南宋33ー辛棄疾
青玉案 元夕 青玉案 元夕
東風夜放花千樹 東風(とうふう) 夜(よる)放つ 花千樹(はなせんじゅ)
更吹落星如雨 更に吹き落し 星 雨の如し
宝馬雕車香満路 宝馬(ほうば) 雕車(ちょうしゃ) 香(こう) 路(みち)に満つ
鳳簫声動 鳳簫(ほうしょう)は声(こえ)動き
玉壺光転 玉壺(ぎょくこ)は光(ひかり)転じ
一夜魚龍舞 一夜 魚龍(ぎょりゅう)舞う
蛾児雪柳黄金縷 蛾児(がじ) 雪柳(せつりゅう) 黄金の縷(る)
笑語盈盈暗香去 笑語(しょうご) 盈盈(えいえい)として暗香(あんこう)去る
衆裏尋它千百度 衆裏(しゅうり) 它(かれ)を尋ぬ 千百度(せんひゃくど)
驀然廻首 驀然(ばくぜん) 首(こうべ)を廻(めぐ)らせば
那人却在 那(か)の人 却(かえ)って在り
燈火闌珊処 灯火(とうか) 闌珊(らんさん)たる処(ところ)に
⊂訳⊃
元宵節の夜に 春風は無数の花を咲かせ
夜空の星を 雨のように吹き散らす
飾立てた馬車 脂粉の香りは道にあふれ
笛は 鳳凰のように鳴りわたり
灯籠は 玉壺のように光りかがやき
一晩中 魚龍の舞はつづくのだ
さまざまな髪飾り 美女たちは
笑いさざめきつつ あでやかな香りを残していく
一人を追いかけて 幾度となく行き来する
見失い ふと振りかえると
そのひとは ちゃんといた
灯火の届かない 片隅に
⊂ものがたり⊃ 周必大や范成大は孝宗の心情にかなった政事家でした。淳煕十四年(1187)に上皇高宗が八十一歳の高齢で亡くなると、その二年後の淳煕十六年(1189)、すでに六十四歳になっていた孝宗は皇太子趙惇(ちょうとん:光宗)に譲位し、父高宗にならって上皇になります。
そのとき光宗は四十三歳になっていましたが、以前から心疾をわずらい政務に不安がありました。ところが光宗の皇后李氏は上皇の政事介入を好まず、光宗を擁して実権を握ろうとします。紹煕五年(1194)六月、上皇孝宗が六十七歳で亡くなると、李皇后はいよいよ自分の天下がきたと思いますが、そのころ宰相の地位にいた趙汝愚(ちょうじょぐ)がそれをさえぎります。
趙汝愚は呉太皇太后(高宗の皇后)を動かして光宗に譲位をせまり、皇太子趙拡(ちょうかく)が即位して南宋第四代の天子寧宗になります。趙汝愚が右丞相に就任して政権の中枢に立ったことはいうまでもありません。光宗の治世五年間は孝宗から寧宗に移る過渡期で、孝宗崩御の前年、紹煕四年(1193)九月に范成大が六十八歳でなくなっており、このことは南宋四大家時代の終わりを告げるできごとでした。
生き残っていた陸游や朱熹、周必大らは寧宗初期の政事混乱に巻き込まれることになりますが、辛棄疾(しんきしつ)もそのひとりでした。辛棄疾は朱熹より十歳若い人ですが、孝宗期の詩人といえます。
辛棄疾(1140ー1207)は斉州歴城(山東省済南市)の人。金の占領下に成長し、高宗の紹興三十一年(1161)、二十二歳のとき、金の海陵王軍が采石磯(さいせきき)の戦に敗れて動揺するなか、郷党の若者二千余人を集めて抗金に立ちあがり、耿京(こうきょう)の軍に投じます。耿京が味方を裏切った張安国(ちょうあんこく)に殺されると、辛棄疾は張安国を襲って捕らえ、金軍と戦いながら長江をわたり、建康(江蘇省南京市)で張安国を処刑し、臨安にいたって南宋に仕えました。
孝宗の乾道四年(1168)に辛棄疾は建康通判に任じられ、滁州の知州事などを務めたあと、淳煕二年には江西の提点刑獄になります。頼文西(らいぶんせい)のひきいる茶商の暴動を鎮圧し、そのご各地の按撫使を歴任しますが、しばしば上書して対金主戦論をとなえたために講和派から弾劾されました。
孝宗の淳煕九年(1182)、四十三歳のときに職を辞し、以後二十年間、信州(江西省上饒市)に隠棲しますが、寧宗の嘉泰三年(1203)、再び起用されて浙東安撫使兼知紹興府事になり、山陰(浙江省紹興市)に赴任します。その年末には都に召されて知鎮江府事になりますが、その抗戦論は韓侂冑(かんたくちゅう)に無視され、開禧三年(1207)、憂憤のうちに世を去りました。享年六十八歳です。
詞題の「青玉案」(せいぎょくあん)は曲名で、その曲につけた詞です。「元夕」(げんせき:元宵節の夜)という副題がついており、元宵節は陰暦正月十五日、上元の節句のことです。元宵節は元宵観灯ともいわれ、その日は夜から宮殿や寺院、庶民の家の軒先にいたるまで、街路には灯籠がともされ、それを見物して歩く人で賑わいました。都臨安にきてはじめて元宵節に接した二十三歳のころの作品と思われます。
上片のはじめ二句は灯籠が樹に花が咲いたように、あるいは星が空から降るように街中を飾っているさまを詠います。その夜は普段街にでない女性も着飾って観灯を楽しむことが許されていましたので、「宝馬 雕車 香 路に満つ」のです。また人々は魚や龍のお面をつけ、笛に合わせて踊り歩き、まるで龍宮城に遊ぶようでした。
下片の「蛾児 雪柳 黄金の縷」は女性のさまざまな髪飾りのことで、女性たちをあらわします。美女たちが笑いさざめきながら脂粉の香をのこしていくのです。以下の四句は街ゆく女性たちのなかにひとりの娘をみつけ、あとを追って幾度も大通りを行き来するさまです。「驀然」は一散にすすむさまですが、心の動揺をしめすのでしょう。
追いかけていた娘を見失って振り向くと、「那人」(その娘)は「燈火 闌珊たる処に」いました。「闌珊」は物事が尽きて衰えるさまで、娘が灯火のとどかない目立たない場所にいるのを見出したのです。
青玉案 元夕 青玉案 元夕
東風夜放花千樹 東風(とうふう) 夜(よる)放つ 花千樹(はなせんじゅ)
更吹落星如雨 更に吹き落し 星 雨の如し
宝馬雕車香満路 宝馬(ほうば) 雕車(ちょうしゃ) 香(こう) 路(みち)に満つ
鳳簫声動 鳳簫(ほうしょう)は声(こえ)動き
玉壺光転 玉壺(ぎょくこ)は光(ひかり)転じ
一夜魚龍舞 一夜 魚龍(ぎょりゅう)舞う
蛾児雪柳黄金縷 蛾児(がじ) 雪柳(せつりゅう) 黄金の縷(る)
笑語盈盈暗香去 笑語(しょうご) 盈盈(えいえい)として暗香(あんこう)去る
衆裏尋它千百度 衆裏(しゅうり) 它(かれ)を尋ぬ 千百度(せんひゃくど)
驀然廻首 驀然(ばくぜん) 首(こうべ)を廻(めぐ)らせば
那人却在 那(か)の人 却(かえ)って在り
燈火闌珊処 灯火(とうか) 闌珊(らんさん)たる処(ところ)に
⊂訳⊃
元宵節の夜に 春風は無数の花を咲かせ
夜空の星を 雨のように吹き散らす
飾立てた馬車 脂粉の香りは道にあふれ
笛は 鳳凰のように鳴りわたり
灯籠は 玉壺のように光りかがやき
一晩中 魚龍の舞はつづくのだ
さまざまな髪飾り 美女たちは
笑いさざめきつつ あでやかな香りを残していく
一人を追いかけて 幾度となく行き来する
見失い ふと振りかえると
そのひとは ちゃんといた
灯火の届かない 片隅に
⊂ものがたり⊃ 周必大や范成大は孝宗の心情にかなった政事家でした。淳煕十四年(1187)に上皇高宗が八十一歳の高齢で亡くなると、その二年後の淳煕十六年(1189)、すでに六十四歳になっていた孝宗は皇太子趙惇(ちょうとん:光宗)に譲位し、父高宗にならって上皇になります。
そのとき光宗は四十三歳になっていましたが、以前から心疾をわずらい政務に不安がありました。ところが光宗の皇后李氏は上皇の政事介入を好まず、光宗を擁して実権を握ろうとします。紹煕五年(1194)六月、上皇孝宗が六十七歳で亡くなると、李皇后はいよいよ自分の天下がきたと思いますが、そのころ宰相の地位にいた趙汝愚(ちょうじょぐ)がそれをさえぎります。
趙汝愚は呉太皇太后(高宗の皇后)を動かして光宗に譲位をせまり、皇太子趙拡(ちょうかく)が即位して南宋第四代の天子寧宗になります。趙汝愚が右丞相に就任して政権の中枢に立ったことはいうまでもありません。光宗の治世五年間は孝宗から寧宗に移る過渡期で、孝宗崩御の前年、紹煕四年(1193)九月に范成大が六十八歳でなくなっており、このことは南宋四大家時代の終わりを告げるできごとでした。
生き残っていた陸游や朱熹、周必大らは寧宗初期の政事混乱に巻き込まれることになりますが、辛棄疾(しんきしつ)もそのひとりでした。辛棄疾は朱熹より十歳若い人ですが、孝宗期の詩人といえます。
辛棄疾(1140ー1207)は斉州歴城(山東省済南市)の人。金の占領下に成長し、高宗の紹興三十一年(1161)、二十二歳のとき、金の海陵王軍が采石磯(さいせきき)の戦に敗れて動揺するなか、郷党の若者二千余人を集めて抗金に立ちあがり、耿京(こうきょう)の軍に投じます。耿京が味方を裏切った張安国(ちょうあんこく)に殺されると、辛棄疾は張安国を襲って捕らえ、金軍と戦いながら長江をわたり、建康(江蘇省南京市)で張安国を処刑し、臨安にいたって南宋に仕えました。
孝宗の乾道四年(1168)に辛棄疾は建康通判に任じられ、滁州の知州事などを務めたあと、淳煕二年には江西の提点刑獄になります。頼文西(らいぶんせい)のひきいる茶商の暴動を鎮圧し、そのご各地の按撫使を歴任しますが、しばしば上書して対金主戦論をとなえたために講和派から弾劾されました。
孝宗の淳煕九年(1182)、四十三歳のときに職を辞し、以後二十年間、信州(江西省上饒市)に隠棲しますが、寧宗の嘉泰三年(1203)、再び起用されて浙東安撫使兼知紹興府事になり、山陰(浙江省紹興市)に赴任します。その年末には都に召されて知鎮江府事になりますが、その抗戦論は韓侂冑(かんたくちゅう)に無視され、開禧三年(1207)、憂憤のうちに世を去りました。享年六十八歳です。
詞題の「青玉案」(せいぎょくあん)は曲名で、その曲につけた詞です。「元夕」(げんせき:元宵節の夜)という副題がついており、元宵節は陰暦正月十五日、上元の節句のことです。元宵節は元宵観灯ともいわれ、その日は夜から宮殿や寺院、庶民の家の軒先にいたるまで、街路には灯籠がともされ、それを見物して歩く人で賑わいました。都臨安にきてはじめて元宵節に接した二十三歳のころの作品と思われます。
上片のはじめ二句は灯籠が樹に花が咲いたように、あるいは星が空から降るように街中を飾っているさまを詠います。その夜は普段街にでない女性も着飾って観灯を楽しむことが許されていましたので、「宝馬 雕車 香 路に満つ」のです。また人々は魚や龍のお面をつけ、笛に合わせて踊り歩き、まるで龍宮城に遊ぶようでした。
下片の「蛾児 雪柳 黄金の縷」は女性のさまざまな髪飾りのことで、女性たちをあらわします。美女たちが笑いさざめきながら脂粉の香をのこしていくのです。以下の四句は街ゆく女性たちのなかにひとりの娘をみつけ、あとを追って幾度も大通りを行き来するさまです。「驀然」は一散にすすむさまですが、心の動揺をしめすのでしょう。
追いかけていた娘を見失って振り向くと、「那人」(その娘)は「燈火 闌珊たる処に」いました。「闌珊」は物事が尽きて衰えるさまで、娘が灯火のとどかない目立たない場所にいるのを見出したのです。