明4ー高啓
登金陵雨花臺 金陵の)雨花台に登って大江を望む
大江来従万山中 大江(たいこう) 万山(ばんざん)の中(うち)従(よ)り来たり
山勢尽与江流東 山勢(さんせい) 尽(ことごと)く江流(こうりゅう)と与(とも)に東(ひがし)す
鍾山如龍独西上 鍾山(しょうざん) 龍(りゅう)の如く 独(ひと)り西上(せいじょう)し
欲破巨浪乗長風 巨浪(きょろう)を破って長風(ちょうふう)に乗(じょう)ぜんと欲(ほっ)す
江山相雄不相譲 江山(こうざん) 相雄(あいおお)しく相譲(あいゆず)らず
形勝争誇天下壮 形勝(けいしょう) 争い誇る 天下の壮(そう)
秦皇空此瘞黄金 秦皇(しんこう) 空(むな)しく此(ここ)に黄金を瘞(うず)むるも
佳気葱葱至今王 佳気(かき)葱葱(そうそう)として 今に至って王たり
我懐鬱塞何由開 我が懐(おも)い 鬱塞(うつそく) 何(なに)に由(よ)ってか開かん
酒酣走上城南台 酒(さけ)酣(たけなわ)にして 走って城南(じょうなん)の台に上る
坐覚蒼茫万古意 坐(そぞ)ろに覚ゆ 蒼茫(そうぼう) 万古(ばんこ)の意
遠自荒煙落日之中来 遠く荒煙(こうえん) 落日の中(うち)自(よ)り来たるを
石頭城下涛声怒 石頭城下(せきとうじょうか) 涛声(とうせい)怒(いか)り
武騎千群誰敢渡 武騎(ぶき)千群(せんぐん) 誰(たれ)か敢(あえ)て渡らん
黄旗入洛竟何祥 黄旗(こうき) 洛(らく)に入(い)るは竟(つい)に何の祥(しるし)ぞ
鉄鎖横江未為固 鉄鎖(てつさ) 江(こう)に横(よこ)たうるも未(いま)だ固めと為(な)さず
前三国 前(さき)には三国(さんごく)
後六朝 後(のち)には六朝(りくちょう)
草生宮闕何蕭蕭 草は宮闕(きゅうけつ)に生じて何ぞ蕭蕭(しょうしょう)たる
英雄乗時務割拠 英雄 時に乗じて割拠(かっきょ)に務(つと)め
幾度戦血流寒潮 幾度(いくたび)か 戦血(せんけつ) 寒潮(かんちょう)に流るる
我生幸逢聖人起南国 我れ生まれて 幸い聖人の南国に起こるに逢(あ)い
禍乱初平事休息 禍乱(からん) 初めて平(たい)らぎ休息(きゅうそく)を事とす
従今四海永為家 今(いま)従(よ)り四海(しかい) 永く家と為(な)り
不用長江限南北 長江の南北に限るを用いず
⊂訳⊃
長江は無数の山のあいだを流れくだり
山の勢いは 流れとともに東にむかう
鐘山だけは ひとり龍のように西をむき
波涛を破って 長大な風に乗ろうとする
長江と鐘山は 雄々しい姿でたがいに譲らず
われこそは 天下の景勝であると競いあう
秦の始皇帝が 黄金を埋めて鎮めたにもかかわらず
天子の気は湧きつづけ いまや王の都となる
私の憶いは塞がって どうすれば晴ればれとなるだろうかと
酔った勢いで都城の南 雨花台にのぼる
すると 濃い霧に包まれた夕陽のなかから
蒼茫万古の思いが湧いてきた
石頭城下に 波は激しく
北の騎馬隊は 渡ることができない
黄旗洛陽に入る予言は いかなる兆しであったのか
鉄鎖を川に張りめぐらしても無駄であった
さきに三国
のちに六朝の都となるが
いまでは草が 宮殿の跡に生えて侘びしいばかり
英雄たちは 時に乗じて要害に拠り
兵士の血潮は 幾たび長江の冷たい水に流れたことか
幸いにも私は 聖人が南国に起こる御代にあい
戦乱は収まり 人は安らぎを求めている
これからは 天下が家族のようにひとつになり
北と南に 分断されるようなことはない
⊂ものがたり⊃ 詩題中の「雨花台」(うかだい)は「金陵」(江蘇省南京市)の南郊にある台地です。雨花台で宴会が開かれたときに披露した作品でしょう。高啓は明の洪武二年(1369)に応天府に召され、出仕して『元史』の編纂に従事しました。詩は勤めはじめてほどなくの作品と思われます。雑言古詩、七言二十四句(内一句は二句表示)の大作で、四句ずつにわけて読むことができます。
はじめの四句は雨花台からの眺めです。初句の「大江 万山の中従り来たり」は長江を象徴的に捉えるもので、巴蜀の山々を抜けて東流することをいいます。実は応天府のあたりでは、長江は城の西側を北流しており、「鍾山」(紫金山)は城の東側にあります。鍾山が「独り西上し」というのは、長江に抗するものの存在をしめすのです。
つぎの四句では古都の歴史に思いを馳せます。「江山」は長江と鍾山のことで、両者が拮抗している姿をあげ、秦の始皇帝の故事を持ちだします。始皇帝のとき金陵の地に天子の気が立ち昇っていると告げる者があり、始皇帝はその「佳気」(めでたい気)を封じこめました。しかし、天子の気は湧きつづけ、いまの世に南北統一の王都になったと洪武帝が都をおいたことを寿ぐのです。
つぎの四句では一転して自分の心を見詰めます。「我が懐い 鬱塞 何に由ってか開かん」の「鬱塞」する憶いとはなんでしょうか。ここには高啓の本心が隠されていて、詩を読み解く鍵があります。『漢詩を読む』(平凡社)の著者宇野直人氏は「晩唐の李商隠の有名な詩が重なって来ます」といい、李商隠の「楽遊原に登る」をあげています。そして「わけのわからない心の悩みに急かされて、馬車を全速力で走らせて高台に登る、そこで彼を迎えたのは一面に広がる夕陽の光であった」(第四巻237頁)と指摘します。東流する長江に拮抗して立つ鍾山を張士誠の比喩と考えれば、張士誠の政権下、平江の有名詩人であった高啓は両勢力の狭間にあって悩むところが多かったのではないでしょうか。「坐ろに覚ゆ 蒼茫 万古の意」は楽遊原上の李商隠と重なる思いであって、応天府に仕えることになった高啓の微妙な心情がうかがえます。
つぎの四句では再び歴史にもどり、三国時代に金陵に都をおいた呉の故事を三つあげます。まず三国魏の文帝曹丕(そうひ)が呉を攻めようとしたとき、長江の激しい流れに阻まれていったん兵を引いたことをいいます。ついで呉の予言者が「黄旗 洛に入る」、皇帝の旗が洛陽に入るといったのは何だったのかと疑問をさしはさみます。呉が北上して全国を制覇するという予言ですが、実際は魏に滅ぼされて呉王は洛陽に拉致されました。「鉄鎖」は戦国時代に秦が呉の地を攻めたとき、呉は長江に鉄鎖を張りめぐらして防ごうとしましたが役に立ちませんでした。そのように金陵が戦争によって幾度も破壊された不吉な街であることを指摘します。
つぎの四句では、そのごも古都の周辺で戦争が繰り返されたことを強調します。「前三国」「後六朝」は一句を二分したもので、金陵には三国時代と南北朝時代に都がおかれましたが、その宮殿の跡はいまは草に埋もれて侘びしいかぎりであると詠います。元末においても英雄たちは勢いに乗じて要害に拠り、激しい戦がありました。兵士たちの血がいくたび長江の冷たい流れにまじって流れたことかと、戦争つづきの世を憂えます。
最後の四句では一転して洪武帝を褒めたたえます。さいわいにも自分は「聖人」(洪武帝)が南国に台頭する時代に生まれあわせて、戦乱はなくなり、人々は安らぎを求めている。これからは中国が長江によって南北に分断されるような事態はないだろうと詠います。「聖人」は儒教最高の人格であり、「四海」は『論語』に「四海の内 皆 兄弟(けいてい)なり」とあるのに基づいています。儒教的な観点からの褒め言葉です。詩は暗喩によってさまざま隠蔽されていますが、朱元璋の明を信じきれない高啓の気持ちが滲みでています。高啓は重用されたにもかかわらず職を辞し、故郷に帰るのです。
明5ー高啓
春日憶江上二首 其一 春日 江上を憶う二首 其の一
一川流水半村花 一川(いっせん)の流水 半村(はんそん)の花
旧屋南隣是釣家 旧屋(きゅうおく)の南隣 是(こ)れ釣家(ちょうか)
長記帰篷載春酔 長(とこし)えに記す 帰篷(きほう)に春酔(しゅんすい)を載せ
雲籠残照雨鳴沙 雲は残照(ざんしょう)を籠(こ)め 雨は沙(すな)に鳴る
⊂訳⊃
広がる岸辺流れる川 村里のなかばを覆う春の花
もといた家の南隣は 釣りする者の家だった
私は決して忘れない 帰り舟での酔い心地
沈む夕陽に雲は映え 雨は砂地を打って降る
⊂ものがたり⊃ 高啓は処刑されたために詩文は捨てられ、残された詩も多くは制昨年不明のものです。以下、それらの詩を掲げます。
詩題の「江上」(こうじょう)は川のほとりの意味です。呉淞江岸の青邱に住んでいたころの春の思い出でしょう。平江の詩会の席で詩作の手本として披露されたものと推定されており、一句目と四句目に「句中対」(くちゅうつい)という技法が用いられています。一句が対句で構成されているもので、春の村里ののどかな風景が「一川の流水 半村の花」とリズミカルに描かれます。「一川」は川を挟んで広がる平らな土地のことで、「流水」が川です。二句目の「釣家」は漁師の家ですが、漁夫は隠者という意味にもなります。後半二句が忘れることのできない思い出で、「歸篷」は帰りの苫舟のこと。南隣の釣家と釣りにでかけたのでしょう。帰り舟での酔い心地、夕陽に映える雲や砂地を打って降る雨が忘れられないと句中対でリズミカルに詠います。
明6ー高啓
送呂卿 呂卿を送る
遠汀斜日思悠悠 遠汀(えんてい) 斜日(しゃじつ) 思い悠悠(ゆうゆう)
花払離觴柳払舟 花は離觴(りしょう)を払い 柳は舟を払う
江北江南芳草徧 江北 江南 芳草(ほうそう)徧(あまね)く
送君倂得送春愁 君を送って併(あわ)せ得たり 春を送るの愁い
⊂訳⊃
遠くの汀 沈む夕陽 悩みは果てしない
花びらは杯をかすめ 柳の枝は旅立つ舟をはらう
長江の北も南も 若草で満ちあふれ
君を送れば湧いてくる 過ぎゆく春の寂しさも
⊂ものがたり⊃ 詩題の「呂卿」(りょけい)は不詳、詩会の仲間かもしれません。その送別会の席で、高楼からの眺めと春の別れの心境を詠っています。この詩も二句目が句中対になっており、長大で力強い雑言古詩で名を馳せた高啓も、詩会などでは技巧をほどこした小粋な詩を披露していたようです。
起承句は高殿からの眺め、夕暮れです。沈む夕陽が遠くの汀を照らしています。それを見ていると悩みは果てしありません。「悠悠」は『詩経』周南「関雎」の句を踏まえており、悩みがつきないことです。承句の近景はよく詠われる素材ですが、句中対でリズミカルにまとめています。「離觴」は別れの酒杯です。転句の「芳草」は春の若草、別れの悲しみの象徴としてよくもちいられる素材ですが、「江北江南」の句中対をかぶせて引き締めています。そして結句では、君を見送れば過ぎゆく春の寂しさも湧いてくると即興の味を効かせています。
登金陵雨花臺 金陵の)雨花台に登って大江を望む
大江来従万山中 大江(たいこう) 万山(ばんざん)の中(うち)従(よ)り来たり
山勢尽与江流東 山勢(さんせい) 尽(ことごと)く江流(こうりゅう)と与(とも)に東(ひがし)す
鍾山如龍独西上 鍾山(しょうざん) 龍(りゅう)の如く 独(ひと)り西上(せいじょう)し
欲破巨浪乗長風 巨浪(きょろう)を破って長風(ちょうふう)に乗(じょう)ぜんと欲(ほっ)す
江山相雄不相譲 江山(こうざん) 相雄(あいおお)しく相譲(あいゆず)らず
形勝争誇天下壮 形勝(けいしょう) 争い誇る 天下の壮(そう)
秦皇空此瘞黄金 秦皇(しんこう) 空(むな)しく此(ここ)に黄金を瘞(うず)むるも
佳気葱葱至今王 佳気(かき)葱葱(そうそう)として 今に至って王たり
我懐鬱塞何由開 我が懐(おも)い 鬱塞(うつそく) 何(なに)に由(よ)ってか開かん
酒酣走上城南台 酒(さけ)酣(たけなわ)にして 走って城南(じょうなん)の台に上る
坐覚蒼茫万古意 坐(そぞ)ろに覚ゆ 蒼茫(そうぼう) 万古(ばんこ)の意
遠自荒煙落日之中来 遠く荒煙(こうえん) 落日の中(うち)自(よ)り来たるを
石頭城下涛声怒 石頭城下(せきとうじょうか) 涛声(とうせい)怒(いか)り
武騎千群誰敢渡 武騎(ぶき)千群(せんぐん) 誰(たれ)か敢(あえ)て渡らん
黄旗入洛竟何祥 黄旗(こうき) 洛(らく)に入(い)るは竟(つい)に何の祥(しるし)ぞ
鉄鎖横江未為固 鉄鎖(てつさ) 江(こう)に横(よこ)たうるも未(いま)だ固めと為(な)さず
前三国 前(さき)には三国(さんごく)
後六朝 後(のち)には六朝(りくちょう)
草生宮闕何蕭蕭 草は宮闕(きゅうけつ)に生じて何ぞ蕭蕭(しょうしょう)たる
英雄乗時務割拠 英雄 時に乗じて割拠(かっきょ)に務(つと)め
幾度戦血流寒潮 幾度(いくたび)か 戦血(せんけつ) 寒潮(かんちょう)に流るる
我生幸逢聖人起南国 我れ生まれて 幸い聖人の南国に起こるに逢(あ)い
禍乱初平事休息 禍乱(からん) 初めて平(たい)らぎ休息(きゅうそく)を事とす
従今四海永為家 今(いま)従(よ)り四海(しかい) 永く家と為(な)り
不用長江限南北 長江の南北に限るを用いず
⊂訳⊃
長江は無数の山のあいだを流れくだり
山の勢いは 流れとともに東にむかう
鐘山だけは ひとり龍のように西をむき
波涛を破って 長大な風に乗ろうとする
長江と鐘山は 雄々しい姿でたがいに譲らず
われこそは 天下の景勝であると競いあう
秦の始皇帝が 黄金を埋めて鎮めたにもかかわらず
天子の気は湧きつづけ いまや王の都となる
私の憶いは塞がって どうすれば晴ればれとなるだろうかと
酔った勢いで都城の南 雨花台にのぼる
すると 濃い霧に包まれた夕陽のなかから
蒼茫万古の思いが湧いてきた
石頭城下に 波は激しく
北の騎馬隊は 渡ることができない
黄旗洛陽に入る予言は いかなる兆しであったのか
鉄鎖を川に張りめぐらしても無駄であった
さきに三国
のちに六朝の都となるが
いまでは草が 宮殿の跡に生えて侘びしいばかり
英雄たちは 時に乗じて要害に拠り
兵士の血潮は 幾たび長江の冷たい水に流れたことか
幸いにも私は 聖人が南国に起こる御代にあい
戦乱は収まり 人は安らぎを求めている
これからは 天下が家族のようにひとつになり
北と南に 分断されるようなことはない
⊂ものがたり⊃ 詩題中の「雨花台」(うかだい)は「金陵」(江蘇省南京市)の南郊にある台地です。雨花台で宴会が開かれたときに披露した作品でしょう。高啓は明の洪武二年(1369)に応天府に召され、出仕して『元史』の編纂に従事しました。詩は勤めはじめてほどなくの作品と思われます。雑言古詩、七言二十四句(内一句は二句表示)の大作で、四句ずつにわけて読むことができます。
はじめの四句は雨花台からの眺めです。初句の「大江 万山の中従り来たり」は長江を象徴的に捉えるもので、巴蜀の山々を抜けて東流することをいいます。実は応天府のあたりでは、長江は城の西側を北流しており、「鍾山」(紫金山)は城の東側にあります。鍾山が「独り西上し」というのは、長江に抗するものの存在をしめすのです。
つぎの四句では古都の歴史に思いを馳せます。「江山」は長江と鍾山のことで、両者が拮抗している姿をあげ、秦の始皇帝の故事を持ちだします。始皇帝のとき金陵の地に天子の気が立ち昇っていると告げる者があり、始皇帝はその「佳気」(めでたい気)を封じこめました。しかし、天子の気は湧きつづけ、いまの世に南北統一の王都になったと洪武帝が都をおいたことを寿ぐのです。
つぎの四句では一転して自分の心を見詰めます。「我が懐い 鬱塞 何に由ってか開かん」の「鬱塞」する憶いとはなんでしょうか。ここには高啓の本心が隠されていて、詩を読み解く鍵があります。『漢詩を読む』(平凡社)の著者宇野直人氏は「晩唐の李商隠の有名な詩が重なって来ます」といい、李商隠の「楽遊原に登る」をあげています。そして「わけのわからない心の悩みに急かされて、馬車を全速力で走らせて高台に登る、そこで彼を迎えたのは一面に広がる夕陽の光であった」(第四巻237頁)と指摘します。東流する長江に拮抗して立つ鍾山を張士誠の比喩と考えれば、張士誠の政権下、平江の有名詩人であった高啓は両勢力の狭間にあって悩むところが多かったのではないでしょうか。「坐ろに覚ゆ 蒼茫 万古の意」は楽遊原上の李商隠と重なる思いであって、応天府に仕えることになった高啓の微妙な心情がうかがえます。
つぎの四句では再び歴史にもどり、三国時代に金陵に都をおいた呉の故事を三つあげます。まず三国魏の文帝曹丕(そうひ)が呉を攻めようとしたとき、長江の激しい流れに阻まれていったん兵を引いたことをいいます。ついで呉の予言者が「黄旗 洛に入る」、皇帝の旗が洛陽に入るといったのは何だったのかと疑問をさしはさみます。呉が北上して全国を制覇するという予言ですが、実際は魏に滅ぼされて呉王は洛陽に拉致されました。「鉄鎖」は戦国時代に秦が呉の地を攻めたとき、呉は長江に鉄鎖を張りめぐらして防ごうとしましたが役に立ちませんでした。そのように金陵が戦争によって幾度も破壊された不吉な街であることを指摘します。
つぎの四句では、そのごも古都の周辺で戦争が繰り返されたことを強調します。「前三国」「後六朝」は一句を二分したもので、金陵には三国時代と南北朝時代に都がおかれましたが、その宮殿の跡はいまは草に埋もれて侘びしいかぎりであると詠います。元末においても英雄たちは勢いに乗じて要害に拠り、激しい戦がありました。兵士たちの血がいくたび長江の冷たい流れにまじって流れたことかと、戦争つづきの世を憂えます。
最後の四句では一転して洪武帝を褒めたたえます。さいわいにも自分は「聖人」(洪武帝)が南国に台頭する時代に生まれあわせて、戦乱はなくなり、人々は安らぎを求めている。これからは中国が長江によって南北に分断されるような事態はないだろうと詠います。「聖人」は儒教最高の人格であり、「四海」は『論語』に「四海の内 皆 兄弟(けいてい)なり」とあるのに基づいています。儒教的な観点からの褒め言葉です。詩は暗喩によってさまざま隠蔽されていますが、朱元璋の明を信じきれない高啓の気持ちが滲みでています。高啓は重用されたにもかかわらず職を辞し、故郷に帰るのです。
明5ー高啓
春日憶江上二首 其一 春日 江上を憶う二首 其の一
一川流水半村花 一川(いっせん)の流水 半村(はんそん)の花
旧屋南隣是釣家 旧屋(きゅうおく)の南隣 是(こ)れ釣家(ちょうか)
長記帰篷載春酔 長(とこし)えに記す 帰篷(きほう)に春酔(しゅんすい)を載せ
雲籠残照雨鳴沙 雲は残照(ざんしょう)を籠(こ)め 雨は沙(すな)に鳴る
⊂訳⊃
広がる岸辺流れる川 村里のなかばを覆う春の花
もといた家の南隣は 釣りする者の家だった
私は決して忘れない 帰り舟での酔い心地
沈む夕陽に雲は映え 雨は砂地を打って降る
⊂ものがたり⊃ 高啓は処刑されたために詩文は捨てられ、残された詩も多くは制昨年不明のものです。以下、それらの詩を掲げます。
詩題の「江上」(こうじょう)は川のほとりの意味です。呉淞江岸の青邱に住んでいたころの春の思い出でしょう。平江の詩会の席で詩作の手本として披露されたものと推定されており、一句目と四句目に「句中対」(くちゅうつい)という技法が用いられています。一句が対句で構成されているもので、春の村里ののどかな風景が「一川の流水 半村の花」とリズミカルに描かれます。「一川」は川を挟んで広がる平らな土地のことで、「流水」が川です。二句目の「釣家」は漁師の家ですが、漁夫は隠者という意味にもなります。後半二句が忘れることのできない思い出で、「歸篷」は帰りの苫舟のこと。南隣の釣家と釣りにでかけたのでしょう。帰り舟での酔い心地、夕陽に映える雲や砂地を打って降る雨が忘れられないと句中対でリズミカルに詠います。
明6ー高啓
送呂卿 呂卿を送る
遠汀斜日思悠悠 遠汀(えんてい) 斜日(しゃじつ) 思い悠悠(ゆうゆう)
花払離觴柳払舟 花は離觴(りしょう)を払い 柳は舟を払う
江北江南芳草徧 江北 江南 芳草(ほうそう)徧(あまね)く
送君倂得送春愁 君を送って併(あわ)せ得たり 春を送るの愁い
⊂訳⊃
遠くの汀 沈む夕陽 悩みは果てしない
花びらは杯をかすめ 柳の枝は旅立つ舟をはらう
長江の北も南も 若草で満ちあふれ
君を送れば湧いてくる 過ぎゆく春の寂しさも
⊂ものがたり⊃ 詩題の「呂卿」(りょけい)は不詳、詩会の仲間かもしれません。その送別会の席で、高楼からの眺めと春の別れの心境を詠っています。この詩も二句目が句中対になっており、長大で力強い雑言古詩で名を馳せた高啓も、詩会などでは技巧をほどこした小粋な詩を披露していたようです。
起承句は高殿からの眺め、夕暮れです。沈む夕陽が遠くの汀を照らしています。それを見ていると悩みは果てしありません。「悠悠」は『詩経』周南「関雎」の句を踏まえており、悩みがつきないことです。承句の近景はよく詠われる素材ですが、句中対でリズミカルにまとめています。「離觴」は別れの酒杯です。転句の「芳草」は春の若草、別れの悲しみの象徴としてよくもちいられる素材ですが、「江北江南」の句中対をかぶせて引き締めています。そして結句では、君を見送れば過ぎゆく春の寂しさも湧いてくると即興の味を効かせています。