元10ー薩都刺
雨 傘 雨 傘
開如輪 合如束 開けば輪(わ)の如く 合(がっ)すれば束(そく)の如く
剪紙調膏護秋竹 紙を剪(き)り 膏(あぶら)を調(ととの)えて秋竹(しゅうちく)を護る
日中荷葉影亭亭 日中の荷葉(かよう) 影亭亭(かげていてい)
雨裏芭蕉声簌簌 雨裏の芭蕉(ばしょう) 声簌簌(こえそくそく)
晴天却陰雨却晴 晴天(せいてん) 却(かえ)って陰(くも)り 雨 却って晴る
二天之説誠分明 二天(にてん)の説 誠(まこと)に分明(ぶんめい)
但操大柄掌在手 但(た)だ大柄(たいへい)を操(と)り 掌(つかさど)ること手に在らば
覆尽東西南北行 東西 南北を覆(おお)い尽(つ)くして行く
⊂訳⊃
開けば車輪のようで 閉じれば絹の束のよう
絹を裁ち油を塗って 竹の骨のまわりに張りつける
日射の中の蓮の葉のように くっきりと影をおとし
雨の日の芭蕉の葉のように かさかさと音をたてる
晴れた日には日陰をつくり 雨の日には晴となり
人に二天があるという説は 傘をみればよくわかる
傘の太い柄を しっかり握っていれば
東西南北どこへでも 傘に守られて行くことができる
⊂ものがたり⊃ 元の元首は皇族および有力軍団長のクリルタイで選ばれ、皇位継承法が確立していませんでした。そのため権臣の新帝擁立争いが激化し、擁立に成功した権臣の専横が激しくなります。名門色目人の家に生まれた薩都刺(さっとら)はそうした政事の混迷時代を生きた詩人です。
薩都刺(1300?ー1355?)はウイグル族タシマン(回教幹部)氏出の色目人といいますが、代々軍人の家柄で雁門(山西省代県)に住んでいました。父は世祖フビライに仕え、軍功によって山西道冀寧路雁門の鎮将になりました。
薩都刺も雁門で生まれ、泰定帝の泰定四年(1327)に二十八歳くらいで進士に及第します。御史になりますが直言のために左遷され、淮西江北道廉訪司などの地方属官を転々とします。順帝の至元二年(1336)に閩海廉訪知事になり、福州(福建省福州市)に赴任します。中央にもどって翰林院学士になりますが、晩年は杭州(浙江省杭州市)に住んで自適の生活を送りました。
元末の紅巾の乱は順帝の至正十六年(1356)に江北から江南に拡大します。その前年の至正十五年(1355)ころ、薩都刺は乱の拡大するのを見ながらなくなります。享年五十六歳くらいです。
詩題の「雨傘」(うさん)は珍しい題です。詠物詩に属しますが、傘を借りて権力者への警告を述べます。七言八句の詩ですが、前後で換韻する古詩です。まずはじめの二句で傘の形やつくりを描きます。「束」は束帛(そくはく)のことで十反の絹を一束にまとめたものです。つづく対句は傘の効用で、傘は日傘にもなり雨傘にもなります。
後半四句では作者の思いが述べられます。傘をひらけば傘の上と下では別の空間が生まれますが、そのことから「二天の説」が分明になると説きます。「二天」とは二番目の天ということで、人には天子の恩についで恩人や世話になった人の恩があります。傘の働きをみれば、天の恵みのほかに、傘はもうひとつの天のように人に便宜をあたえてくれることが分かるといい、結び二句の警告に結びつけます。
権力を握る者が傘の柄を握るように権力をしっかりと支えていれば、人は東西南北どこへでも傘に守られて行くことができます。それは天子の恩に加えて、よい政事を行う道であると説くのです。
元11ー薩都刺
過居庸関 居庸関を過る
居庸関 山蒼蒼 居庸関(きょようかん) 山は蒼蒼(そうそう)たり
関南暑多関北涼 関南(かんなん)は暑さ多(はなは)だしく 関北(かんほく)は涼し
天門暁開虎豹臥 天門(てんもん) 暁(あかつき)に開けば 虎豹(こひょう)臥(ふ)し
石鼓昼撃雲雷張 石鼓(せきこ) 昼に撃(う)てば 雲雷(うんらい)張る
関門鋳鉄半空倚 関門(かんもん)の鋳鉄(ちゅうてつ)は半空(はんくう)に倚(よ)り
古来幾多壮士死 古来(こらい) 幾多(いくた)の壮士(そうし)死す
草根白骨棄不収 草根(そうこん)の白骨は 棄てて収めず
冷雨陰風泣山鬼 冷雨(れいう)陰風(いんぷう)に山鬼(さんき)泣く
道傍老翁八十余 道傍(どうぼう)の老翁(ろうおう) 八十余
短衣白髪扶犂鋤 短衣(たんい) 白髪(はくはつ) 犂鋤(りじょ)に扶(すが)る
路人立馬問前事 路人(ろじん) 馬を立てて前事(ぜんじ)を問えば
猶能歴歴言邱墟 猶(な)お能(よ)く歴歴(れきれき)と邱墟(きゅうきょ)を言う
夜来芟豆得戈鉄 夜来(やらい) 豆を芟(か)って戈鉄(かてつ)を得たり
雨蝕風吹半稜折 雨に蝕(むしば)まれ風に吹かれて半稜(はんりょう)折る
鉄腥惟帯土花青 鉄腥(てつせい) 惟(た)だ土花(どか)を帯びて青く
猶是将軍戦時血 猶(な)お是(こ)れ将軍の戦時(せんじ)の血
前年又復鉄作門 前年 又(ま)た復(ま)た 鉄もて門を作り
貔貅万竃如雲屯 貔貅(ひきゅう) 万竃(ばんそう) 雲の如く屯(たむろ)す
生者有功掛玉印 生ける者は功(こう)有って玉印(ぎょくいん)を掛け
死者誰復招孤魂 死せる者は 誰(たれ)か復(ま)た孤魂(ここん)を招かんと
居庸関 何崢崢 居庸関 何ぞ崢崢(そうそう)たる
上天胡不呼六丁 上天(じょうてん) 胡(なん)ぞ六丁(りくてい)を呼んで
駆之海外消甲兵 之(こ)れを海外に駆って 甲兵(こうへい)を消さざる
男耕女織天下平 男は耕(たがや)し女は織れば 天下は平(たいら)かにして
千古万古無戦争 千古(せんこ)万古(ばんこ) 戦争無からん
⊂訳⊃
居庸関の山は 蒼黒くそびえ
関門の南は暑く 北は涼しい
夜明けに門を開けると 虎や豹がうずくまり
昼間に太鼓をたたけば 雲湧き雷は鳴りわたる
鋳鉄の門扉は 空にそそり立ち
幾多の戦士が この地で死んだ
白骨は 草の根元に捨ておかれ
冷たい夜の風雨のなか 亡霊は哭き叫ぶ
道端に立つ八十余歳の老翁は
短衣白髪 鋤にすがって杖とする
馬を止め 昔のことを尋ねると
廃虚で起こった出来事を 事細かに話してくれた
「昨夜 豆の収穫中 鉄の戈先を拾ったが
風雨にさらされ かどは半分折れていた
鉄の錆は 土にまみれて青く
戦のときについた 血の痕であろう
先年は 鉄で門扉を作りなおし
勇猛果敢な兵士が 雲のように駐屯する
生き残った者は 手柄をたて恩賞にあずかるが
死者の孤独な魂を 誰が祀ってくれるのか」と
居庸関の なんと高く険しいことか
どうして天帝は 六丁の神に命じ
関所を海に追放し 武器や兵士をなくさないのか
男が耕し 女が機を織れば天下太平
未来永劫 戦はなくなるであろう
⊂ものがたり⊃ 第六代皇帝泰定帝が致和元年(1328)に上都開平府で崩じると、元には二帝が立って内戦となりました。上都で擁立された天順帝と大都で懐王を擁立した大都留守のエンテムール、武宗系との対立です。内戦は武宗系の勝利に帰し、天順帝は乱戦のなかで行方不明になります。
ところが今度は勝利した武宗系の内部で懐王(文宗)とその兄の周王との対立が生じます。周王側から武宗系の嫡子である周王を立てるべきとの異議がおこり、文宗は兄に譲位して周王が第八代明宗になります。しかし、明宗は太師エンテムールと対立し、エンテムールに殺害されます。天暦二年(1329)八月、文宗が復位します。
しかし、明宗の嫡子を立てようとする明宗側と文宗を擁する太師エンテムールとの対立は激化し、至順三年(1332)夏、両軍は居庸関で激突し、文宗側の勝利に帰します。詩は昔の戦争のことを物語るような書き方になっていますが、居庸関の戦争の翌年、作者三十四歳のころの作品です。
詩題の「居庸関」は大都(北京)の西北にある関門で、長城の南に位置する軍事上の要衝です。詩は七言二十五句の長詩で四句ずつまとめて読むことができます。はじめの四句は居庸関の描写です。つぎの四句は関門の鉄扉とそのまわりの状況を描きます。散乱する白骨は前年の戦の戦死者でしょう。
つぎの四句で「路人」(通りがかりの男)つまり作者が馬を停め、道端の畑で働いていた老人から話を聞きます。「歴歴」はひとつひとつ明らかなこと。居庸関は「邱墟」(廃墟)として示され、劇仕立てで昔話を聞くかたちになっています。
ついで老人の語る言葉が八句つづきます。はじめの四句は豆を刈っているときに拾った武器の折片の話です。「鉄腥」は鉄錆、「土花」は土に浸食された文様のことで、それが青いのは戦争の血の痕でしょう。つづく四句は「前年」とありますが、鉄で門扉を作りなおし、戦があったことをしめします。「貔貅」は伝説上の猛獣で、勇士の喩えです。
最後の五句は結びで、反戦の言葉です。「六丁」は道教の神で、大力の持ち主といいます。争いの元を海の彼方に追いはらい、「甲兵」(鎧と武器)を消してくれないかと願い、そうすれば農民は男も女も農業に勤しみ、戦争は未来永劫になくなるだろうと詠うのです。
雨 傘 雨 傘
開如輪 合如束 開けば輪(わ)の如く 合(がっ)すれば束(そく)の如く
剪紙調膏護秋竹 紙を剪(き)り 膏(あぶら)を調(ととの)えて秋竹(しゅうちく)を護る
日中荷葉影亭亭 日中の荷葉(かよう) 影亭亭(かげていてい)
雨裏芭蕉声簌簌 雨裏の芭蕉(ばしょう) 声簌簌(こえそくそく)
晴天却陰雨却晴 晴天(せいてん) 却(かえ)って陰(くも)り 雨 却って晴る
二天之説誠分明 二天(にてん)の説 誠(まこと)に分明(ぶんめい)
但操大柄掌在手 但(た)だ大柄(たいへい)を操(と)り 掌(つかさど)ること手に在らば
覆尽東西南北行 東西 南北を覆(おお)い尽(つ)くして行く
⊂訳⊃
開けば車輪のようで 閉じれば絹の束のよう
絹を裁ち油を塗って 竹の骨のまわりに張りつける
日射の中の蓮の葉のように くっきりと影をおとし
雨の日の芭蕉の葉のように かさかさと音をたてる
晴れた日には日陰をつくり 雨の日には晴となり
人に二天があるという説は 傘をみればよくわかる
傘の太い柄を しっかり握っていれば
東西南北どこへでも 傘に守られて行くことができる
⊂ものがたり⊃ 元の元首は皇族および有力軍団長のクリルタイで選ばれ、皇位継承法が確立していませんでした。そのため権臣の新帝擁立争いが激化し、擁立に成功した権臣の専横が激しくなります。名門色目人の家に生まれた薩都刺(さっとら)はそうした政事の混迷時代を生きた詩人です。
薩都刺(1300?ー1355?)はウイグル族タシマン(回教幹部)氏出の色目人といいますが、代々軍人の家柄で雁門(山西省代県)に住んでいました。父は世祖フビライに仕え、軍功によって山西道冀寧路雁門の鎮将になりました。
薩都刺も雁門で生まれ、泰定帝の泰定四年(1327)に二十八歳くらいで進士に及第します。御史になりますが直言のために左遷され、淮西江北道廉訪司などの地方属官を転々とします。順帝の至元二年(1336)に閩海廉訪知事になり、福州(福建省福州市)に赴任します。中央にもどって翰林院学士になりますが、晩年は杭州(浙江省杭州市)に住んで自適の生活を送りました。
元末の紅巾の乱は順帝の至正十六年(1356)に江北から江南に拡大します。その前年の至正十五年(1355)ころ、薩都刺は乱の拡大するのを見ながらなくなります。享年五十六歳くらいです。
詩題の「雨傘」(うさん)は珍しい題です。詠物詩に属しますが、傘を借りて権力者への警告を述べます。七言八句の詩ですが、前後で換韻する古詩です。まずはじめの二句で傘の形やつくりを描きます。「束」は束帛(そくはく)のことで十反の絹を一束にまとめたものです。つづく対句は傘の効用で、傘は日傘にもなり雨傘にもなります。
後半四句では作者の思いが述べられます。傘をひらけば傘の上と下では別の空間が生まれますが、そのことから「二天の説」が分明になると説きます。「二天」とは二番目の天ということで、人には天子の恩についで恩人や世話になった人の恩があります。傘の働きをみれば、天の恵みのほかに、傘はもうひとつの天のように人に便宜をあたえてくれることが分かるといい、結び二句の警告に結びつけます。
権力を握る者が傘の柄を握るように権力をしっかりと支えていれば、人は東西南北どこへでも傘に守られて行くことができます。それは天子の恩に加えて、よい政事を行う道であると説くのです。
元11ー薩都刺
過居庸関 居庸関を過る
居庸関 山蒼蒼 居庸関(きょようかん) 山は蒼蒼(そうそう)たり
関南暑多関北涼 関南(かんなん)は暑さ多(はなは)だしく 関北(かんほく)は涼し
天門暁開虎豹臥 天門(てんもん) 暁(あかつき)に開けば 虎豹(こひょう)臥(ふ)し
石鼓昼撃雲雷張 石鼓(せきこ) 昼に撃(う)てば 雲雷(うんらい)張る
関門鋳鉄半空倚 関門(かんもん)の鋳鉄(ちゅうてつ)は半空(はんくう)に倚(よ)り
古来幾多壮士死 古来(こらい) 幾多(いくた)の壮士(そうし)死す
草根白骨棄不収 草根(そうこん)の白骨は 棄てて収めず
冷雨陰風泣山鬼 冷雨(れいう)陰風(いんぷう)に山鬼(さんき)泣く
道傍老翁八十余 道傍(どうぼう)の老翁(ろうおう) 八十余
短衣白髪扶犂鋤 短衣(たんい) 白髪(はくはつ) 犂鋤(りじょ)に扶(すが)る
路人立馬問前事 路人(ろじん) 馬を立てて前事(ぜんじ)を問えば
猶能歴歴言邱墟 猶(な)お能(よ)く歴歴(れきれき)と邱墟(きゅうきょ)を言う
夜来芟豆得戈鉄 夜来(やらい) 豆を芟(か)って戈鉄(かてつ)を得たり
雨蝕風吹半稜折 雨に蝕(むしば)まれ風に吹かれて半稜(はんりょう)折る
鉄腥惟帯土花青 鉄腥(てつせい) 惟(た)だ土花(どか)を帯びて青く
猶是将軍戦時血 猶(な)お是(こ)れ将軍の戦時(せんじ)の血
前年又復鉄作門 前年 又(ま)た復(ま)た 鉄もて門を作り
貔貅万竃如雲屯 貔貅(ひきゅう) 万竃(ばんそう) 雲の如く屯(たむろ)す
生者有功掛玉印 生ける者は功(こう)有って玉印(ぎょくいん)を掛け
死者誰復招孤魂 死せる者は 誰(たれ)か復(ま)た孤魂(ここん)を招かんと
居庸関 何崢崢 居庸関 何ぞ崢崢(そうそう)たる
上天胡不呼六丁 上天(じょうてん) 胡(なん)ぞ六丁(りくてい)を呼んで
駆之海外消甲兵 之(こ)れを海外に駆って 甲兵(こうへい)を消さざる
男耕女織天下平 男は耕(たがや)し女は織れば 天下は平(たいら)かにして
千古万古無戦争 千古(せんこ)万古(ばんこ) 戦争無からん
⊂訳⊃
居庸関の山は 蒼黒くそびえ
関門の南は暑く 北は涼しい
夜明けに門を開けると 虎や豹がうずくまり
昼間に太鼓をたたけば 雲湧き雷は鳴りわたる
鋳鉄の門扉は 空にそそり立ち
幾多の戦士が この地で死んだ
白骨は 草の根元に捨ておかれ
冷たい夜の風雨のなか 亡霊は哭き叫ぶ
道端に立つ八十余歳の老翁は
短衣白髪 鋤にすがって杖とする
馬を止め 昔のことを尋ねると
廃虚で起こった出来事を 事細かに話してくれた
「昨夜 豆の収穫中 鉄の戈先を拾ったが
風雨にさらされ かどは半分折れていた
鉄の錆は 土にまみれて青く
戦のときについた 血の痕であろう
先年は 鉄で門扉を作りなおし
勇猛果敢な兵士が 雲のように駐屯する
生き残った者は 手柄をたて恩賞にあずかるが
死者の孤独な魂を 誰が祀ってくれるのか」と
居庸関の なんと高く険しいことか
どうして天帝は 六丁の神に命じ
関所を海に追放し 武器や兵士をなくさないのか
男が耕し 女が機を織れば天下太平
未来永劫 戦はなくなるであろう
⊂ものがたり⊃ 第六代皇帝泰定帝が致和元年(1328)に上都開平府で崩じると、元には二帝が立って内戦となりました。上都で擁立された天順帝と大都で懐王を擁立した大都留守のエンテムール、武宗系との対立です。内戦は武宗系の勝利に帰し、天順帝は乱戦のなかで行方不明になります。
ところが今度は勝利した武宗系の内部で懐王(文宗)とその兄の周王との対立が生じます。周王側から武宗系の嫡子である周王を立てるべきとの異議がおこり、文宗は兄に譲位して周王が第八代明宗になります。しかし、明宗は太師エンテムールと対立し、エンテムールに殺害されます。天暦二年(1329)八月、文宗が復位します。
しかし、明宗の嫡子を立てようとする明宗側と文宗を擁する太師エンテムールとの対立は激化し、至順三年(1332)夏、両軍は居庸関で激突し、文宗側の勝利に帰します。詩は昔の戦争のことを物語るような書き方になっていますが、居庸関の戦争の翌年、作者三十四歳のころの作品です。
詩題の「居庸関」は大都(北京)の西北にある関門で、長城の南に位置する軍事上の要衝です。詩は七言二十五句の長詩で四句ずつまとめて読むことができます。はじめの四句は居庸関の描写です。つぎの四句は関門の鉄扉とそのまわりの状況を描きます。散乱する白骨は前年の戦の戦死者でしょう。
つぎの四句で「路人」(通りがかりの男)つまり作者が馬を停め、道端の畑で働いていた老人から話を聞きます。「歴歴」はひとつひとつ明らかなこと。居庸関は「邱墟」(廃墟)として示され、劇仕立てで昔話を聞くかたちになっています。
ついで老人の語る言葉が八句つづきます。はじめの四句は豆を刈っているときに拾った武器の折片の話です。「鉄腥」は鉄錆、「土花」は土に浸食された文様のことで、それが青いのは戦争の血の痕でしょう。つづく四句は「前年」とありますが、鉄で門扉を作りなおし、戦があったことをしめします。「貔貅」は伝説上の猛獣で、勇士の喩えです。
最後の五句は結びで、反戦の言葉です。「六丁」は道教の神で、大力の持ち主といいます。争いの元を海の彼方に追いはらい、「甲兵」(鎧と武器)を消してくれないかと願い、そうすれば農民は男も女も農業に勤しみ、戦争は未来永劫になくなるだろうと詠うのです。