元21ー劉基
春 蚕 春 蚕
可笑春蚕独苦辛 笑う可(べ)し 春蚕(しゅんさん)の 独り苦辛(くしん)するを
為誰成繭却焚身 誰(た)が為に繭(まゆ)を成(な)して 却(かえ)って身を焚(や)かるる
不如無用蜘蛛網 如(し)かず 無用の蜘蛛(くも)の網の
網尽蜚虫不畏人 蜚虫(ひちゅう)を網尽(もうじん)して 人を畏(おそ)れざるに
⊂訳⊃
おかしなことだ 春の蚕はひとり齷齪と苦労して
誰にために繭を作り 煮られてしまうのか
蚕は蜘蛛に及ばない 蜘蛛の巣は人の役にたたず
虫を捕らえつくして 人を恐れるようすもない
⊂ものがたり⊃ 元の苛政に追いつめられた農民の一部は新興宗教の白蓮教に救いを求めるようになります。順帝の至元三年(1337)二月、胡閏児(こじゅんじ)を首領とする白蓮教徒は信陽州(河南省羅山県)で蜂起しますが、ひと月あまりで鎮圧されます。しかし、至正四年(1344)に起こった黄河の大氾濫などもあり、農地は七年間も水浸しになって河南の農民はさらなる困苦に追いやられます。
至正十一年(1351)、劉福通(りゅうふくつう)ら白蓮の徒は各地で挙兵し、河南は動乱の地と化します。この動乱のなかで生まれた各地の武装集団(そのなかには地主階級の自衛集団もありました)は、至正十六年(1356)ころから拠点を江南に移すようになります。そのなかで三雄と称されるのが朱元璋(しゅげんしょう)、張士誠(ちょうしせい)、陳有諒(ちんゆうりょう)です。
小国の並立によって江南には一時的な平和が生まれ、元の支配から独立します。元末明初の詩人はこの動乱のなかを生き、両朝を経験するわけですが、ここでは劉基(りゅうき)と袁凱(えんがい)までを元末の詩人として扱います。
劉基(1311ー1375)は青田(浙江省青田県)の人。仁宗が即位する至大四年(1311)に官家に生まれ、寧宗の至順四年(1333)、二十三歳で進士に及第します。この年は六月に順帝が即位し、十月には改元されて元統になります。官途についた劉基は学者、文人として名声が高まりますが、混迷する政事に嫌気がさして隠退、故郷に帰ります。
のちに朱元璋の招きに応じてその覇業を助けました。明が建国した洪武元年(1368)に五十八歳でした。明に仕えて御史中丞兼太史令に任じられ誠意伯を贈られますが、宰相の胡惟庸(こいよう)に陥れられて洪武八年(1375)に獄中で憤死します。毒殺されたという説もあり、享年六十五歳です。
詩題の「春蚕」は春の蚕月の蚕のこと。蚕は桑の葉を食べて繭をつくりますが、絹糸を取るために煮られてしまいます。蚕とおなじように糸をだして網を張る蜘蛛は人の役に立たず、昆虫を捕らえて平然としています。蚕のように身を擦り減らして人の役に立つよりは、人の思惑などは気にせずに自分のためだけに生きている蜘蛛の方がましな生き方ではないかと、報われない自分の人生を自嘲するのです。
元22ー劉基
五月十九日大雨 五月十九日 大いに雨ふる
風駆急雨灑高城 風 急雨(きゅうう)を駆(か)って高城(こうじょう)に灑(そそ)がしめ
雲圧軽雷殷地声 雲 軽雷(けいらい)を圧して地を殷(ふるわ)すの声
雨過不知龍去処 雨過ぎて 龍の去る処(ところ)を知らず
一池草色万蛙鳴 一池(いっち) 草色(そうしょく) 万蛙(ばんあ)鳴く
⊂訳⊃
風は雨を駆り立て 高楼に降りそそぐ
雲は雷を起こして 地に雷鳴を轟かす
雨がやんで龍神は どこへいってしまったのか
一個の池 青い草 鳴いているのは無数の蛙
⊂ものがたり⊃ 詩題の「五月十九日」は不明です。その日に大雨が降ったのでしょう。前半二句で風雨を描きますが、寓意を含んでいます。風・雨・雲は乱世や困難な境遇の喩えで、元末の動乱をさします。転句で雨はやみ、平和がもどってきますが、龍はどこへいってしまったのかわかりません。龍は天子のことであり、元の皇帝のことでしょう。
結句の「一池」は難解で、一はひとにぎり、わずかなの意味があり、価値観を含めてほんのわずかという感じがあります。「草色」は青で、下級官吏の衣裳の色です。「蛙」は小人物の喩えであり、龍がいなくなった小さな世界で小物が騒いでいるだけだと諷します。(2016.5.9)
春 蚕 春 蚕
可笑春蚕独苦辛 笑う可(べ)し 春蚕(しゅんさん)の 独り苦辛(くしん)するを
為誰成繭却焚身 誰(た)が為に繭(まゆ)を成(な)して 却(かえ)って身を焚(や)かるる
不如無用蜘蛛網 如(し)かず 無用の蜘蛛(くも)の網の
網尽蜚虫不畏人 蜚虫(ひちゅう)を網尽(もうじん)して 人を畏(おそ)れざるに
⊂訳⊃
おかしなことだ 春の蚕はひとり齷齪と苦労して
誰にために繭を作り 煮られてしまうのか
蚕は蜘蛛に及ばない 蜘蛛の巣は人の役にたたず
虫を捕らえつくして 人を恐れるようすもない
⊂ものがたり⊃ 元の苛政に追いつめられた農民の一部は新興宗教の白蓮教に救いを求めるようになります。順帝の至元三年(1337)二月、胡閏児(こじゅんじ)を首領とする白蓮教徒は信陽州(河南省羅山県)で蜂起しますが、ひと月あまりで鎮圧されます。しかし、至正四年(1344)に起こった黄河の大氾濫などもあり、農地は七年間も水浸しになって河南の農民はさらなる困苦に追いやられます。
至正十一年(1351)、劉福通(りゅうふくつう)ら白蓮の徒は各地で挙兵し、河南は動乱の地と化します。この動乱のなかで生まれた各地の武装集団(そのなかには地主階級の自衛集団もありました)は、至正十六年(1356)ころから拠点を江南に移すようになります。そのなかで三雄と称されるのが朱元璋(しゅげんしょう)、張士誠(ちょうしせい)、陳有諒(ちんゆうりょう)です。
小国の並立によって江南には一時的な平和が生まれ、元の支配から独立します。元末明初の詩人はこの動乱のなかを生き、両朝を経験するわけですが、ここでは劉基(りゅうき)と袁凱(えんがい)までを元末の詩人として扱います。
劉基(1311ー1375)は青田(浙江省青田県)の人。仁宗が即位する至大四年(1311)に官家に生まれ、寧宗の至順四年(1333)、二十三歳で進士に及第します。この年は六月に順帝が即位し、十月には改元されて元統になります。官途についた劉基は学者、文人として名声が高まりますが、混迷する政事に嫌気がさして隠退、故郷に帰ります。
のちに朱元璋の招きに応じてその覇業を助けました。明が建国した洪武元年(1368)に五十八歳でした。明に仕えて御史中丞兼太史令に任じられ誠意伯を贈られますが、宰相の胡惟庸(こいよう)に陥れられて洪武八年(1375)に獄中で憤死します。毒殺されたという説もあり、享年六十五歳です。
詩題の「春蚕」は春の蚕月の蚕のこと。蚕は桑の葉を食べて繭をつくりますが、絹糸を取るために煮られてしまいます。蚕とおなじように糸をだして網を張る蜘蛛は人の役に立たず、昆虫を捕らえて平然としています。蚕のように身を擦り減らして人の役に立つよりは、人の思惑などは気にせずに自分のためだけに生きている蜘蛛の方がましな生き方ではないかと、報われない自分の人生を自嘲するのです。
元22ー劉基
五月十九日大雨 五月十九日 大いに雨ふる
風駆急雨灑高城 風 急雨(きゅうう)を駆(か)って高城(こうじょう)に灑(そそ)がしめ
雲圧軽雷殷地声 雲 軽雷(けいらい)を圧して地を殷(ふるわ)すの声
雨過不知龍去処 雨過ぎて 龍の去る処(ところ)を知らず
一池草色万蛙鳴 一池(いっち) 草色(そうしょく) 万蛙(ばんあ)鳴く
⊂訳⊃
風は雨を駆り立て 高楼に降りそそぐ
雲は雷を起こして 地に雷鳴を轟かす
雨がやんで龍神は どこへいってしまったのか
一個の池 青い草 鳴いているのは無数の蛙
⊂ものがたり⊃ 詩題の「五月十九日」は不明です。その日に大雨が降ったのでしょう。前半二句で風雨を描きますが、寓意を含んでいます。風・雨・雲は乱世や困難な境遇の喩えで、元末の動乱をさします。転句で雨はやみ、平和がもどってきますが、龍はどこへいってしまったのかわかりません。龍は天子のことであり、元の皇帝のことでしょう。
結句の「一池」は難解で、一はひとにぎり、わずかなの意味があり、価値観を含めてほんのわずかという感じがあります。「草色」は青で、下級官吏の衣裳の色です。「蛙」は小人物の喩えであり、龍がいなくなった小さな世界で小物が騒いでいるだけだと諷します。(2016.5.9)