元15ー王冕
墨 梅 墨 梅
我家洗硯池頭樹 我が家(いえ) 硯(すずり)を洗う 池頭(ちとう)の樹(き)
朶朶花開淡墨痕 朶朶(だだ) 花開けば墨痕(ぼっこん)淡し
不要人誇顔色好 要(もと)めず 人の 顔色(がんしょく)の好(よろ)しきを誇る
只留清気満乾坤 只(た)だ留む 清気(せいき)の 乾坤(けんこん)に満つるを
⊂訳⊃
わが家では 池のほとりの木の下で硯を洗う
花が咲けば 梅の花びらに淡い墨の色
花の色を 私は自慢したいとは思っていない
望むのは 清らかな香気が天地に満ちることだけだ
⊂ものがたり⊃ 元は大都にすべての富を集める交易国家で、京師に厖大な消費需要が発生します。支配者の奢侈需要を満たすのは海外の輸入品のほか宋代に産業化された江南の特産品です。その取引を通じて江南商人が息を吹き返してきました。
一方、南人・漢人に対する差別はつづいていたので、官途をあきらめた知識人は江南の都市富裕層の趣味や娯楽にかかわることで、文筆家・画家・書家として生きる道を求めていきます。知識人が演劇の台本作成にかかわるようになって、後世に「元曲」と称される雑劇が起こってきます。
こうした状況下で生きた元末の詩人に王冕(おうべん)と楊維禎(よういてい)がいます。
王冕(1287ー1359)は越州諸曁(浙江省諸曁県)の人。世祖の至元二十四年(1287)に生まれ、長じて科挙を受験しましたが及第しませんでした。以後、官途を諦めて全国を放浪します。元代を代表する画家で、花鳥図の発展に貢献しました。画題として梅の花を好み、満開の梅を華麗に表現しました。
絵を売って生活し、晩年は会稽(浙江省紹興市)の九里山麓に庵を結び、梅花庵と名づけて隠棲しました。順帝の至正十九年(1359)になくなり、享年七十三歳です。
詩題の「墨梅」(ぼくばい)は水墨画に描いた梅の花という意味で、自作の梅の絵につけた題画詩です。前半二句の一句目には故事があり、晋の有名な書家王羲之(おうぎし)が住んでいた会稽山の麓の池で硯や筆を洗っていたので、池の水が黒くなったといいます。その故事を踏まえて、池のほとりに咲く梅の花に淡い墨の色がにじみでると詠います。墨の濃淡で描く梅の花ということも意味しています。
眼目は後半二句で、「顔色」は梅の花の出来栄えのことです。花の色がいいと人が「誇る」(褒めたたえる)のは「不要」だといいます。それは梅の花の「清気」(清らかな香気)が「乾坤」(天地)に満ちわたることを大切に思っているからだというのです。「墨梅」を売って暮らしているけれど、心は「清気」に満ちているというのです。
元16ー王冕
応教題梅 教に応じて 梅に題す
剌剌北風吹倒人 剌剌(らつらつ)たる北風(ほくふう) 吹いて人を倒す
乾坤無処不沙塵 乾坤(けんこん) 処(ところ)として 沙塵(さじん)ならざるは無し
胡児凍死長城下 胡児(こじ) 凍死(とうし)す 長城の下(もと)
誰信江南別有春 誰か信ぜん 江南(こうなん) 別に春有りと
⊂訳⊃
吹きつのる北風は 人を吹き倒し
天にも地にも 砂ぼこりが舞っている
長城の辺では 胡族の若者が凍えて死んでいる
誰が信じよう 江南に特別の春が来たことを
⊂ものがたり⊃ 詩題の「教(きょう)に応じて」は王族や皇太子の求めに応じて作った詩という意味で、梅の絵に書きつけた題画詩です。朱元璋(しゅげんしょう)の求めに応じたものといわれており、元末の動乱が江南に移るのは至正十六年(1356)ですので、それ以後の作品でしょう。
前半二句は元末のひどい世相を比喩的に詠います。「剌剌」は激しい風の形容、「北風」はモンゴル兵の比喩でしょう。後半二句は河北と江南の比較です。河北では万里の長城の下で胡族の若者が凍え死にしているが、江南ではこれまでとは違う春がやってきたと、元と戦う朱元璋をたたえます。
墨 梅 墨 梅
我家洗硯池頭樹 我が家(いえ) 硯(すずり)を洗う 池頭(ちとう)の樹(き)
朶朶花開淡墨痕 朶朶(だだ) 花開けば墨痕(ぼっこん)淡し
不要人誇顔色好 要(もと)めず 人の 顔色(がんしょく)の好(よろ)しきを誇る
只留清気満乾坤 只(た)だ留む 清気(せいき)の 乾坤(けんこん)に満つるを
⊂訳⊃
わが家では 池のほとりの木の下で硯を洗う
花が咲けば 梅の花びらに淡い墨の色
花の色を 私は自慢したいとは思っていない
望むのは 清らかな香気が天地に満ちることだけだ
⊂ものがたり⊃ 元は大都にすべての富を集める交易国家で、京師に厖大な消費需要が発生します。支配者の奢侈需要を満たすのは海外の輸入品のほか宋代に産業化された江南の特産品です。その取引を通じて江南商人が息を吹き返してきました。
一方、南人・漢人に対する差別はつづいていたので、官途をあきらめた知識人は江南の都市富裕層の趣味や娯楽にかかわることで、文筆家・画家・書家として生きる道を求めていきます。知識人が演劇の台本作成にかかわるようになって、後世に「元曲」と称される雑劇が起こってきます。
こうした状況下で生きた元末の詩人に王冕(おうべん)と楊維禎(よういてい)がいます。
王冕(1287ー1359)は越州諸曁(浙江省諸曁県)の人。世祖の至元二十四年(1287)に生まれ、長じて科挙を受験しましたが及第しませんでした。以後、官途を諦めて全国を放浪します。元代を代表する画家で、花鳥図の発展に貢献しました。画題として梅の花を好み、満開の梅を華麗に表現しました。
絵を売って生活し、晩年は会稽(浙江省紹興市)の九里山麓に庵を結び、梅花庵と名づけて隠棲しました。順帝の至正十九年(1359)になくなり、享年七十三歳です。
詩題の「墨梅」(ぼくばい)は水墨画に描いた梅の花という意味で、自作の梅の絵につけた題画詩です。前半二句の一句目には故事があり、晋の有名な書家王羲之(おうぎし)が住んでいた会稽山の麓の池で硯や筆を洗っていたので、池の水が黒くなったといいます。その故事を踏まえて、池のほとりに咲く梅の花に淡い墨の色がにじみでると詠います。墨の濃淡で描く梅の花ということも意味しています。
眼目は後半二句で、「顔色」は梅の花の出来栄えのことです。花の色がいいと人が「誇る」(褒めたたえる)のは「不要」だといいます。それは梅の花の「清気」(清らかな香気)が「乾坤」(天地)に満ちわたることを大切に思っているからだというのです。「墨梅」を売って暮らしているけれど、心は「清気」に満ちているというのです。
元16ー王冕
応教題梅 教に応じて 梅に題す
剌剌北風吹倒人 剌剌(らつらつ)たる北風(ほくふう) 吹いて人を倒す
乾坤無処不沙塵 乾坤(けんこん) 処(ところ)として 沙塵(さじん)ならざるは無し
胡児凍死長城下 胡児(こじ) 凍死(とうし)す 長城の下(もと)
誰信江南別有春 誰か信ぜん 江南(こうなん) 別に春有りと
⊂訳⊃
吹きつのる北風は 人を吹き倒し
天にも地にも 砂ぼこりが舞っている
長城の辺では 胡族の若者が凍えて死んでいる
誰が信じよう 江南に特別の春が来たことを
⊂ものがたり⊃ 詩題の「教(きょう)に応じて」は王族や皇太子の求めに応じて作った詩という意味で、梅の絵に書きつけた題画詩です。朱元璋(しゅげんしょう)の求めに応じたものといわれており、元末の動乱が江南に移るのは至正十六年(1356)ですので、それ以後の作品でしょう。
前半二句は元末のひどい世相を比喩的に詠います。「剌剌」は激しい風の形容、「北風」はモンゴル兵の比喩でしょう。後半二句は河北と江南の比較です。河北では万里の長城の下で胡族の若者が凍え死にしているが、江南ではこれまでとは違う春がやってきたと、元と戦う朱元璋をたたえます。