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ティェンタオの自由訳漢詩 元ー劉因

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 元1ー劉因
    観梅有感            梅を観て感有り

  東風吹落戦塵沙   東風(とうふう) 吹き落とす戦塵沙(せんじんさ)
  夢想西湖処士家   夢に想う    西湖(せいこ)  処士(しょし)の家
  只恐江南春意減   只(た)だ恐る  江南(こうなん)  春意(しゅんい)の減ぜんことを
  此心元不為梅花   此の心  元(もと)  梅花(ばいか)の為ならず

  ⊂訳⊃
          春風が  戦の塵を吹き散らす

          夢の中で思うのは  西湖のほとりの林逋の家

          江南の春の情趣が  失われるのが心配だ

          だが  私の心配は  梅の花のことだけではない


 ⊂ものがたり⊃ 元の建国については歴史書にゆだねます。チンギス汗の孫、第五代フビライ汗(世祖)は大汗になった年(1260)に年号を中統と定めます。金の旧都燕京の東北部に接して大規模な都城の建設をすすめ、至元四年(1267)に都城は成って大都大興府と命名、首都とします。南宋を滅ぼして中国全土を支配下に置くのは至元十六年(1279)のことです。
 フビライ汗は科挙を廃止し、モンゴル人による支配をめざしますが、中央・地方の行政機構がととのってくると、厖大な行政事務をモンゴル人だけで捌くのは困難になります。そこで実務担当の中下級官僚が必要になり、召されて官途に就く知識人があらわれます。当初は名のある知識人が縁故や指名によって迎えられましたが、その地位は能力にふさわしいものではありませんでした。
 モンゴルの官に就いた知識人は屈辱的な地位に堪えきれず辞職して野に生きる者、屈辱に堪えて出世の道を模索する者と生き方に違いが生じてきます。劉因(りゅういん)と趙孟頫(ちょうもうふ)は元初における知識人のふたつの生き方を代表する詩人です。
 劉因(1249ー1293)は保定容城(河北省清苑県の東北)の人。第三代グユク汗が亡くなった翌年(1249)に生まれ、世祖フビライの至元十九年(1282)、三十四歳のときに召されて官途につきます。承徳郎、賛善大夫になりますが、辞して故郷に隠棲し、以後、召しに応ぜず、世祖から「召されざる臣」といわれました。至元三十年(1293)になくなり、享年四十五歳です。
 詩題に「観梅」(かんばい)とありますが、モンゴルへの抵抗精神が秘められています。起句の「戦塵沙」は梅の花が「東風」(春風)に揺れているのをみても、戦の塵を払っているように見えると詠うのです。「処士の家」は北宋時代に西湖のほとりに隠棲していた林逋(りんぽ:北宋ー林逋のブログ参照)の庵のことで、梅の詩で有名でした。つまり、あのころは戦もなく街は繁栄していたと往時を思うのです。
 後半は江南の春の趣が損なわれるのではないかと愁えるのですが、その愁いは「梅花の為ならず」と漢民族の将来が心配であることを匂わせます。

 元2ー劉因
     山 家                山  家

  馬蹄踏水乱明霞   馬蹄(ばてい)    水を踏んで  明霞(めいか)を乱し
  酔袖迎風受落花   酔袖(すいしゅう)  風を迎えて  落花(らっか)を受く
  怪見渓童出門望   怪(あやし)んで見る  渓童(けいどう)の門を出でて望むを
  鵲声先我到山家   鵲声(じゃくせい)  我れに先んじて山家(さんか)に到る

  ⊂訳⊃
          馬を小川に乗りいれると  水面の空はちぢに乱れ

          酔った私の袖は  風をはらんで落花を受けとめる

          谷間の家の子が  門でわたしを出迎える

          変だと思ったら   鵲の声がさきに着いていた


 ⊂ものがたり⊃ 詩題に「山家」とあるのは隠棲の家のことでしょう。職を辞して郷里の家についたときの作かもしれません。春風のなか馬に乗って家に向かいます。小川に乗りいれ舞い散る花びらのなかをすすむ姿は意気揚々としています。「渓童」は谷間の家に残してきた息子と思われ、門にでて父親の帰りを迎えています。
 中国では鵲が騒ぐと旅人が帰ってくると信じられており、鵲が報せてくれたのかのかと驚いてみせます。杜甫の詩「羌村」に「柴門 鳥雀噪ぎ 帰客 千里より至る」とあり、「鳥雀」はかささぎのことですので、杜甫の羌村帰着を意識しているのでしょう。(2016.3.13) 

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