南宋29ー尤袤
落 梅 落 梅
清渓西畔小橋東 清渓(せいけい)の西畔(せいはん) 小橋(しょうきょう)の東
落月紛紛水映空 月に落ちて 紛紛(ふんぷん) 水(みず)空(そら)を映す
五夜客愁花片裡 五夜(ごや)の客愁(かくしゅう) 花片(かへん)の裡(うち)
一年春事角声中 一年の春事(しゅんじ) 角声(かくせい)の中(なか)
歌残玉樹人何在 歌は玉樹(ぎょくじゅ)に残(ざん)するも 人(ひと)何(いず)くにか在る
舞破山香曲未終 舞(まい)は山香(さんこう)を破るも 曲(きょく)未(いま)だ終わらず
卻憶孤山酔帰路 卻(かえ)って憶(おも)う 孤山(こざん) 酔帰(すいき)の路(みち)
馬蹄香雪櫬東風 馬蹄(ばてい)の香雪(こうせつ) 東風(とうふう)に櫬(しん)せしを
⊂訳⊃
清らかな谷川に 小さな橋 一面の花吹雪
月の光のなか 夜空を映す水面に落ちていく
旅の寂しさが 花びらのひとつひとつに宿り
過ぎゆく春の悲しみは 角笛の音とともに沁みわたる
玉樹後庭花は残っても 人はどこにいってしまったのか
舞姫が梅の香を払っても 曲はまだ終わらない
想い出すのは 酔って孤山から帰る路
路上に散り敷く梅の花 春風に抱かれているようだった
⊂ものがたり⊃ 尤袤(ゆうぼう:1127ー1194)は常州無錫(江蘇省無錫市)の人。南宋建国の年、楊万里とおなじ年に生まれ、幼くして奇童と称されました。太学に入ってからは詞賦で知られ、高宗の紹興十八年(1148)に二十二歳で進士に及第します。
泰興(江蘇省)の県令のあと中央に移り、累進して太常少卿にいたります。光宗の即位後、周必大の党として弾劾され、一時退官します。ほどなく婺州(浙江省金華市)の知州事になり、太平州(安徽省当涂県)に移りますが、召されて中央にもどり給事中から礼部尚書に昇進します。しかし、国事の苦労が重なり、光宗の紹煕五年(1194)に疾に倒れ、享年六十八歳でなくなりました。南宋四大家のひとりですが、作品は散逸してわずかしか残っていません。
詩の制作年は不明です。詩中に「孤山」(杭州の西湖西北岸にある小島)がでてきますが、思い出として描かれるものです。まず、はじめの二句で眼前の景を叙して場面を設定します。中四句二聯の対句、はじめの対句は「五夜の客愁」と「一年の春事」を対比しながら、旅の夜明けの寂しさと過ぎゆく春の悲しみを倒置表現で暗示的に詠います。
つぎの対句の「玉樹」は南朝陳の後主(こうしゅ)作「玉樹後庭花」のことで、亡国の歌は残っていても、それを歌った人はどこへ行ってしまったのかと詠います。「舞は山香を破る」にもなんらかの出典があると思われますが未詳です。舞袖が梅の香を払って薫りは散ってしまったが、曲は終わらずにつづいていると人生の儚さを詠います。
結びの二句では人生は悲しいことばかりではなかったと詠います。懐かしく思い出されるのは「孤山 酔帰の路」です。路には「香雪」(香りのある雪)、つまり梅の花びらが散りしき、花びらを馬蹄で踏んでゆきながら「東風」(春風)に包まれていたようだったと詠嘆します。
落 梅 落 梅
清渓西畔小橋東 清渓(せいけい)の西畔(せいはん) 小橋(しょうきょう)の東
落月紛紛水映空 月に落ちて 紛紛(ふんぷん) 水(みず)空(そら)を映す
五夜客愁花片裡 五夜(ごや)の客愁(かくしゅう) 花片(かへん)の裡(うち)
一年春事角声中 一年の春事(しゅんじ) 角声(かくせい)の中(なか)
歌残玉樹人何在 歌は玉樹(ぎょくじゅ)に残(ざん)するも 人(ひと)何(いず)くにか在る
舞破山香曲未終 舞(まい)は山香(さんこう)を破るも 曲(きょく)未(いま)だ終わらず
卻憶孤山酔帰路 卻(かえ)って憶(おも)う 孤山(こざん) 酔帰(すいき)の路(みち)
馬蹄香雪櫬東風 馬蹄(ばてい)の香雪(こうせつ) 東風(とうふう)に櫬(しん)せしを
⊂訳⊃
清らかな谷川に 小さな橋 一面の花吹雪
月の光のなか 夜空を映す水面に落ちていく
旅の寂しさが 花びらのひとつひとつに宿り
過ぎゆく春の悲しみは 角笛の音とともに沁みわたる
玉樹後庭花は残っても 人はどこにいってしまったのか
舞姫が梅の香を払っても 曲はまだ終わらない
想い出すのは 酔って孤山から帰る路
路上に散り敷く梅の花 春風に抱かれているようだった
⊂ものがたり⊃ 尤袤(ゆうぼう:1127ー1194)は常州無錫(江蘇省無錫市)の人。南宋建国の年、楊万里とおなじ年に生まれ、幼くして奇童と称されました。太学に入ってからは詞賦で知られ、高宗の紹興十八年(1148)に二十二歳で進士に及第します。
泰興(江蘇省)の県令のあと中央に移り、累進して太常少卿にいたります。光宗の即位後、周必大の党として弾劾され、一時退官します。ほどなく婺州(浙江省金華市)の知州事になり、太平州(安徽省当涂県)に移りますが、召されて中央にもどり給事中から礼部尚書に昇進します。しかし、国事の苦労が重なり、光宗の紹煕五年(1194)に疾に倒れ、享年六十八歳でなくなりました。南宋四大家のひとりですが、作品は散逸してわずかしか残っていません。
詩の制作年は不明です。詩中に「孤山」(杭州の西湖西北岸にある小島)がでてきますが、思い出として描かれるものです。まず、はじめの二句で眼前の景を叙して場面を設定します。中四句二聯の対句、はじめの対句は「五夜の客愁」と「一年の春事」を対比しながら、旅の夜明けの寂しさと過ぎゆく春の悲しみを倒置表現で暗示的に詠います。
つぎの対句の「玉樹」は南朝陳の後主(こうしゅ)作「玉樹後庭花」のことで、亡国の歌は残っていても、それを歌った人はどこへ行ってしまったのかと詠います。「舞は山香を破る」にもなんらかの出典があると思われますが未詳です。舞袖が梅の香を払って薫りは散ってしまったが、曲は終わらずにつづいていると人生の儚さを詠います。
結びの二句では人生は悲しいことばかりではなかったと詠います。懐かしく思い出されるのは「孤山 酔帰の路」です。路には「香雪」(香りのある雪)、つまり梅の花びらが散りしき、花びらを馬蹄で踏んでゆきながら「東風」(春風)に包まれていたようだったと詠嘆します。