわたってモンゴルへ親征し、鄭和(ていわ)に命じて南海への大航海をおこない、巨大な通商国家をつくりあげます。
 国家体制がととのうなか、行政をになう文官の制度もととのい、進士出身の文官によって詩が作られるようになります。その詩は「台閣体」とよばれ、北宋初期の「西崑体」の亞流ともいうべき技巧本位のものでした。社会へ目をむける詩人があらわれのは、永楽帝の孫宣宗の時代になってからで、于謙(うけん)は詩人というよりも政事家として歴史に名をとどめています。
 于謙(1398―1457)は銭塘(浙江省杭州市)の人。恵帝の洪武三十一年(1398)、洪武帝の崩じた年に生まれました。若くして志高く、成祖の永楽十九年(1421)に二十四歳で進士に及第します。宣宗の宣徳元年(1428)八月、漢王李高煦の乱に際しては親征に従軍します。監察御史をへて宣徳五年(1430)に兵部右侍郎になり、河南や山西の巡撫として民臣の把握に努めました。英宗の正統十四年(1449)七月、モンゴル軍の侵攻に際し、王振(おうしん)の親征論に反対して獄に投じられますがほどなく釈放されます。「土木の変」が起こるや、景宗を擁立して難局を乗りきります。しかし、天順元年(1457)正月に「奪門の変」がおこり、英宗が復位すると、景宗擁立の罪を問われて処刑されました。享年六十歳です。
 詩は「石灰」(せっかい)を題材とした詠物詩です。永楽七年(1409)、十二歳のときに作った作品で、人生への抱負をのべます。はじめの二句で石灰岩が山から切りだされ、砕かれ炎に焼かれて真っ白な石灰になる過程を描きます。後半の二句はその石灰になぞらえて、たとえ自分は「粉骨碎身」されようとも、清く純白な姿をとどめて人の世を生きていくと覚悟をのべます。

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