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ティェンタオの自由訳漢詩 2290

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 南宋43ー戴復古
    淮村兵後               淮村 兵後

  小桃無主自開花   小桃(しょうとう)  主(しゅ)無くして  自(おのず)から花を開き
  煙草茫茫帯晩鴉   煙草(えんそう)  茫茫(ぼうぼう)として晩鴉(ばんあ)を帯(お)ぶ
  幾処敗垣囲故井   幾処(いくしょ)の敗垣(はいえん)か 故井(こせい)を囲む
  向来一一是人家   向来(きょうらい)一一(いちいち)   是(こ)れ人家

  ⊂訳⊃
          ひと気のない庭の  小さな桃の木に花が咲き

          草原は靄に包まれ  日暮れに鴉が飛んでいる

          壊れた垣根が  涸れた古井戸のまわりを囲む

          これらの家は  かつては人の住みかであった


 ⊂ものがたり⊃ 「永嘉四霊」たち四人は寧宗の嘉定年間はじめになくなっていますので、開禧末年の政変を耳にしたはずですが、政権から遠いところにいました。韓侂冑は慶元五年(1199)に平原郡王に封じられ、政権の頂点にいましたが、一個の野心家に過ぎませんでした。
 韓侂冑は伐金の功をあげて自己の権威を盤石にしようと考え、開禧元年(1205)六月に軍の北上をはじめます。翌二年五月には寧宗を説得して宣戦の詔勅を発し、本格的な戦闘を開始しますが、十月になると金が反撃に転じ、宋軍は破れて退きます。宋朝では北伐に対する反対の動きがはじまり、開禧三年十一月、講和派の史弥遠(しびえん)は参内途中の韓侂冑を殺害し、その首を金に送って講和を成立させます。
 「永嘉四霊」につづく詩人たちを「江湖派」といいますが、江湖というのは朝廷に対する在野、官に対する民間のことで、「永嘉四霊」もひろい意味では江湖派といえるでしょう。その背景には江南の都市の繁栄にもとづく新しい富裕層の興隆があり、詩文への関心がありました。江湖派の代表とされる戴復古(たいふっこ)や劉克荘は社会派の視点もそなえた知識人で、江湖派のなかでは例外的な存在といえるでしょう。
 戴復古(1167ー1248?)は台州黄厳(浙江省黄石県)の人。父載敏(たいびん)が農民詩人であったことから詩を学びます。仕官をせず、浙江・福建・広西・湖南・江西・江蘇の各地を旅し、陸游・趙師秀・翁卷・劉克荘らと交流します。寧宗の嘉定元年(1208)、宋金和約のときは四十二歳でした。
 戴復古は遊歴の詩人として名をあげ、職業詩人として生涯をすごします。理宗の淳和元年(1241)に故郷に帰りますが、そのときは七十五歳になっていました。黄厳郊外の石屏山に住み、淳和八年(1248)ころになくなります。享年八十二歳くらいです。
 詩題の「淮村(わいそん) 兵後」は淮水付近の村の兵乱後という意味で、社会派の視線がみられます。無人の家の庭に小さな桃の木が花咲いていました。あたりは「煙草」(靄に包まれた草原)で、空には日暮れの鴉が飛んでいます。目を移すと、毀れた垣根が古い涸れ井戸を囲んで残っています。これらの家はみなかつて人が住んでいた家で、戦争のためにいなくなってしまったのだと乱世を嘆くのです。

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