元3ー趙孟頫
絶 句 絶 句
春寒惻惻掩重門 春寒(しゅんかん) 惻惻(そくそく)として 重門(ちょうもん)を掩(おお)う
金鴨香残火尚温 金鴨(きんおう) 香(こう)残(ざん)して 火 尚(な)お温(あたた)かし
燕子不来花又落 燕子(えんし) 来たらず 花 又(ま)た落ち
一庭風雨自黄昏 一庭(いってい)の風雨 自(おのず)から黄昏(こうこん)
⊂訳⊃
春の寒さはひえびえとして 屋敷の諸門をおおう
香炉は消えかけているが まだ温もりはある
春なのに燕は訪れず 花も散ってしまった
庭いちめんの風雨の音 今日も日暮れが訪れる
⊂ものがたり⊃ 趙孟頫(ちょうもうふ:1254ー1322)は湖州呉江(浙江省湖州市)の人。南宋理宗の宝祐二年(1254)に宋室の子孫の家に生まれました。二十三歳のとき都臨安が陥落して亡国の民になります。世祖フビライの至元二十三年(1286)、三十三歳のときに召されて元に仕えますが、しばしば地方勤務を願い出て中央を離れました。
官は翰林学士に至り、詩壇の代表的な詩人として指導的な立場に立つようになります。書画においても史上有数の大家と目され、世祖・成宗・武宗・仁宗の時代を生きました。英宗の至治二年(1322)になくなり、享年六十九歳です。
詩題の「絶句」(ぜっく)は七言絶句の意味であれば、無題と同じです。詩は恋愛詩の形をとっていますが含意があり、わざと題をつけなかったのかも知れません。はじめ二句は早春の日暮れのわが家のようすです。
「重門」は屋敷内の門のことで、中国の邸宅は入口の門のほか、敷地内をを区切る塀と門があちこちにありました。「金鴨」は鴨をかたどった銅製の香炉で、消えかかっていますがまだ火の気はあります。感覚的で淋しい出だしです。
後半の「燕子」はほっそりした女性の喩えになるので、好きな人がきてくれないと解することができます。しかし、「落花」や「風雨」は失望や苦難の暗示でもありますので、望む世がこないと解することもできます。自分の人生は逆境のまま黄昏を迎えるのかと、失意の心情を詠っているとみることもできるでしょう。
元4ー趙孟頫
岳鄂王墓 岳鄂王の墓
鄂王墳上草離離 鄂王(がくおう)の墳上(ふんじょう) 草離離(りり)たり
秋日荒涼石獣危 秋日(しゅうじつ)荒涼として石獣(せきじゅう)危(たか)し
南渡君臣軽社稷 南渡(なんと)の君臣 社稷(しゃしょく)を軽(かろ)んじ
中原父老望旌旗 中原の父老(ふろう) 旌旗(せいき)を望む
英雄已死嗟何及 英雄 已(すで)に死して 嗟(なげ)くも何ぞ及ばん
天下中分遂不支 天下 中分(ちゅうぶん) 遂に支(ささ)えず
莫向西湖歌此曲 西湖(せいこ)に向かって此の曲を歌うこと莫(なか)れ
水光山色不勝悲 水光(すいこう) 山色(さんしょく) 悲しみに勝(た)えず
⊂訳⊃
岳飛の墓のうえに 草は一面にはびこり
秋の陽は侘びしく 石獣だけが聳えている
南宋の君臣たちは 国家を軽んじ
中原の父老たちは 天子の軍隊を待ち望んでいた
だが英雄は殺され 嘆いても元にもどりはしない
天下は二分されて 持ちこたえられなくなっていた
西湖のあたりで この詩を詠うのはやめたまえ
水の光も山の色も 悲しみをそそるだけだ
⊂ものがたり⊃ 詩題の「岳鄂王」(がくがくおう)は南宋初期の忠臣岳飛(がくひ)のことです。岳飛は金と戦って武功がありましたが、講和派の秦檜(しんかい)に毒殺されます。孝宗のときに名誉が回復され、鄂王の称号を贈られました。作者が西湖(浙江省杭州市)の畔にある岳飛の墓に詣でたときの作でしょう。
はじめの二句は鄂王墓のようすです。墳丘は草に蔽われ、秋の陽が「石獣」を照らしているだけです。当時は王侯貴族の墓前に石造の獣をならべる風習がありました。
中四句は南宋の平和主義を批判し、岳飛ら抗金派が亡くなったあとの衰亡を思います。「南渡の君臣」は金に圧迫されて江南に逃れた南宋の君臣のことです。「社稷」は土地の神と穀物の神、転じて国家を意味します。「中原の父老」は北に残された漢民族の長老たちで、宋の軍隊が攻めのぼってくるのを待ち望んでいました。「英雄」は岳飛をさし、愛国の英雄が死んでしまって「嗟くも何ぞ及ばん」と現実にたちもどります。天下は南北に分断されて、南宋も国を持ちこたえることができなかったと祖国の滅亡を省みるのです。
最後の二句は感懐で、西湖の近くでこの詩を詠うのはやめたまえといいます。「水光山色」は蘇軾の詩句を踏まえており、詠えば西湖の水の光も山の色も悲しみに包まれてしまうと嘆きます。趙孟頫は元に仕えていましたが、心は亡国の悲しみに満ちていました。
元5ー趙孟頫
金陵雨花台遂至 金陵の雨花台 遂に故
故人劉叔亮墓 人劉叔亮の墓に至る
雨花台上看晴空 雨花台上(うかだいじょう) 晴空(せいくう)を看(み)る
万里風煙入望中 万里の風煙(ふうえん) 望中(ぼうちゅう)に入る
人物車書南北混 人物(じんぶつ)も車書(しゃしょ)も南北混(こん)じ
山川襟帯古今同 山川(さんせん)の襟帯(きんたい) 古今(ここん)同じ
昆虫未蟄霜先隕 昆虫(こんちゅう) 未(いま)だ蟄(こも)らずして 霜 先ず隕(お)ち
鳳鳥不鳴江自東 鳳鳥(ほうちょう) 鳴かずして 江(こう) 自(おのず)から東(ひがし)す
緑髪劉伶縁酔死 緑髪(りょくはつ)の劉伶(りゅうれい) 酔(よい)に縁(よ)って死す
往尋荒塚酬西風 往(ゆ)いて荒塚(こうちょう)を尋ね 西風(せいふう)に酬(むく)ゆ
⊂訳⊃
雨花台に上って 晴れた空を眺めると
万里のかなた 風も霞も一望できる
天下統一により 人も物も車も文字も南北入り混じるが
山川の風景は いまも昔と変わらない
虫が籠らない内に はやく霜がおり
鳳凰は鳴く事なく 長江は東に流れるだけ
まだ黒髪の劉伶は 酒を飲み過ぎて死んだ
荒れた墓に詣でて 秋風のなか酒をたむける
⊂ものがたり⊃ 詩題の「雨花台」は「金陵」(建康:江蘇省南京市)の南門外にある平らな丘です。そこにある旧友劉叔亮(りゅうしゅくりょう:伝不詳)の墓に詣でたときの作で、はじめの二句は雨花台上のひろびろとした眺めを詠っています。
中四句の「人物も車書も南北混じ」は天下統一によって人・物・車・書がひとつになることです。「山川の襟帯」は山川にかこまれた風景のことで、金陵はその典型の地でした。南宋の皇室につらなる者としては「国破れて山河あり」(杜甫「春望」)の心境であったでしょう。
「昆虫 未だ蟄らずして 霜 先ず隕ち」は虫が冬ごもりをしないうちに霜がおりることですが、劉叔亮の早逝を喩えるものです。「鳳鳥」は聖天子の御代に現れるとされる神鳥ですので、鳳凰が鳴くようなめでたいことも起こらずにただ長江が流れているだけだと詠います。友もいなくなり心躍ることもない世の中を嘆くのでしょう。
最後の二句の「緑髪の劉伶」は劉叔亮を喩えるもので、晋の詩人劉伶は長生きしたのに劉叔亮は若死にであったので「緑髪」といいます。劉叔亮は劉伶のような酒好きであったらしく、「西風」(秋風)のなか荒れた墓に酒を注いでとむらったと詠います。(2016.3.20)
絶 句 絶 句
春寒惻惻掩重門 春寒(しゅんかん) 惻惻(そくそく)として 重門(ちょうもん)を掩(おお)う
金鴨香残火尚温 金鴨(きんおう) 香(こう)残(ざん)して 火 尚(な)お温(あたた)かし
燕子不来花又落 燕子(えんし) 来たらず 花 又(ま)た落ち
一庭風雨自黄昏 一庭(いってい)の風雨 自(おのず)から黄昏(こうこん)
⊂訳⊃
春の寒さはひえびえとして 屋敷の諸門をおおう
香炉は消えかけているが まだ温もりはある
春なのに燕は訪れず 花も散ってしまった
庭いちめんの風雨の音 今日も日暮れが訪れる
⊂ものがたり⊃ 趙孟頫(ちょうもうふ:1254ー1322)は湖州呉江(浙江省湖州市)の人。南宋理宗の宝祐二年(1254)に宋室の子孫の家に生まれました。二十三歳のとき都臨安が陥落して亡国の民になります。世祖フビライの至元二十三年(1286)、三十三歳のときに召されて元に仕えますが、しばしば地方勤務を願い出て中央を離れました。
官は翰林学士に至り、詩壇の代表的な詩人として指導的な立場に立つようになります。書画においても史上有数の大家と目され、世祖・成宗・武宗・仁宗の時代を生きました。英宗の至治二年(1322)になくなり、享年六十九歳です。
詩題の「絶句」(ぜっく)は七言絶句の意味であれば、無題と同じです。詩は恋愛詩の形をとっていますが含意があり、わざと題をつけなかったのかも知れません。はじめ二句は早春の日暮れのわが家のようすです。
「重門」は屋敷内の門のことで、中国の邸宅は入口の門のほか、敷地内をを区切る塀と門があちこちにありました。「金鴨」は鴨をかたどった銅製の香炉で、消えかかっていますがまだ火の気はあります。感覚的で淋しい出だしです。
後半の「燕子」はほっそりした女性の喩えになるので、好きな人がきてくれないと解することができます。しかし、「落花」や「風雨」は失望や苦難の暗示でもありますので、望む世がこないと解することもできます。自分の人生は逆境のまま黄昏を迎えるのかと、失意の心情を詠っているとみることもできるでしょう。
元4ー趙孟頫
岳鄂王墓 岳鄂王の墓
鄂王墳上草離離 鄂王(がくおう)の墳上(ふんじょう) 草離離(りり)たり
秋日荒涼石獣危 秋日(しゅうじつ)荒涼として石獣(せきじゅう)危(たか)し
南渡君臣軽社稷 南渡(なんと)の君臣 社稷(しゃしょく)を軽(かろ)んじ
中原父老望旌旗 中原の父老(ふろう) 旌旗(せいき)を望む
英雄已死嗟何及 英雄 已(すで)に死して 嗟(なげ)くも何ぞ及ばん
天下中分遂不支 天下 中分(ちゅうぶん) 遂に支(ささ)えず
莫向西湖歌此曲 西湖(せいこ)に向かって此の曲を歌うこと莫(なか)れ
水光山色不勝悲 水光(すいこう) 山色(さんしょく) 悲しみに勝(た)えず
⊂訳⊃
岳飛の墓のうえに 草は一面にはびこり
秋の陽は侘びしく 石獣だけが聳えている
南宋の君臣たちは 国家を軽んじ
中原の父老たちは 天子の軍隊を待ち望んでいた
だが英雄は殺され 嘆いても元にもどりはしない
天下は二分されて 持ちこたえられなくなっていた
西湖のあたりで この詩を詠うのはやめたまえ
水の光も山の色も 悲しみをそそるだけだ
⊂ものがたり⊃ 詩題の「岳鄂王」(がくがくおう)は南宋初期の忠臣岳飛(がくひ)のことです。岳飛は金と戦って武功がありましたが、講和派の秦檜(しんかい)に毒殺されます。孝宗のときに名誉が回復され、鄂王の称号を贈られました。作者が西湖(浙江省杭州市)の畔にある岳飛の墓に詣でたときの作でしょう。
はじめの二句は鄂王墓のようすです。墳丘は草に蔽われ、秋の陽が「石獣」を照らしているだけです。当時は王侯貴族の墓前に石造の獣をならべる風習がありました。
中四句は南宋の平和主義を批判し、岳飛ら抗金派が亡くなったあとの衰亡を思います。「南渡の君臣」は金に圧迫されて江南に逃れた南宋の君臣のことです。「社稷」は土地の神と穀物の神、転じて国家を意味します。「中原の父老」は北に残された漢民族の長老たちで、宋の軍隊が攻めのぼってくるのを待ち望んでいました。「英雄」は岳飛をさし、愛国の英雄が死んでしまって「嗟くも何ぞ及ばん」と現実にたちもどります。天下は南北に分断されて、南宋も国を持ちこたえることができなかったと祖国の滅亡を省みるのです。
最後の二句は感懐で、西湖の近くでこの詩を詠うのはやめたまえといいます。「水光山色」は蘇軾の詩句を踏まえており、詠えば西湖の水の光も山の色も悲しみに包まれてしまうと嘆きます。趙孟頫は元に仕えていましたが、心は亡国の悲しみに満ちていました。
元5ー趙孟頫
金陵雨花台遂至 金陵の雨花台 遂に故
故人劉叔亮墓 人劉叔亮の墓に至る
雨花台上看晴空 雨花台上(うかだいじょう) 晴空(せいくう)を看(み)る
万里風煙入望中 万里の風煙(ふうえん) 望中(ぼうちゅう)に入る
人物車書南北混 人物(じんぶつ)も車書(しゃしょ)も南北混(こん)じ
山川襟帯古今同 山川(さんせん)の襟帯(きんたい) 古今(ここん)同じ
昆虫未蟄霜先隕 昆虫(こんちゅう) 未(いま)だ蟄(こも)らずして 霜 先ず隕(お)ち
鳳鳥不鳴江自東 鳳鳥(ほうちょう) 鳴かずして 江(こう) 自(おのず)から東(ひがし)す
緑髪劉伶縁酔死 緑髪(りょくはつ)の劉伶(りゅうれい) 酔(よい)に縁(よ)って死す
往尋荒塚酬西風 往(ゆ)いて荒塚(こうちょう)を尋ね 西風(せいふう)に酬(むく)ゆ
⊂訳⊃
雨花台に上って 晴れた空を眺めると
万里のかなた 風も霞も一望できる
天下統一により 人も物も車も文字も南北入り混じるが
山川の風景は いまも昔と変わらない
虫が籠らない内に はやく霜がおり
鳳凰は鳴く事なく 長江は東に流れるだけ
まだ黒髪の劉伶は 酒を飲み過ぎて死んだ
荒れた墓に詣でて 秋風のなか酒をたむける
⊂ものがたり⊃ 詩題の「雨花台」は「金陵」(建康:江蘇省南京市)の南門外にある平らな丘です。そこにある旧友劉叔亮(りゅうしゅくりょう:伝不詳)の墓に詣でたときの作で、はじめの二句は雨花台上のひろびろとした眺めを詠っています。
中四句の「人物も車書も南北混じ」は天下統一によって人・物・車・書がひとつになることです。「山川の襟帯」は山川にかこまれた風景のことで、金陵はその典型の地でした。南宋の皇室につらなる者としては「国破れて山河あり」(杜甫「春望」)の心境であったでしょう。
「昆虫 未だ蟄らずして 霜 先ず隕ち」は虫が冬ごもりをしないうちに霜がおりることですが、劉叔亮の早逝を喩えるものです。「鳳鳥」は聖天子の御代に現れるとされる神鳥ですので、鳳凰が鳴くようなめでたいことも起こらずにただ長江が流れているだけだと詠います。友もいなくなり心躍ることもない世の中を嘆くのでしょう。
最後の二句の「緑髪の劉伶」は劉叔亮を喩えるもので、晋の詩人劉伶は長生きしたのに劉叔亮は若死にであったので「緑髪」といいます。劉叔亮は劉伶のような酒好きであったらしく、「西風」(秋風)のなか荒れた墓に酒を注いでとむらったと詠います。(2016.3.20)