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ティェンタオの自由訳漢詩 元ー宋无

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 元6ー宋无
    旱郷田父言             旱郷の田父の言

  痩牛病喘餓桑間   痩牛(そうぎゅう)は病み喘(あえ)いで  桑間(そうかん)に餓(う)え
  碌碡閑眠麦地乾   碌碡(ろくどく)は閑(かん)に眠り     麦地(ばくち)乾く
  残税駆将児子去   残税(ざんぜい)  児子(じし)を駆り将(も)て去り
  豆畦却倩草人看   豆畦(とうけい)  却って草人(そうじん)を倩(やと)って看(まも)らしむ

  ⊂訳⊃
          痩せ牛は病気であえぎ  桑畑で餓えている

          桑畑はからからに乾き  ひき臼は寝転がる

          税の滞納で  息子は人夫に駆りだされ

          豆畑の畦に  案山子を立てて見張らせる


 ⊂ものがたり⊃ 征服王朝元の行政事務は世の中が落ちついて来るにしたがって増える一方でした。そのため実務を担当する中下級官僚の採用制度として吏員歳貢制が行われるようになります。しかし、その試験科目は公文書の取り扱いや算術といったもので、科挙で要求された学力とは比較にならない低俗なものでした。
 あわせて暗黙のうちにモンゴル人・色目人・漢人・南人の区別が生まれてきます。この区別は人種をしめすというより王朝との隸属関係を意味しており、色目人(しきもくじん)は広い意味での西域人で、フランキと称された欧州人も含まれます。
 漢人は契丹人や女真人・高麗人のほか、金の領内に住んでいた漢民族も含み、旧金の支配下にあった者という意味です。南宋の住民は南人と称され、最下層の取り扱いを受けました。
 吏員歳貢制が要求するような知識で詩を作ることはできません。そんななか、劉因、趙孟頫につづいて宋无(そうむ)、范梈(はんほう)、掲傒剘(けいけいし)といった詩人が登場します。
 宋无(1260ー1340)は晋陵(江蘇省武進県)の人。十七歳のときに宋都臨安が陥落します。生涯を野にすごし、八十歳になった順帝の至元五年(1339)に茂才(秀才)にあげられますが、親が老いたからといって受けませんでした。その翌年になくなり、享年八十一歳でした。
 詩題の「旱郷」(かんきょう)は旱害に遭った村のことです。「田夫」は農夫のことで、農夫にかわって農民の苦しみを詠います。「碌碡」は石や木で作ったローラー状のもので、牛や驢馬に引かせて地ならしや穀物を碾くのに用いました。「草人」は案山子のことですが、「碌碡」も「草人」も擬人化されているところに皮肉があります。ですが、一番いいたいのは「残税 児子を駆り将て去り」の部分でしょう。

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