明1ー楊基
感懐十四首 其六 感懐十四首 其の六
位卑諌勿直 位(くらい)卑(ひく)ければ 諌(かん) 直(ちょく)なること勿(なか)れ
直諌君心疑 直諌(ちょくかん)すれば 君心(くんしん)疑う
交浅言勿深 交わり浅ければ 言(げん) 深くすること勿れ
深言友誼虧 深言(しんげん)すれば 友誼(ゆうぎ)虧(か)く
諤諤衆所悪 諤諤(がくがく)たるは 衆(しゅう)の悪(にく)む所
況復違逆之 況(いわ)んや復(ま)た之(こ)れに違逆(いぎゃく)するをや
豈不利於行 豈(あ)に行いに利せんとして
吐蘗而含飴 蘗(きはだ)を吐いて飴(あめ)を含まざらんや
朝登千仞崗 朝(あした)に千仞(せんじん)の崗(おか)に登り
振我身上衣 我が身上(しんじょう)の衣(ころも)を振わん
丈夫貴自潔 丈夫(じょうふ)は自(みずか)ら潔(きよ)くするを貴(たっと)ぶ
毋論他人非 他人の非を論ずること毋(なか)れ
⊂訳⊃
位が低いときは 直接に諌言してはならない
直諌すれば 天子の心に疑いがうまれる
親しくない人と 立ち入った話はしないほうがよい
立ち入った話は 友情を損なう
遠慮会釈の無い話は 人のいやがるもの
人の意見に逆らえば なおさらのことだ
自分のゆく道に 有利なように
苦い言葉を捨て 甘い口調にこころがけよう
朝起きたら 高い岡に登って
自分の衣の 塵を払おう
立派な男は みずからを清く保つもの
他人の失敗を論じたりしてはならない
⊂ものがたり⊃ 元末の紅巾の乱で、定遠(安徽省定遠県)の土豪郭子興(かくしこう)の軍に投じた朱元璋は、郭子興の死後、その部衆をひきいて江南に移り、至正十六年(1356)に集慶路(江蘇省南京市)を占領、応天府と改称して根拠地としまます。
一方、もと泰州(江蘇省揚州市泰州県)の官塩輸送業者であった張士誠(ちょうしせい)は平江(江蘇省蘇州市)を占領し、呉王を称しました。また、沔陽(湖北省安陸県)の漁家に生まれた陳友諒(ちんゆうりょう)は紅巾の一派徐寿輝(じょじゅき)の軍に投じます。徐寿輝は江州(江西省江州市)に都を置き漢王を称しますが、陳友諒は徐寿輝を殺害してみずから漢王になります。
元末、江南に三国が生まれますが、平江は当時、江南第一の富裕をほこり、文化の蓄積する古都でした。張士誠の呉国のもと、平江には一時的に文運が興隆し、後世「呉中四傑」と称される楊基(ようき)・張羽・徐憤・高啓(こうけい)らが活躍します。なかでも高啓は明初の大詩人と称され、通常「呉中四傑」からを明の詩人とします。
楊基(1326ー1378)は嘉定(四川省楽山県)の人。泰平帝の泰平三年(1326)に平江呉県(江蘇省蘇州市)で生まれ、長じて張士誠に仕えます。高啓よりは十歳の年長で、呉中詩壇の指導的立場にいました。四十三歳のとき明が建国し、招かれて過湖広使、山西安察使になります。十年のあいだに幾度も左遷され、洪武十一年(1378)に配地でなくなりました。享年五十三歳です。
詩題の「感懐」には胸の奥に秘めている思いをのべるという意味があります。左遷されたときの作とされ、はじめの四句は体験からえた処世の知恵、生きるための心がまえを述べます。「諌」は目上の者に対する諌言で、「深言すれば 友誼虧く」と合わせてかなりの人間不信です。つぎの四句では前段の処世訓を具体的に説明します。「蘗」は薬用の木の皮で、非常ににがいものです。にがい言葉はやめて甘い言葉だけを話すことが世渡りの知恵だといいます。
結び四句の「我が身上の衣を振わん」は世俗の塵を払うこと。つまり官職への執着を断つという意味です。面倒な政事の世界とは距離を置いて、わが身を正しく持することが男らしい態度であるといい、他人の過ちや失敗を論じてはならないと激しい言葉で結びます。自戒の言葉であり、佞臣への憤りもこめられており、遺言ともいえる詩です。
感懐十四首 其六 感懐十四首 其の六
位卑諌勿直 位(くらい)卑(ひく)ければ 諌(かん) 直(ちょく)なること勿(なか)れ
直諌君心疑 直諌(ちょくかん)すれば 君心(くんしん)疑う
交浅言勿深 交わり浅ければ 言(げん) 深くすること勿れ
深言友誼虧 深言(しんげん)すれば 友誼(ゆうぎ)虧(か)く
諤諤衆所悪 諤諤(がくがく)たるは 衆(しゅう)の悪(にく)む所
況復違逆之 況(いわ)んや復(ま)た之(こ)れに違逆(いぎゃく)するをや
豈不利於行 豈(あ)に行いに利せんとして
吐蘗而含飴 蘗(きはだ)を吐いて飴(あめ)を含まざらんや
朝登千仞崗 朝(あした)に千仞(せんじん)の崗(おか)に登り
振我身上衣 我が身上(しんじょう)の衣(ころも)を振わん
丈夫貴自潔 丈夫(じょうふ)は自(みずか)ら潔(きよ)くするを貴(たっと)ぶ
毋論他人非 他人の非を論ずること毋(なか)れ
⊂訳⊃
位が低いときは 直接に諌言してはならない
直諌すれば 天子の心に疑いがうまれる
親しくない人と 立ち入った話はしないほうがよい
立ち入った話は 友情を損なう
遠慮会釈の無い話は 人のいやがるもの
人の意見に逆らえば なおさらのことだ
自分のゆく道に 有利なように
苦い言葉を捨て 甘い口調にこころがけよう
朝起きたら 高い岡に登って
自分の衣の 塵を払おう
立派な男は みずからを清く保つもの
他人の失敗を論じたりしてはならない
⊂ものがたり⊃ 元末の紅巾の乱で、定遠(安徽省定遠県)の土豪郭子興(かくしこう)の軍に投じた朱元璋は、郭子興の死後、その部衆をひきいて江南に移り、至正十六年(1356)に集慶路(江蘇省南京市)を占領、応天府と改称して根拠地としまます。
一方、もと泰州(江蘇省揚州市泰州県)の官塩輸送業者であった張士誠(ちょうしせい)は平江(江蘇省蘇州市)を占領し、呉王を称しました。また、沔陽(湖北省安陸県)の漁家に生まれた陳友諒(ちんゆうりょう)は紅巾の一派徐寿輝(じょじゅき)の軍に投じます。徐寿輝は江州(江西省江州市)に都を置き漢王を称しますが、陳友諒は徐寿輝を殺害してみずから漢王になります。
元末、江南に三国が生まれますが、平江は当時、江南第一の富裕をほこり、文化の蓄積する古都でした。張士誠の呉国のもと、平江には一時的に文運が興隆し、後世「呉中四傑」と称される楊基(ようき)・張羽・徐憤・高啓(こうけい)らが活躍します。なかでも高啓は明初の大詩人と称され、通常「呉中四傑」からを明の詩人とします。
楊基(1326ー1378)は嘉定(四川省楽山県)の人。泰平帝の泰平三年(1326)に平江呉県(江蘇省蘇州市)で生まれ、長じて張士誠に仕えます。高啓よりは十歳の年長で、呉中詩壇の指導的立場にいました。四十三歳のとき明が建国し、招かれて過湖広使、山西安察使になります。十年のあいだに幾度も左遷され、洪武十一年(1378)に配地でなくなりました。享年五十三歳です。
詩題の「感懐」には胸の奥に秘めている思いをのべるという意味があります。左遷されたときの作とされ、はじめの四句は体験からえた処世の知恵、生きるための心がまえを述べます。「諌」は目上の者に対する諌言で、「深言すれば 友誼虧く」と合わせてかなりの人間不信です。つぎの四句では前段の処世訓を具体的に説明します。「蘗」は薬用の木の皮で、非常ににがいものです。にがい言葉はやめて甘い言葉だけを話すことが世渡りの知恵だといいます。
結び四句の「我が身上の衣を振わん」は世俗の塵を払うこと。つまり官職への執着を断つという意味です。面倒な政事の世界とは距離を置いて、わが身を正しく持することが男らしい態度であるといい、他人の過ちや失敗を論じてはならないと激しい言葉で結びます。自戒の言葉であり、佞臣への憤りもこめられており、遺言ともいえる詩です。