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ティェンタオの自由訳漢詩 1883

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 初唐23ー杜審言
   送崔融              崔融を送る

  君王行出将     君王(くんのう)  行(まさ)に出(い)でて将(しょう)たり
  書記遠従征     書記(しょき)   遠く征(せい)に従う
  租帳連河闕     租帳(そちょう) 河闕(かけつ)に連なり
  軍麾動洛城     軍麾(ぐんき)  洛城(らくじょう)を動かす
  旌旗朝朔気     旌旗(せいき)  朝(あした)には朔気(さくき)
  笳吹夜辺声     笳吹(かすい)  夜には辺声(へんせい)
  坐覚煙塵掃     坐(そぞ)ろに覚ゆ  煙塵(えんじん)の掃(はら)わるるを
  秋風古北平     秋風(しゅうふう)   古北平(こほくへい)

  ⊂訳⊃
          わが君は今  征旅に発とうとし
          書記の君は  遠征の軍に従う
          壮行の宴は  河岸につらなり
          将軍の旗は  洛陽の城にどよめく
          あしたには  朔北の寒気にはためき
          夜になれば  胡笳の哀しい声を聞く
          気がつけば  古北平の秋風が
          戦場の塵を  吹き払っているだろう


 ⊂ものがたり⊃ 劉希夷の死後四年、弘道元年(683)十二月に高宗が崩じました。太子李顕(りけん)が即位しますが、中宗は父親に似て凡庸な君主でした。即位するとすぐに皇后韋氏の父を侍中(門下省の長官)にしようとしたので武后の怒りに触れ、廃位されます。
 ついで中宗の弟李旦(りたん)が帝位につきますが、睿宗は別殿にとどまって政事に関与しませんでした。武后が簾中から政事を行います。宮中はすでに洛陽に移っていましたが、武后は洛陽を神都と定め、事実上の首都にしました。
 建国の功臣李世勣(りせいせき)の孫李敬業(りけいぎょう)はそのころ揚州(江蘇省揚州市)にいましたが、武后打倒の兵を挙げます。武后は三十万の大軍を送って鎮圧します。このあと宗室の諸王の挙兵がいくつか起こりますが、すべて打倒され、天授元年(690)九月、武后は睿宗を廃位してみずから即位、国号を周と改めました。新しい国を立てて女帝になったのです。
 則天武后は旧臣にかわる廷臣として、寒門出身の科挙及第者を積極的に登用しました。そのため、それまで陽の当らなかった人材が競って武后のために働くようになりました。文運も盛んになり、則天武后時代に活躍した崔融(さいゆう)・杜審言(としんげん)・蘇味道・李嶠を後世「文章の四友」と称します。
 杜審言(646?ー708)は杜甫の祖父です。高宗の咸享元年(670)に進士に及第し、官途に就きます。武后の万歳通天元年(696)五月に契丹族が反乱を起こし、討伐軍が派遣されますが、杜審言の友人崔融が幕下の秘書として遠征に従軍することになりました。詩は崔融の送別の宴で詠われたものです。「古北平」は漢代の右北平郡のことで、唐初は平州と称されていました。そこが討伐軍の目的地でした。

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