元17ー楊維禎
廬山瀑布謡 廬山の瀑布の謡
銀河忽如瓠子決 銀河 忽(こつ)として瓠子(こし)の決せるが如く
瀉諸五老之峰前 諸(これ)を五老の峰前(ほうぜん)に瀉(そそ)ぐ
我疑天仙織素練 我れ疑う 天仙(てんせん) 素練(それん)を織り
素練脱軸垂青天 素練 軸(じく)を脱して青天(せいてん)に垂(た)るるかと
便欲手把并州剪 便(すなわ)ち欲す 手に并州(へいしゅう)の剪(せん)を把(と)り
剪取一幅玻璃煙 一幅(いっぷく)の玻璃煙(はりえん)を剪取(せんしゅ)せんことを
相逢雲石子 雲石子(うんせきし)に相逢(あいあ)えば
有似捉月仙 捉月(そくげつ)の仙に似たる有り
酒喉無耐夜渇甚 酒喉(しゅこう) 耐うる無し 夜渇(やかつ)の甚(はなはだ)しきに
騎鯨吸海枯桑田 鯨に騎(の)り 海を吸って桑田(そうでん)を枯れしむ
居然化作十万丈 居然(きょぜん) 化して作(な)る 十万丈
玉虹倒挂清冷淵 玉虹(ぎょくこう) 倒(さかしま)に挂(かか)る 清冷の淵
⊂訳⊃
天の川が 瓠子で決壊したかのように
水は流れて 五老峰の前にそそぐ
天界の仙女が白絹を織っていて
軸からはずれた白絹が 青空に垂れたかと思う
そこで私は 并州の刃物を手にとって
煌めく靄を 切りとろうと思った
夢のなかで 雲石子に出会うと
捉月の詩仙 李白のようだった
酒に酔って 夜 喉の渇きに耐えきれず
鯨に乗って海水を飲み 桑畑を枯らしてしまう
するとどうだ 水は十万丈の瀧となり
逆さに煌めく虹のように 清らかな淵の上にかかっている
⊂ものがたり⊃ 楊維禎(よういてい:1296ー1370)は山陰(浙江省紹興市)の人。南宋の都臨安陥落の二十年後、成宗の元貞二年(1296)に生まれました。泰定帝の泰定四年(1327)、三十二歳のときに進士に及第します。自由奔放な性格のために官は建徳路総管府推官にとどまりました。
元末の動乱が江南におよぶと、乱を避けて銭塘(浙江省杭州市)に移り住みます。明が建国した翌年の洪武二年(1369)に洪武帝の召しをうけ、老齢を理由に出仕しなませんでしたが、咎めをうけずに帰郷することを赦されました。その翌年になくなり、享年七十五歳です。
詩題の「廬山」(ろざん)は江州(江西省九江市)の南にある景勝地で、詩跡の地です。「瀑布」は瀧のことで、李白に有名な詩があることから、そのパロディを作ったのでしょう。自注に夢のなかで廬山に登って作ったとあり、奇想天外な詩であることを韜晦しています。
前後六句に分かれ、はじめの六句はいろいろな比喩をもちいて廬山の瀧を描きます。「瓠子」は地名で、漢の武帝のとき瓠子で黄河が決壊しました。「五老之峰」は廬山の有名な峰で、五人の老人が立っているように見えることからその名があります。三句目の「我れ疑う」は錯覚すること。天上界の仙女が白絹を織っていて、それが機織り機の軸をはずれて「青天に垂るる」かと思われました。そこで「并州の剪」(太原名産の刃物)で「玻璃煙」(硝子のように煌めく靄)、つまり中空に懸かる瀧の帯を切り取りたくなったと詠います。
後半は一転してすでに世を去った友人の「雲石子」(貫雲石)が出てきます。貫雲石はウイグル人(色目人)で、元朝に仕えましたが詩文のほか散曲にも才能を発揮しました。散曲はモンゴル系の曲、演劇場で歌われた歌曲です。夢のなかで貫雲石と出会いましたが、かれは「捉月仙」のようでした。捉月の仙とは李白のことで、李白は舟に乗って水に映った月を捉まえようとし落ちて死んだといわれています。
李白も酒を愛しましたが、夢のなかで「雲石子」もかなり酒を飲んでいたらしく、夜中の喉の渇きに堪え切れずに鯨に乗って海の水を飲み干してしまいます。そのため桑畑も干からびます。
最後の二句でイメージはさらに逆転します。「居然」は思いがけないことが起こるときに用いる語で、廬山の瀧を雲石子が呑みほした水の変化したものに喩えます。雲石子が水を吐き出しているというのです。この詩は「謡」とあるように舞台のうえで歌曲に合わせた劇が演じられたとみられ、パロディの面白さをみせる詩です。
廬山瀑布謡 廬山の瀑布の謡
銀河忽如瓠子決 銀河 忽(こつ)として瓠子(こし)の決せるが如く
瀉諸五老之峰前 諸(これ)を五老の峰前(ほうぜん)に瀉(そそ)ぐ
我疑天仙織素練 我れ疑う 天仙(てんせん) 素練(それん)を織り
素練脱軸垂青天 素練 軸(じく)を脱して青天(せいてん)に垂(た)るるかと
便欲手把并州剪 便(すなわ)ち欲す 手に并州(へいしゅう)の剪(せん)を把(と)り
剪取一幅玻璃煙 一幅(いっぷく)の玻璃煙(はりえん)を剪取(せんしゅ)せんことを
相逢雲石子 雲石子(うんせきし)に相逢(あいあ)えば
有似捉月仙 捉月(そくげつ)の仙に似たる有り
酒喉無耐夜渇甚 酒喉(しゅこう) 耐うる無し 夜渇(やかつ)の甚(はなはだ)しきに
騎鯨吸海枯桑田 鯨に騎(の)り 海を吸って桑田(そうでん)を枯れしむ
居然化作十万丈 居然(きょぜん) 化して作(な)る 十万丈
玉虹倒挂清冷淵 玉虹(ぎょくこう) 倒(さかしま)に挂(かか)る 清冷の淵
⊂訳⊃
天の川が 瓠子で決壊したかのように
水は流れて 五老峰の前にそそぐ
天界の仙女が白絹を織っていて
軸からはずれた白絹が 青空に垂れたかと思う
そこで私は 并州の刃物を手にとって
煌めく靄を 切りとろうと思った
夢のなかで 雲石子に出会うと
捉月の詩仙 李白のようだった
酒に酔って 夜 喉の渇きに耐えきれず
鯨に乗って海水を飲み 桑畑を枯らしてしまう
するとどうだ 水は十万丈の瀧となり
逆さに煌めく虹のように 清らかな淵の上にかかっている
⊂ものがたり⊃ 楊維禎(よういてい:1296ー1370)は山陰(浙江省紹興市)の人。南宋の都臨安陥落の二十年後、成宗の元貞二年(1296)に生まれました。泰定帝の泰定四年(1327)、三十二歳のときに進士に及第します。自由奔放な性格のために官は建徳路総管府推官にとどまりました。
元末の動乱が江南におよぶと、乱を避けて銭塘(浙江省杭州市)に移り住みます。明が建国した翌年の洪武二年(1369)に洪武帝の召しをうけ、老齢を理由に出仕しなませんでしたが、咎めをうけずに帰郷することを赦されました。その翌年になくなり、享年七十五歳です。
詩題の「廬山」(ろざん)は江州(江西省九江市)の南にある景勝地で、詩跡の地です。「瀑布」は瀧のことで、李白に有名な詩があることから、そのパロディを作ったのでしょう。自注に夢のなかで廬山に登って作ったとあり、奇想天外な詩であることを韜晦しています。
前後六句に分かれ、はじめの六句はいろいろな比喩をもちいて廬山の瀧を描きます。「瓠子」は地名で、漢の武帝のとき瓠子で黄河が決壊しました。「五老之峰」は廬山の有名な峰で、五人の老人が立っているように見えることからその名があります。三句目の「我れ疑う」は錯覚すること。天上界の仙女が白絹を織っていて、それが機織り機の軸をはずれて「青天に垂るる」かと思われました。そこで「并州の剪」(太原名産の刃物)で「玻璃煙」(硝子のように煌めく靄)、つまり中空に懸かる瀧の帯を切り取りたくなったと詠います。
後半は一転してすでに世を去った友人の「雲石子」(貫雲石)が出てきます。貫雲石はウイグル人(色目人)で、元朝に仕えましたが詩文のほか散曲にも才能を発揮しました。散曲はモンゴル系の曲、演劇場で歌われた歌曲です。夢のなかで貫雲石と出会いましたが、かれは「捉月仙」のようでした。捉月の仙とは李白のことで、李白は舟に乗って水に映った月を捉まえようとし落ちて死んだといわれています。
李白も酒を愛しましたが、夢のなかで「雲石子」もかなり酒を飲んでいたらしく、夜中の喉の渇きに堪え切れずに鯨に乗って海の水を飲み干してしまいます。そのため桑畑も干からびます。
最後の二句でイメージはさらに逆転します。「居然」は思いがけないことが起こるときに用いる語で、廬山の瀧を雲石子が呑みほした水の変化したものに喩えます。雲石子が水を吐き出しているというのです。この詩は「謡」とあるように舞台のうえで歌曲に合わせた劇が演じられたとみられ、パロディの面白さをみせる詩です。