明2ー高啓
梅花九首 其一 梅花九首 其の一
瓊姿只合在瑶台 瓊姿(けいし) 只(た)だ合(まさ)に瑶台(ようだい)に在るべし
誰向江南処処栽 誰か江南に向(お)いて 処処(しょしょ)に栽(う)うる
雪満山中高士臥 雪は山中に満ちて 高士(こうし)臥(が)し
月明林下美人来 月は林下に明らかにして 美人来たる
寒依疏影蕭蕭竹 寒(かん)には依(よ)る 疏影(そえい) 蕭蕭(しょうしょう)の竹
春掩残香漠漠苔 春には掩(おお)う 残香(ざんこう) 漠漠(ばくばく)の苔
自去何郎無好詠 何郎(かろう)の去りし自(よ)より 好詠(こうえい)無く
東風愁寂幾回開 東風(とうふう) 愁寂(しゅうせき) 幾回(いくかい)か開く
⊂訳⊃
玉のようなこの花は 仙人の棲む所にあるべきだ
だれがこの江南の いたるところに植えたのか
雪が山中に積もるなか 隠者が眠っているようだ
月が林下を照らすなか 美女が現れてくるようだ
寒い時には疏らな影を 風に揺れる竹に映し
春の季節には花びらが 広がる苔のうえに満つ
梁の何遜がいなくなり 梅の佳作は絶え
春風のなかいくたびか 寂しく花を咲かせたことか
⊂ものがたり⊃ 江南の応天府に拠った朱元璋は、まず陳友諒と張士誠を各個撃破する方針を立て、至正二十三年(1363)、江州の陳友諒を滅ぼし、至正二十五年(1365)から東に兵をすすめ張士誠の軍と闘います。その間、江北で元軍と闘っていた紅巾軍の小明王韓林児(かんりんじ)を謀殺し、北伐の兵を発します。
張士誠との闘争は至正二十七年(1367)九月までつづき、敗れた張士誠は首を括って自殺しました。江南を制した朱元璋は翌年を洪武元年(1368)と定め、正月に応天府で即位し、国号を大明と称しました。その年、北伐軍は元の大都をおとし、逃げる元軍を追って上都にいたり、順帝は北に逃れて洪武三年四月になくなります。
高啓(1336ー1374)は平江長洲(江蘇省蘇州市長洲県)の人。十六歳のころから平江の詩壇で有名になります。張士誠が平江に入った至正十六年(1356)には二十一歳でした。張士誠の平江で文名はいよいよ高くなり、明が建国した洪武元年には三十三歳になっていました。翌洪武二年に朱元璋の召しをうけ、『元史』の編纂に従事します。半年ほどで完成し、戸部右侍郎(財務次官)に起用されます。しかし、高位の官吏として重用されることに不安を感じ、ほどなく職を辞して故郷に帰りました。
洪武七年(1374)に旧知の魏観(ぎかん)が知平江府事になって来任し、張士誠の宮殿跡を役所にしました。そのことが謀叛の意思ありと咎められ、高啓も魏観の一党とみなされます。その結果、応天府に連行されて市場で腰斬の刑に処せられます。遺体は路上に曝されました。享年三十九歳です。
詩題に「梅花」(ばいか)とあり、詩中に梅の字はひとつもありませんが、すべて梅に関することです。はじめの二句で梅の花の世間離れした美しさを褒めます。「瓊姿」は梅の花の咲く姿です。その美しさゆえに、梅の花は「瑶台」(仙人の棲む台閣)にあるべきですが、江南のいたるところに植えてあると、江南の美しさと結びつけます。
中四句の対句は梅の花の美しさをいろいろな角度から述べます。はじめの対句の「山中高士」は後漢の袁安(えんあん)の故事を、「林下美人」は随の趙師雄(ちょうしゆう)の故事を踏まえています。「雪は山中に満ちて」、「月は林下に明らかにして」と幻想的なイメージをだして梅花の美しさを喩えます。
つぎの対句は梅の生えている場所とからめてその高雅な趣を描きます。北宋初期の有名詩人林逋(りんぽ)の「山園小梅二首」の句「疏影 横斜 水清浅 暗香 浮動 月黄昏」を踏まえており、林逋の梅の詩に対抗して作ったことがわかります。
結び二句の「何郎」は南朝梁の詩人で梅の詩が得意な何遜(かそん)のことです。何遜が死んで以来「好詠無く」といっていますので、林逋や南宋陸游の梅の詩も否定していることになります。そしていまこそ、自分が梅の花の名作をつくろうという意気込みをしめします。若いころの意気軒昂なときの作品でしょう。
明3ー高啓
青邱子歌 青邱子の歌
青邱子 臞而清 青邱子(せいきゅうし) 臞(や)せて清し
本是五雲閣下之仙卿 本(も)と是(こ)れ五雲閣下の仙卿(せんけい)なり
何年降謫在世間 何(いず)れの年か降謫(こうたく)されて世間に在り
向人不道姓与名 人に向かって姓と名とを道(い)わず
躡履厭遠遊 履(くつ)を躡(ふ)むも遠遊(えんゆう)を厭(いと)い
荷鋤懶躬耕 鋤(すき)を荷(にな)うも躬耕(きゅうこう)に懶(ものう)し
有剣任鏽澀 剣(けん)有るも鏽渋(しゅうじゅう)するに任(まか)せ
有書任縦横 書(しょ)有るも縦横(じゅうおう)たるに任す
不肯折腰為五斗米 腰を折って五斗米(ごとべい)の為にするを肯(がえ)んぜず
不肯掉舌下七十城 舌(した)を掉(ふる)って七十城を下すを肯(がえ)んぜず
但好覓詩句 但(た)だ好んで詩句を覓(もと)め
自吟自酬賡 自(みずか)ら吟じ 自ら酬賡(しゅうこう)す
田間曳杖復帯索 田間(でんかん)に杖を曳き 復(ま)た索(なわ)を帯とす
傍人不識笑且軽 傍人(ぼうじん) 識(し)らず 笑い且(か)つ軽(かろ)んず
謂是魯迂儒 謂(い)う 是(こ)れ魯(ろ)の迂儒(うじゅ)ぞ
楚狂生 楚(そ)の狂生(きょうせい)ぞと
青邱子聞之不介意 青邱子(せいきゅうし) 之(こ)れを聞くも意に介(かい)せず
吟声出吻不絶咿咿鳴 吟声(ぎんせい) 吻(くち)を出(い)で 咿咿(いい)として鳴るを絶たず
朝吟忘其飢 朝(あした)に吟じては其の飢(うえ)を忘れ
暮吟散不平 暮(くれ)に吟じては不平を散(さん)ず
⊂訳⊃
青邱子は すらりとした優男
もとは五雲閣にはべる仙官であった
あるとき天上から追放され いまは下界にいるが
姓も名もあかさない
履をはいても 遠くへの旅は好まず
鋤を担いでも 畑仕事はうっとうしい
剣はあっても 錆びるにまかせ
書物なんぞは ほったらかしだ
わずかな扶持米のために 腰をかがめたり
弁舌をふるって国を降す とんでもないことだ
詩句を探すのが大好きで
みずから歌い みずから答える
田圃のなかを ぶらぶら歩いて帯のかわりに縄を締める
近所の者は 私が何者であるかを知らず
魯の迂儒(やくたたず)
楚の狂生(きちがい)よと あざけり笑う
青邱子は それを聞いても気にかけず
口から出るのは 咿(あ)とか咿(う)とかの唸り声
朝に吟じては 飢えを忘れ
夕べに吟じては 鬱憤をはらす
⊂ものがたり⊃ 詩題の「青邱子」は高啓(こうけい)の号です。平江(江蘇省蘇州市)の郊外呉淞(ウースン)江岸に青邱という地があり、高啓は青邱の名族周子達(しゅうしたつ)の娘と結婚し、青邱に住むことが多かったようです。この詩を作ったのは至正十八年(1358)、二十三歳のときで、平江は張士誠の治下にありました。この詩には森鷗外の雅語訳がありますが、鷗外には珍しい失敗作です。
雑言古詩、六十六句の長詩ですので七回にわけて投稿します。まず冒頭十句のはじめ四句で、自分は咎められて下界に流された仙人であり、姓も名もいわないと韜晦します。「五雲閣」は五彩の雲のたなびく天上の仙宮であり、「仙卿」は仙人世界の高官でしょう。つづく六句は生活信条です。「鏽澀」(銹渋)は錆びつくこと、「縦横」はたてよこ、ほったらかしにすることです。
「折腰五斗米」は陶淵明の故事を踏まえており、陶淵明は彭沢令のとき郡から派遣された督郵を迎えるのに束帯するようにと下吏からいわれ、「われ能く五斗米のために腰を折り、拳々として郷里の小人に事(つか)えんや」といって即日職を辞し故郷に帰りました。「掉舌七十城」は『史記』酈生陸賈列伝に漢の酈食其(れきいき)が弁舌をもって斉の七十余城(一国)を降したとあり、功名手柄をたてて出世しようとは思わないと詠うのです。
つづく十句では詩人としての生きざまを詠います。はじめの二句は詩作に没頭していること。「酬賡」は他人の詩に次韻することですが、自分の詩に次韻して応酬するのです。つぎの四句は近所の評判。「索を帯とす」は『列子』にみえる隠者栄啓期(えいけいき)の故事で、服装にかまわず歩きまわり、近所の者は自分が何者であるかを知らずに笑いものにしていると詠います。「魯迂儒」は『史記』劉敬叔孫通列伝にあり、漢の高祖劉邦の召しに応じなかった時代遅れの魯の儒者をいいます。「楚狂生」は『論語』にあり、狂をよそおって孔子を諷刺した楚の隠者接輿(せつよ)のことです。そんな嘲りを聞いても気にせず、「咿咿」(うなり声)と唸りながら朝から晩まで詩を吟じていると韜晦します。(つづく)
梅花九首 其一 梅花九首 其の一
瓊姿只合在瑶台 瓊姿(けいし) 只(た)だ合(まさ)に瑶台(ようだい)に在るべし
誰向江南処処栽 誰か江南に向(お)いて 処処(しょしょ)に栽(う)うる
雪満山中高士臥 雪は山中に満ちて 高士(こうし)臥(が)し
月明林下美人来 月は林下に明らかにして 美人来たる
寒依疏影蕭蕭竹 寒(かん)には依(よ)る 疏影(そえい) 蕭蕭(しょうしょう)の竹
春掩残香漠漠苔 春には掩(おお)う 残香(ざんこう) 漠漠(ばくばく)の苔
自去何郎無好詠 何郎(かろう)の去りし自(よ)より 好詠(こうえい)無く
東風愁寂幾回開 東風(とうふう) 愁寂(しゅうせき) 幾回(いくかい)か開く
⊂訳⊃
玉のようなこの花は 仙人の棲む所にあるべきだ
だれがこの江南の いたるところに植えたのか
雪が山中に積もるなか 隠者が眠っているようだ
月が林下を照らすなか 美女が現れてくるようだ
寒い時には疏らな影を 風に揺れる竹に映し
春の季節には花びらが 広がる苔のうえに満つ
梁の何遜がいなくなり 梅の佳作は絶え
春風のなかいくたびか 寂しく花を咲かせたことか
⊂ものがたり⊃ 江南の応天府に拠った朱元璋は、まず陳友諒と張士誠を各個撃破する方針を立て、至正二十三年(1363)、江州の陳友諒を滅ぼし、至正二十五年(1365)から東に兵をすすめ張士誠の軍と闘います。その間、江北で元軍と闘っていた紅巾軍の小明王韓林児(かんりんじ)を謀殺し、北伐の兵を発します。
張士誠との闘争は至正二十七年(1367)九月までつづき、敗れた張士誠は首を括って自殺しました。江南を制した朱元璋は翌年を洪武元年(1368)と定め、正月に応天府で即位し、国号を大明と称しました。その年、北伐軍は元の大都をおとし、逃げる元軍を追って上都にいたり、順帝は北に逃れて洪武三年四月になくなります。
高啓(1336ー1374)は平江長洲(江蘇省蘇州市長洲県)の人。十六歳のころから平江の詩壇で有名になります。張士誠が平江に入った至正十六年(1356)には二十一歳でした。張士誠の平江で文名はいよいよ高くなり、明が建国した洪武元年には三十三歳になっていました。翌洪武二年に朱元璋の召しをうけ、『元史』の編纂に従事します。半年ほどで完成し、戸部右侍郎(財務次官)に起用されます。しかし、高位の官吏として重用されることに不安を感じ、ほどなく職を辞して故郷に帰りました。
洪武七年(1374)に旧知の魏観(ぎかん)が知平江府事になって来任し、張士誠の宮殿跡を役所にしました。そのことが謀叛の意思ありと咎められ、高啓も魏観の一党とみなされます。その結果、応天府に連行されて市場で腰斬の刑に処せられます。遺体は路上に曝されました。享年三十九歳です。
詩題に「梅花」(ばいか)とあり、詩中に梅の字はひとつもありませんが、すべて梅に関することです。はじめの二句で梅の花の世間離れした美しさを褒めます。「瓊姿」は梅の花の咲く姿です。その美しさゆえに、梅の花は「瑶台」(仙人の棲む台閣)にあるべきですが、江南のいたるところに植えてあると、江南の美しさと結びつけます。
中四句の対句は梅の花の美しさをいろいろな角度から述べます。はじめの対句の「山中高士」は後漢の袁安(えんあん)の故事を、「林下美人」は随の趙師雄(ちょうしゆう)の故事を踏まえています。「雪は山中に満ちて」、「月は林下に明らかにして」と幻想的なイメージをだして梅花の美しさを喩えます。
つぎの対句は梅の生えている場所とからめてその高雅な趣を描きます。北宋初期の有名詩人林逋(りんぽ)の「山園小梅二首」の句「疏影 横斜 水清浅 暗香 浮動 月黄昏」を踏まえており、林逋の梅の詩に対抗して作ったことがわかります。
結び二句の「何郎」は南朝梁の詩人で梅の詩が得意な何遜(かそん)のことです。何遜が死んで以来「好詠無く」といっていますので、林逋や南宋陸游の梅の詩も否定していることになります。そしていまこそ、自分が梅の花の名作をつくろうという意気込みをしめします。若いころの意気軒昂なときの作品でしょう。
明3ー高啓
青邱子歌 青邱子の歌
青邱子 臞而清 青邱子(せいきゅうし) 臞(や)せて清し
本是五雲閣下之仙卿 本(も)と是(こ)れ五雲閣下の仙卿(せんけい)なり
何年降謫在世間 何(いず)れの年か降謫(こうたく)されて世間に在り
向人不道姓与名 人に向かって姓と名とを道(い)わず
躡履厭遠遊 履(くつ)を躡(ふ)むも遠遊(えんゆう)を厭(いと)い
荷鋤懶躬耕 鋤(すき)を荷(にな)うも躬耕(きゅうこう)に懶(ものう)し
有剣任鏽澀 剣(けん)有るも鏽渋(しゅうじゅう)するに任(まか)せ
有書任縦横 書(しょ)有るも縦横(じゅうおう)たるに任す
不肯折腰為五斗米 腰を折って五斗米(ごとべい)の為にするを肯(がえ)んぜず
不肯掉舌下七十城 舌(した)を掉(ふる)って七十城を下すを肯(がえ)んぜず
但好覓詩句 但(た)だ好んで詩句を覓(もと)め
自吟自酬賡 自(みずか)ら吟じ 自ら酬賡(しゅうこう)す
田間曳杖復帯索 田間(でんかん)に杖を曳き 復(ま)た索(なわ)を帯とす
傍人不識笑且軽 傍人(ぼうじん) 識(し)らず 笑い且(か)つ軽(かろ)んず
謂是魯迂儒 謂(い)う 是(こ)れ魯(ろ)の迂儒(うじゅ)ぞ
楚狂生 楚(そ)の狂生(きょうせい)ぞと
青邱子聞之不介意 青邱子(せいきゅうし) 之(こ)れを聞くも意に介(かい)せず
吟声出吻不絶咿咿鳴 吟声(ぎんせい) 吻(くち)を出(い)で 咿咿(いい)として鳴るを絶たず
朝吟忘其飢 朝(あした)に吟じては其の飢(うえ)を忘れ
暮吟散不平 暮(くれ)に吟じては不平を散(さん)ず
⊂訳⊃
青邱子は すらりとした優男
もとは五雲閣にはべる仙官であった
あるとき天上から追放され いまは下界にいるが
姓も名もあかさない
履をはいても 遠くへの旅は好まず
鋤を担いでも 畑仕事はうっとうしい
剣はあっても 錆びるにまかせ
書物なんぞは ほったらかしだ
わずかな扶持米のために 腰をかがめたり
弁舌をふるって国を降す とんでもないことだ
詩句を探すのが大好きで
みずから歌い みずから答える
田圃のなかを ぶらぶら歩いて帯のかわりに縄を締める
近所の者は 私が何者であるかを知らず
魯の迂儒(やくたたず)
楚の狂生(きちがい)よと あざけり笑う
青邱子は それを聞いても気にかけず
口から出るのは 咿(あ)とか咿(う)とかの唸り声
朝に吟じては 飢えを忘れ
夕べに吟じては 鬱憤をはらす
⊂ものがたり⊃ 詩題の「青邱子」は高啓(こうけい)の号です。平江(江蘇省蘇州市)の郊外呉淞(ウースン)江岸に青邱という地があり、高啓は青邱の名族周子達(しゅうしたつ)の娘と結婚し、青邱に住むことが多かったようです。この詩を作ったのは至正十八年(1358)、二十三歳のときで、平江は張士誠の治下にありました。この詩には森鷗外の雅語訳がありますが、鷗外には珍しい失敗作です。
雑言古詩、六十六句の長詩ですので七回にわけて投稿します。まず冒頭十句のはじめ四句で、自分は咎められて下界に流された仙人であり、姓も名もいわないと韜晦します。「五雲閣」は五彩の雲のたなびく天上の仙宮であり、「仙卿」は仙人世界の高官でしょう。つづく六句は生活信条です。「鏽澀」(銹渋)は錆びつくこと、「縦横」はたてよこ、ほったらかしにすることです。
「折腰五斗米」は陶淵明の故事を踏まえており、陶淵明は彭沢令のとき郡から派遣された督郵を迎えるのに束帯するようにと下吏からいわれ、「われ能く五斗米のために腰を折り、拳々として郷里の小人に事(つか)えんや」といって即日職を辞し故郷に帰りました。「掉舌七十城」は『史記』酈生陸賈列伝に漢の酈食其(れきいき)が弁舌をもって斉の七十余城(一国)を降したとあり、功名手柄をたてて出世しようとは思わないと詠うのです。
つづく十句では詩人としての生きざまを詠います。はじめの二句は詩作に没頭していること。「酬賡」は他人の詩に次韻することですが、自分の詩に次韻して応酬するのです。つぎの四句は近所の評判。「索を帯とす」は『列子』にみえる隠者栄啓期(えいけいき)の故事で、服装にかまわず歩きまわり、近所の者は自分が何者であるかを知らずに笑いものにしていると詠います。「魯迂儒」は『史記』劉敬叔孫通列伝にあり、漢の高祖劉邦の召しに応じなかった時代遅れの魯の儒者をいいます。「楚狂生」は『論語』にあり、狂をよそおって孔子を諷刺した楚の隠者接輿(せつよ)のことです。そんな嘲りを聞いても気にせず、「咿咿」(うなり声)と唸りながら朝から晩まで詩を吟じていると韜晦します。(つづく)