金6ー元好問
雁門道中書所見 雁門道中 見る所を書す
金城留旬浹 金城(きんじょう) 留まること旬(しゅん)に浹(あまね)く
兀兀酔歌舞 兀兀(ごつごつ)として 酔うて歌舞(かぶ)す
出門覧民風 門を出(い)でて 民風(みんぷう)を覧(み)れば
慘慘愁肺腑 慘慘(さんさん)として 肺腑(はいふ)を愁えしむ
去年夏秋旱 去年 夏秋(かしゅう) 旱(ひでり)ありしが
七月黍穟吐 七月 黍穟(しょすい)吐(は)く
一昔営幕来 一昔(いっせき) 営幕(えいばく)してより
天明但平土 天明(てんめい) 但(た)だ平土(へいど)
調度急星火 調度(ちょうど) 星火(せいか)より急なり
逋負迫捶楚 逋負(ほふ) 捶楚(すいそ)もて迫らる
網羅方高懸 網羅(もうら) 方(まさ)に高く懸(かか)る
楽国果何所 楽国(らくこく) 果して何(いず)れの所ぞ
食禾有百螣 禾(か)を食(くら)う 百螣(ひゃくとく)有り
択肉非一虎 肉を択(えら)ぶは一虎(いっこ)に非(あら)ず
呼天天不聞 天を呼べども天は聞かず
感諷復何補 感諷(かんぷう) 復(ま)た何ぞ補(おぎな)わん
単衣者誰子 単衣(たんい)の者は誰(た)が子ぞ
販糴就南府 販糴(はんてき)して南府(なんぷ)に就(つ)く
傾身営一飽 身を傾けて一飽(いっぽう)を営む
豈楽遠服賈 豈(あ)に遠く賈(こ)に服するを楽しまんや
盤盤雁門道 盤盤(ばんばん)たる雁門(がんもん)の道
雪澗深以阻 雪澗(せっかん)は深くして以(もっ)て阻(そ)なり
半嶺逢駆車 半嶺(はんれい) 車を駆(か)るに逢(あ)う
人牛一何苦 人も牛も一(いつ)に何ぞ苦しき
⊂訳⊃
金城の町に 十日滞在した
城内はみな 歌と踊りに酔い痴れている
城門をでて 民の暮らしをみると
慘憺たる様 胸がつぶれるほどだ
去年は夏から秋へと 日照りがつづき
七月になってやっと 黍の穂がでた
だがある夜 兵隊がきて宿営すると
地上の物は 一晩で無くなってしまう
税の徴収は 流れ星よりも急で
滞納者は 笞で責め立てられる
法の網は 高く張りめぐらされ
天国はいったい どこにあるのか
稲を食らう虫は いくらでもおり
人肉を漁る虎は 一匹や二匹ではない
天に扶けを求めるが聴いてはもらえず
詩で諷刺しても なんの足しにもならない
寒空に単衣の者は どこの人か
物を米に換えんと 南の街へゆく
身を粉に稼いでも しばしの空腹をしのぐだけ
遠い街での商売を 好きでやっているわけではない
曲がりくねった雁門の道よ
雪の谷間は 深くてけわしい
峠の途中で 車を牽く男とあったが
人も牛も なんとつらいことか
⊂ものがたり⊃ モンゴル軍に拘留されていた元好問は、三年間ほど抑留されたあと釈放されます。元に仕えることを求められますが、受けずに隠棲しました。詩題の「雁門」(がんもん)は山西省代県の雁門山のことで、金が滅んで七年後、元の太宗の十三年(1241)に大同(山西省大同)から「金城」(山西省応県)をへて故郷の太原へむかう途中の見聞をえがいた詩です。
はじめの四句は序の部分で、十日ほど滞在した金城の内外のようすをのべます。「兀兀」は岩山などの高く聳えるさまをいうことから、盛んなことを意味します。城内ではモンゴル人が酒宴を楽しんでおり、城外に出れば農民の暮らし振りは悲惨です。
つぎの四句は農民の悲惨の原因をのべるもので、去年の旱魃で凶作に見舞われていましたが、モンゴル兵がきて宿営すると、一夜ですべては無くなってしまいます。つぎの四句は徴税の苛酷なことです。「調度」は徴税、「逋負」は租税を滞納することで、「捶楚」は笞です。「網羅」は網で、のこりなく収める意味があります。
つぎの四句では徴税の苛酷と不正を比喩で述べます。「百螣」は穀物を食い荒らす害虫。「択肉」は美味しい肉を選んで食べることですが、ここでは強い若者を選んで役夫に挑発することです。「感諷」は感懐と諷刺で詩を意味し、自分の無力を嘆くのでしょう。
つぎの八句は視点がかわり、雁門道で寒空に単衣を着て車を引いている男にあいます。「販糴」は物を売ることと米を買うことで、衣類などを「南府」(南の都会)に持っていって米に換えようというのです。それも空腹のためにやっていることで、「豈に遠く賈に服するを楽しまんや」と同情します。「半嶺」(峠の途中)で出逢った牛車は、引く人も牛もなんと辛いことかと亡国の民の苦労を嘆くのです。
金7ー元好問
野史亭雨夜感興 野史亭の雨夜 感興
私録関赴告 私録(しろく) 赴告(ふこく)に関(かか)わる
求野或有取 野(や)に求むれば 或いは取ること有らん
秋兎一寸毫 秋兎(しゅうと) 一寸の毫(ごう)
尽力不易挙 力を尽くすも 挙ぐるに易(やす)からず
衰遅私自惜 衰遅(すいち) 私(ひそ)かに自ら惜(おし)むも
憂畏当誰語 憂畏(ゆうい) 当(まさ)に誰(たれ)にか語るべき
展転天未明 展転(てんてん) 天 未(いま)だ明けず
幽窓響疏雨 幽窓(ゆうそう) 疏雨(そう)響く
⊂訳⊃
個人の記録も 国家の大事におよぶことがある
民間の資料が 将来役に立つかも知れないのだ
秋の兎の細い毛 それでつくった小さな筆で
力を尽くしても 成果をあげるのは難しい
老衰したことを 人知れず残念に思うが
この悩み不安を だれに話したらいいのだろうか
寝返りを打つが 夜はまだ明けきらず
静かな窓辺に 小雨の音がする
⊂ものがたり⊃ 元好問は残された人生を金代の詩集の編纂と歴史記録の史料収集にささげます。詩集は六十歳のときに完成しましたが。『金史』は生前にはでき上がらず、史料が残されました。
詩題の「野史亭」(やしてい)は元好問が隠居した家の書斎の名です。金代の詩集である『中州集』を完成した二年後、つぎの仕事として歴史の執筆に取りかかりますがなかなかはかどりません。そのことを嘆いた詩です。
まずはじめに自分の仕事の意義をのべます。「私録」は公の記録に対する民間の記録。「赴告」は国家の大事を報せることで、民間の記録ではあるが国家の大事におよぶことがあるといいます。だから将来の王朝が正史を編纂するとき民間に資料を求めることがあれば、自分の著作も役に立つかもしれないというのです。
その仕事がなかなか捗らないというのがつぎの二句で、「秋兎 一寸の毫」というのは兎の秋毫(秋になって細くなった毛)でつくった筆のことです。小さな筆(微力な自分)で力をつくしても成果をあげることは難しいと嘆きます。
つぎの二句は仕事の捗らない理由と焦り、孤独感をのべます。そして結びの二句、眠られずに寝返りをうちますが、夜はまだ明けようとしません。静かな窓辺に小雨の音が響いています。
元好問が亡くなったのは第四代ムンケ汗の七年(1257)で、享年六十八歳です。モンゴルはその年、南宋再征の軍を起こしていました。残された史料は元王朝が金の正史を編纂したときに利用され、金史のほとんどの部分は元好問の残した原稿がそのまま使われたといわれています。(2016.3.9)
雁門道中書所見 雁門道中 見る所を書す
金城留旬浹 金城(きんじょう) 留まること旬(しゅん)に浹(あまね)く
兀兀酔歌舞 兀兀(ごつごつ)として 酔うて歌舞(かぶ)す
出門覧民風 門を出(い)でて 民風(みんぷう)を覧(み)れば
慘慘愁肺腑 慘慘(さんさん)として 肺腑(はいふ)を愁えしむ
去年夏秋旱 去年 夏秋(かしゅう) 旱(ひでり)ありしが
七月黍穟吐 七月 黍穟(しょすい)吐(は)く
一昔営幕来 一昔(いっせき) 営幕(えいばく)してより
天明但平土 天明(てんめい) 但(た)だ平土(へいど)
調度急星火 調度(ちょうど) 星火(せいか)より急なり
逋負迫捶楚 逋負(ほふ) 捶楚(すいそ)もて迫らる
網羅方高懸 網羅(もうら) 方(まさ)に高く懸(かか)る
楽国果何所 楽国(らくこく) 果して何(いず)れの所ぞ
食禾有百螣 禾(か)を食(くら)う 百螣(ひゃくとく)有り
択肉非一虎 肉を択(えら)ぶは一虎(いっこ)に非(あら)ず
呼天天不聞 天を呼べども天は聞かず
感諷復何補 感諷(かんぷう) 復(ま)た何ぞ補(おぎな)わん
単衣者誰子 単衣(たんい)の者は誰(た)が子ぞ
販糴就南府 販糴(はんてき)して南府(なんぷ)に就(つ)く
傾身営一飽 身を傾けて一飽(いっぽう)を営む
豈楽遠服賈 豈(あ)に遠く賈(こ)に服するを楽しまんや
盤盤雁門道 盤盤(ばんばん)たる雁門(がんもん)の道
雪澗深以阻 雪澗(せっかん)は深くして以(もっ)て阻(そ)なり
半嶺逢駆車 半嶺(はんれい) 車を駆(か)るに逢(あ)う
人牛一何苦 人も牛も一(いつ)に何ぞ苦しき
⊂訳⊃
金城の町に 十日滞在した
城内はみな 歌と踊りに酔い痴れている
城門をでて 民の暮らしをみると
慘憺たる様 胸がつぶれるほどだ
去年は夏から秋へと 日照りがつづき
七月になってやっと 黍の穂がでた
だがある夜 兵隊がきて宿営すると
地上の物は 一晩で無くなってしまう
税の徴収は 流れ星よりも急で
滞納者は 笞で責め立てられる
法の網は 高く張りめぐらされ
天国はいったい どこにあるのか
稲を食らう虫は いくらでもおり
人肉を漁る虎は 一匹や二匹ではない
天に扶けを求めるが聴いてはもらえず
詩で諷刺しても なんの足しにもならない
寒空に単衣の者は どこの人か
物を米に換えんと 南の街へゆく
身を粉に稼いでも しばしの空腹をしのぐだけ
遠い街での商売を 好きでやっているわけではない
曲がりくねった雁門の道よ
雪の谷間は 深くてけわしい
峠の途中で 車を牽く男とあったが
人も牛も なんとつらいことか
⊂ものがたり⊃ モンゴル軍に拘留されていた元好問は、三年間ほど抑留されたあと釈放されます。元に仕えることを求められますが、受けずに隠棲しました。詩題の「雁門」(がんもん)は山西省代県の雁門山のことで、金が滅んで七年後、元の太宗の十三年(1241)に大同(山西省大同)から「金城」(山西省応県)をへて故郷の太原へむかう途中の見聞をえがいた詩です。
はじめの四句は序の部分で、十日ほど滞在した金城の内外のようすをのべます。「兀兀」は岩山などの高く聳えるさまをいうことから、盛んなことを意味します。城内ではモンゴル人が酒宴を楽しんでおり、城外に出れば農民の暮らし振りは悲惨です。
つぎの四句は農民の悲惨の原因をのべるもので、去年の旱魃で凶作に見舞われていましたが、モンゴル兵がきて宿営すると、一夜ですべては無くなってしまいます。つぎの四句は徴税の苛酷なことです。「調度」は徴税、「逋負」は租税を滞納することで、「捶楚」は笞です。「網羅」は網で、のこりなく収める意味があります。
つぎの四句では徴税の苛酷と不正を比喩で述べます。「百螣」は穀物を食い荒らす害虫。「択肉」は美味しい肉を選んで食べることですが、ここでは強い若者を選んで役夫に挑発することです。「感諷」は感懐と諷刺で詩を意味し、自分の無力を嘆くのでしょう。
つぎの八句は視点がかわり、雁門道で寒空に単衣を着て車を引いている男にあいます。「販糴」は物を売ることと米を買うことで、衣類などを「南府」(南の都会)に持っていって米に換えようというのです。それも空腹のためにやっていることで、「豈に遠く賈に服するを楽しまんや」と同情します。「半嶺」(峠の途中)で出逢った牛車は、引く人も牛もなんと辛いことかと亡国の民の苦労を嘆くのです。
金7ー元好問
野史亭雨夜感興 野史亭の雨夜 感興
私録関赴告 私録(しろく) 赴告(ふこく)に関(かか)わる
求野或有取 野(や)に求むれば 或いは取ること有らん
秋兎一寸毫 秋兎(しゅうと) 一寸の毫(ごう)
尽力不易挙 力を尽くすも 挙ぐるに易(やす)からず
衰遅私自惜 衰遅(すいち) 私(ひそ)かに自ら惜(おし)むも
憂畏当誰語 憂畏(ゆうい) 当(まさ)に誰(たれ)にか語るべき
展転天未明 展転(てんてん) 天 未(いま)だ明けず
幽窓響疏雨 幽窓(ゆうそう) 疏雨(そう)響く
⊂訳⊃
個人の記録も 国家の大事におよぶことがある
民間の資料が 将来役に立つかも知れないのだ
秋の兎の細い毛 それでつくった小さな筆で
力を尽くしても 成果をあげるのは難しい
老衰したことを 人知れず残念に思うが
この悩み不安を だれに話したらいいのだろうか
寝返りを打つが 夜はまだ明けきらず
静かな窓辺に 小雨の音がする
⊂ものがたり⊃ 元好問は残された人生を金代の詩集の編纂と歴史記録の史料収集にささげます。詩集は六十歳のときに完成しましたが。『金史』は生前にはでき上がらず、史料が残されました。
詩題の「野史亭」(やしてい)は元好問が隠居した家の書斎の名です。金代の詩集である『中州集』を完成した二年後、つぎの仕事として歴史の執筆に取りかかりますがなかなかはかどりません。そのことを嘆いた詩です。
まずはじめに自分の仕事の意義をのべます。「私録」は公の記録に対する民間の記録。「赴告」は国家の大事を報せることで、民間の記録ではあるが国家の大事におよぶことがあるといいます。だから将来の王朝が正史を編纂するとき民間に資料を求めることがあれば、自分の著作も役に立つかもしれないというのです。
その仕事がなかなか捗らないというのがつぎの二句で、「秋兎 一寸の毫」というのは兎の秋毫(秋になって細くなった毛)でつくった筆のことです。小さな筆(微力な自分)で力をつくしても成果をあげることは難しいと嘆きます。
つぎの二句は仕事の捗らない理由と焦り、孤独感をのべます。そして結びの二句、眠られずに寝返りをうちますが、夜はまだ明けようとしません。静かな窓辺に小雨の音が響いています。
元好問が亡くなったのは第四代ムンケ汗の七年(1257)で、享年六十八歳です。モンゴルはその年、南宋再征の軍を起こしていました。残された史料は元王朝が金の正史を編纂したときに利用され、金史のほとんどの部分は元好問の残した原稿がそのまま使われたといわれています。(2016.3.9)