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ティェンタオの自由訳漢詩 金ー元好問(1)

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 金1ー元好問
   山居雑誌六首 其一    山居雑誌 六首  其の一

  痩竹藤斜挂     痩竹(そうちく)  藤(ふじ)斜めに挂(かか)り
  幽花草乱生     幽花(ゆうか)  草(くさ)乱れて生ず
  林高風有態     林(はやし)高くして  風に態(たい)有り
  苔滑水無声     苔(こけ)滑かにして  水に声(こえ)無し

  ⊂訳⊃
          痩せた竹に  藤が斜めにからみつき

          草の茂みで  花はひっそり咲いている

          樹々の梢を  風はしなやかに吹き

          滑らかな苔  音もなく水は流れる


 ⊂ものがたり⊃ モンゴル軍が金の中都(北京)を占領するのは、金の貞祐三年(1215)五月のことです。その二年前、首都を包囲された金は、屈辱的な講和を結んだあと、都を河南の汴粱(河南省開封市)に遷していました。モンゴルが金を再征するのは、第二代オゴタイ汗のときです。モンゴル軍は金の哀宗の開興元年(1232)正月、汴粱を包囲し、翌年に陥落させます。
 元好問(げんこうもん:1190ー1257)は太原秀容(山西省忻県)の人。遠祖は北魏拓跋氏(鮮卑族)で、生後間もなく叔父の養子になります。若いころから漢詩の研究を深め、陶淵明や杜甫を尊敬していました。二十四歳のとき金の中都がモンゴル軍に包囲され、翌年五月に金は汴粱に遷都。二十七歳になった貞祐四年(1216)に一家はモンゴルの難を避けて太原から嵩山南麓の登封(河南省登封県)に移住しました。
 詩は登封での三十歳ころの作品と思われます。詩題に「山居」(さんきょ)とあるのは、まだ官に就いていなかったことを意味すると同時に嵩山の山ふところに住んでいたからでしょう。「幽花」はひっそりと咲いている花。「風に態有り」は風がしなをつくって吹いていることです。対句をもちいて竹・花・風・水、それに絡まる藤・草・林・苔を描き、身のまわりの自然を細やかに観察しています。

 金2ー元好問
   岐陽三首 其二         岐陽 三首  其の二

  百二関河草不横   百二(ひゃくに)の関河(かんが)  草  横たわらず
  十年戎馬暗秦京   十年の戎馬(じゅうば)  秦京(しんけい)暗し
  岐陽西望無来信   岐陽(きよう)   西望するも来信(らいしん)無く
  隴水東流聞哭声   隴水(ろうすい)  東流して哭声(こくせい)を聞く
  野蔓有情縈戦骨   野蔓(やまん)   情(じょう)有りて戦骨(せんこつ)に縈(まと)い
  残陽何意照空城   残陽(ざんよう)  何の意(い)ありてか 空城(くうじょう)を照らす
  従誰細向蒼蒼問   誰に従いてか  細(こま)かに蒼蒼(そうそう)に向かって問わん
  争遣蚩尤作五兵   争(いか)でか蚩尤(しゆう)をして五兵(ごへい)を作ら遣(し)めしと

  ⊂訳⊃
          堅固に守っていても  草を踏むほどの力もなく
          十年にわたる戦争で  長安は暗黒の街になる
          西に岐陽を望むが  なんの便りもなく
          隴水は東へながれ  泣き叫ぶ人の声がする
          蔓草は悲しげに    戦死者の骨にからみつき
          夕陽はどんな気で  からっぽの城を照らすのか
          青く広がる天空よ   誰を頼りに問い糺せばよいというのか
          どうしてあなたは   蚩尤に武器を発明させてしまったのか


 ⊂ものがたり⊃ 哀宗の正大元年(1224)、元好問は三十五歳で進士に及第し、内郷などの県令を歴任します。哀宗の正大八年(1231)、モンゴルの右軍は関中に侵入。京兆(陝西省西安市)を攻め、岐陽(陝西省鳳翔県)を落として住民を皆殺しにしました。そのとき元好問は南陽(河南省南陽市)の県令で、北の戦場を憂えてこの詩を書きました。
 首聯の二句は導入部で、これまでの経過を総括します。「百二の関河」は百分の二の兵力でも守れる要害という意味で、函谷関や黄河にかこまれた関中平野のことです。「十年」は多年の意味で、実数ではありません。「秦京」は秦の都、長安のことで、当時は京兆と称していました。
 頷聯の二句はモンゴル軍に蹂躙された岐陽のさまを想像します。岐陽は関中平野の西端にあり、西の隴山から「隴水」が東へ流れ出て渭水になります。その流れのなかから民の泣き叫ぶ声が聞こえてくるというのです。
 頚聯では戦場になった街の悲惨なさまを想像します。そして尾聯は戦争などなくなればいいと、天に訴えます。「蒼蒼」は天、神というのに等しく、「蚩尤」は神話に出てくる神で黄帝に殺されます。蚩尤ははじめて兵器をつくったとされ、「五兵」は五種類の武器のことです。

 金3ー元好問
   癸已五月三日           癸已五月三日
   北渡三首 其一          北渡 三首  其の一

  道旁僵臥満累囚   道旁(どうぼう)  僵(たお)れ臥(ふ)して  累囚(るいしゅう)満つ
  過去旃車似水流   過ぎ去(ゆ)く旃車(せんしゃ)  水の流るるに似たり
  紅粉哭随回鶻馬   紅粉(こうふん)  哭(な)いて随う  回鶻(かいこつ)の馬
  為誰一歩一迴頭   誰(た)が為に   一歩に  一(ひと)たび頭(こうべ)を迴(めぐ)らす

  ⊂訳⊃
          道端には至るところ  捕われた者が倒れ伏す

          幌馬車はその横を   流れる水のように過ぎていく

          女たちは泣きながら  モンゴルの騎馬のうしろにしたがい

          一歩歩むたびごとに  だれかを探して振りかえる


 ⊂ものがたり⊃ 詩題の「癸已」(きし)は金の天興二年(1233)のことです。このとき哀宗は都を棄てて蔡州(河南省汝南県)に逃れていました。行尚書省左司員外郎の職にあった元好問はモンゴル軍に包囲された都汴梁にとどまっていました。
 四月二十九日、元好問は官をすてて汴梁を脱出し青城に至ったともいいますが、捕らえられて東に送られたという説もあります。五月三日、元好問は黄河を渡って聊城(山東省聊城県)につきます。その途中で亡国の惨状を目撃しますが、それを詠ったのが「癸已五月三日北渡三首」です。
 元好問は馬車かなにかに乗せられて移動しています。「累囚」は太い縄でつながれた捕虜のことです。「僵れ臥して」の僵れは硬直して動かない意味で、そのそばを「旃車」(幌馬車)が通り過ぎていきます。「紅粉」は女たち、「回鶻」はウイグル族、ここではモンゴル軍のことで、宮廷の女たちがモンゴル軍のうしろについて歩かされています。彼女たちはだれかに救いを求めるように一歩ごとにうしろを振りかえるのです。

 金4ー元好問
   癸已五月三日           癸已五月三日
   北渡三首 其二          北渡 三首  其の二

  随営木仏賎於柴   営(えい)に随う木仏(もくぶつ)は  柴(しば)よりも賎(いや)し
  大楽編鐘満市排   大楽(たいがく)の編鐘(へんしょう)は  満市(まんし)に排(なら)ぶ
  虜掠幾何君莫問   虜掠(りょりゃく)すること幾何(いくばく)ぞ  君(きみ)問う莫(な)かれ
  大船渾載汴京来   大船(たいせん)に渾載(こんさい)して  汴京(べんけい)より来たる

  ⊂訳⊃
          駐屯地に集められた仏像は  薪ほどの値打もない

          雅楽の編鐘は  市場にいっぱいならんでいる

          掠奪されたのはどれだけか  もう聞くのはよしてくれ

          大きな船にごっそり積んで   汴京から運んだのだ


 ⊂ものがたり⊃ 其の二はモンゴル軍の略奪のさまです。「営」は駐屯地のことで、そこに集められている「木仏」(木の仏像)は「柴」(薪)よりも値打ちがないと詠います。「大楽」は雅楽を司る役所のことで、そこから持ち出された「編鐘」(音階の順に吊り鐘を並べた楽器)は市場にあふれています。それらはすべて都で大切に扱われていたもので、その惨状をみて嘆きの声をあげます。

 金5ー元好問
   癸已五月三日           癸已五月三日
   北渡三首 其三          北渡 三首  其の三

  白骨縦横似乱麻   白骨  縦横  乱麻(らんま)に似たり
  幾年桑梓変龍沙   幾年か  桑梓(そうし)  龍沙(りゅうさ)に変ぜし
  只知河朔生霊尽   只(た)だ知る 河朔(かさく)   生霊(せいれい)の尽くるを
  破屋疎煙却数家   破屋(はおく)  疎煙(そえん)  却(かえ)って数家(すうか)

  ⊂訳⊃
          白骨はあたり一面に  もつれた麻糸のように散らばり

          何年になるだろうか  故郷が砂漠のようになってから

          河北の地に       人は絶えたと聞いていたが

          壊れた家に疎らな煙  思いがけずのこる家数軒


 ⊂ものがたり⊃ 其の三の詩は河北の村々の状況です。「乱麻に似たり」は無秩序なさまで、白骨が散らばっています。「桑梓」は植物の名ですが、屋敷のまわりに植える習慣だったことから故郷を意味します。ここでは河北の地で、そこが「龍沙」(砂漠)のようになっています。詩には故郷太原への思いも重なっていて、故郷を捨ててから何年になるだろうか、故郷も砂漠のようになっているだろうと思うのです。
 後半二句、「河朔」(黄河の北の地)の人々は死に絶えたと聞いていたが、わずかに炊煙があがっている。生きている人がいたとほっとし、故郷にも思いを馳せるのでしょう。 (2016.3.5)

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