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ティェンタオの自由訳漢詩 2277

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 南宋30ー伝・朱熹
     偶 成               偶 成

  少年易老学難成   少年  老い易(や)く   学  成り難し
  一寸光陰不可軽   一寸の光陰(こういん)  軽(かろ)んず可からず
  未覚池塘春草夢   未(いま)だ覚(さ)めず  池塘(ちとう)  春草(しゅんそう)の夢
  階前梧葉已秋声   階前(かいぜん)の梧葉(ごよう)  已(すで)に秋声(しゅうせい)

  ⊂訳⊃
          若者は老い易く   学問は成就しにくい

          わずかな時間も  無駄にはできないのだ

          池の堤の草の上  春の夢から覚めないうちに

          はやくも秋風が   庭の青桐の葉を鳴らしている


 ⊂ものがたり⊃ 南宋の時代、士大夫の拠って立つ倫理は儒学でした。一般民衆のあいだでは仏教や道教を信仰する者も多く、現世を消極的にとらえて偶像崇拝にはしる仏教や道教は、儒学にとって否定すべき淫祠・邪教でした。なかでも仏教は彼岸の世界を説いて深遠でしたので、現世的な聖人君子の道を説く儒学は仏教の哲理に対抗できるだけの哲学をもつ必要がありました。
 儒学を理念として体系化する動きは北宋洛陽の道学(理学)にはじまりますが、それを大成するのが朱熹(しゅき)です。朱熹は後世、朱子と尊称され、朱子学は儒学の本流を形づくることになりますが、当初は偽学として迫害されます。朱熹は詩人としてはみずから「僕は詩を能くせず、平生の僥倖(ぎょうこう)多くこれに類す」といっています。
 朱熹(1130ー1200)は徽州婺源(江西省婺源県)の人。高宗の建炎四年(1130)に尤渓(福建省)で生まれます。十四歳のとき父を亡くし、紹興十八年(1148)、十九歳で進士に及第します。李延年(りえんねん)に師事して道学を学び、紹興二十三年(1153)、二十四歳のとき同安(福建省)の主簿になりますが、在任四年で帰郷します。
 家居すること二十余年、孝宗の淳煕六年(1179)に南興軍(江西省)の知事になり、白鹿洞書院を復興します。寧宗の慶元初年(1195頃)、召されて待制院侍講になりますが、韓侂冑(かんたくちゅう)に排斥されて退きます。朱子学は偽学と称され、その大成者であった朱熹は迫害を受けました。慶元六年(1200)、偽学の徒の汚名のまま亡くなります。享年七十一歳です。
 詩「偶成」(ぐうせい)は日本では朱子作としてはなはだ有名ですが、中国では朱熹の作品と認められていません。日本で爆発的に有名になったのは明治時代のことで、「伝・朱熹」とするのが妥当でしょう。詩は名作といってよく、起承句はひろく愛唱されています。
 前半でまず教訓をのべます。「少年」は中国では二十代のことで、十代は弱年といいます。「光陰」は太陽と月のことで時間を意味し、「一寸の光陰」(わずかの時間)もないがしろにしてはいけないと詠います。
 後半、「春草」は春の若草のことで、池の堤に寝そべってまだ若いと思っていると、人はいつの間にか年をとってしまうと諭します。「階前」は中国の建築様式で中庭から堂に上がる階段のことです。その中庭に生えている「梧葉」(梧桐の葉)には、すでに秋風が吹いていると歳月が速く過ぎ去ることを詠います。

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